[第10章]定時退社をかけた、王都パンデミック阻止・前編(第2話)
「おい! 奥の3人以外の者をそこから引き離せ! 迅速にトリアージしろ!」
西日が広場を赤く染める中、ロバートがセラムの脳内から送られたカンペを元に、声をからして怒号をあげる。
教会の聖騎士たちが「この若造は何を言っているんだ」と困惑し、松明を握り直す中、セラムはすでに影のように素早く動いていた。パニックに陥り、互いに押し合いへし合いする群衆の間を縫うようにすり抜けながら、暴れる患者たちの衣服の擦れ、呼吸の荒さ、ときおり漏れる苦言に至るまで、あらゆる情報を脳内検査室へ次々と放り込んでいた。
(前世の総合病院の救急外来でも、土曜の夜や災害時にパニックに陥った集団が押し寄せる地獄の現場を何度も経験した。あの時も時間との戦いだったが、今の私には脳内フルバーストがある。採血をせずとも、至近距離での視診と触診だけで、何十人分ものバイタルデータを頭の中で同時に処理できる――!)
セラムの頭脳という名の超高速デスクの上で、安全、経過観察、および手遅れの危険というトリアージ結果が、冷徹な手際で次々とカルテのように割り振られていく。
「バルド神官長! そこにいる手前の男を今すぐ解放しろ! その男は悪魔の呪いなどではなく、単なる脱水症状による意識障害(せん妄)だ! 水を怖がっているように見えたのは、水を拒絶しているのではない。極度の喉の腫れによって物が飲み込めず、激痛に怯えていただけの、ただの急性扁桃炎だ! 今すぐ抗菌作用のある薬草を投与すればすぐにでも治る!」
ロバートの言葉は、まるで全てを見通している神の託宣のように広場に響き渡った。
その隙にセラムは、男の前にそっと歩み寄ると、小さな霧吹きを取り出した。男の口を開けさせ、躊躇なくシュッと吹き付けたのは、天然の海藻灰から精製した微量ヨウ素に、高い消炎・鎮痛作用を持つ特製の薬草エキスを絶妙な浸透圧で配合した殺菌消炎スプレーだ。
ひんやりとした霧が喉の奥を包み込んだ瞬間、男は驚いたように目を丸くした。ヨウ素の強力な殺菌力とハーブの麻酔・消炎効果が、腫れ上がった患部にダイレクトに作用していく。
「あ……あれ? 俺は一体……? 喉の焼けるような痛みが、すっと引いていく……。俺は、狂っていなかったのか……?」
「ば、馬鹿な! 悪魔の呪いが、一瞬の霧で消えただと……!?」
神官たちが驚愕に目を見開き、掲げていた松明を思わず落としそうになる。
「消えたのではない、最初から呪いなどではないと言っているだろう!」
ロバートはマントを翻し、腰に手を当てて、最高にキレのあるドヤ顔を決めた。これ以上ないほどの「名医の威厳」を全身から醸し出しているが、その実、背中越しにセラムから送られてくる驚異的なデータ精度に、心の中で一番ビビっているのはロバート自身だった。
「本当に『獣の病(狂犬病)』を発症し、病原体に中枢神経を侵されているのは、そこに拘束されている3人のみだ。彼らはすでに病原体が脳に達し、神経を破壊し尽くしている……。残念だが、この段階に至った者を、現代の医術で救う手立てはない」
ロバートの言葉の裏で、セラムは影に隠れながら、きつく唇を噛んだ。
(……そうだ。狂犬病は発症してしまえば、前世の現代医療をもってしても致死率ほぼ100%の絶望の病。異世界のこの設備で彼らを救う術はない。だが――裏を返せば、『噛まれた直後で、まだ発症していない人間』なら、今すぐ適切な処置(抗体投与)をすれば100%助かる。そして、これ以上の感染拡大を防ぐには、王都にこの病原体を持ち込んだ『真の感染源』を叩き潰すしかないんだ)
セラムは、発症して口から泡を吹き、完全に理性を失って拘束されている患者の衣服の破れ目に目を留めた。
引き裂かれたボロ切れの隙間からのぞく生々しい傷口。そこには、鋭い「獣の歯形」が残されていた。だが、神官たちが騒ぎ立てるような大きな狂犬の歯形にしては、あまりにも小さく、かつ不自然に深い点状の傷が並んでいる。
(犬じゃない。この歯形の幅、速度、そして一度にこれだけの人数を連続して襲っている圧倒的な機動力……。脳内シミュレート完了だ。王都の狭い路地裏や建物の隙間を俊敏に駆け回り、住人を無差別に噛みつき回れる小動物――『狂躁状態になった野生のコウモリ、あるいは下水道に巣食うイタチの類』だ!)
セラムの小さな囁きを聞いたロバートは、まるで最初から知っていたかのように、即座に神官長へ堂々と指を突きつけた。
「おい、神官長! 無実の街を焼き払っている暇があったら、今すぐ聖騎士団の兵力を北街の地下通路、下水道へと向かせろ! そこに、この狂気ウイルスを撒き散らしている『真の暗殺者』が潜んでいる! そいつらを一匹残らず駆除しなければ、いくら地上を燃やしたところで、パンデミックは永遠に止まらんぞ!」
「な、何だと!? 地下だと!? 悪魔の軍勢は下水道にいるというのか!?」
神官長が慌てて部下に指示を出し、銀色の甲冑を鳴らした聖騎士団が下水道のハッチへと一斉に突入していく。
広場のパニックは、ロバートの的確な指示によって、急速にコントロールされ始めていた。暴徒化しかけていた住民たちも、自分たちが悪魔に呪われたわけではないと知り、安堵の涙を流している。
(よし……これで北街の焼き討ちは止められた。私の『琥珀の泡亭』が灰になる最悪のシナリオは完全に回避できたな。時計の針は16時50分。あと10分で待ちに待った定時だ。今夜はあのモツ煮込みを絶対に食べる……)
セラムがホッと胸をなでおろし、白衣のポケットに手を戻した、その瞬間だった。
「大変だ! ロバート先生、セラム殿!! 貧民街の診療所に、さらに30人以上の『獣に噛まれた住人』が押し寄せてきた! みんな『次は俺たちが狂い死ぬんだ』って絶望して暴れて、診療所の中がめちゃくちゃだ!」
遠くから息を切らせて走ってきた診療所の見習いスタッフが、悲痛な声をあげて広場に転がり込んできた。
(……30人の未発症の被噛曝者。狂犬病の潜伏期間は数週間から数ヶ月。だが、一刻も早く『抗体』を投与しなければ、彼らは全員、数ヶ月後に100%発症して狂い死ぬ。もしそんなことになれば、今後の私の定時退社は、彼らの経過観察とパニック対応、果ては葬儀の手配で永遠に消滅する……!)
セラムの頭の中で、定時退社を告げるはずの鐘の音が、けたたましい超過勤務(残業)の警告音に聞こえ始めた。
(17時を過ぎる。だが――平和なアフター5を脅かす未曾有の残業案件、絶対にここで、根徹やしにしてやる……!)
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