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[第9章]死霊術師(ネクロマンサー)の汚名と、目に見えない暗殺者(第3話)

「おい! そこで何をしている!」


 井戸の滑車を回し、バケツを引き上げた瞬間、数人の男たちと魔術医官の鋭い視線がセラムに突き刺さった。

 広場を埋め尽くす群衆の目が、一斉に井戸の傍らに立つ白衣の男へと向く。


「……見ての通り、水を採取しているだけですが」


セラムは一切動じることなく、汲み上げたばかりの井戸水をスポイトで吸い上げ、持参した数本の試験管へと手際よく分配していく。


「無礼者め! 私は宮廷より遣わされた魔術医官、バルドである! 今まさに、その井戸に呪いをかけた死霊術師の老婆を処刑せんとしている神聖な場だぞ。その汚死水(おしすい)に触れるとは、お前も呪われたいのか!」


 魔術医官バルドが、金の装飾が施された杖をセラムに突きつけた。

 群衆が怯えたようにざわめき、老婆の足元の薪に松明の火が近づけられる。


「呪い、ですか。相変わらず主観に満ちた診断ですね」


 セラムは試験管の並んだラックを片手に、毅然とした足取りで広場の中央、バルドの正面へと歩み出た。


「何だと……!?」


「バルド医官。あなたが『死霊術の呪い』と呼んでいる奇病の正体は、この井戸水の中に潜む、目に見えない極小の生物――『細菌』です。傷口からそれが入ることで、肉を腐らせる毒素を出していたに過ぎません。その証拠に、この水を浴びただけの人間は何ともないでしょう?」


「ふははは! 愚かな! 目に見えぬ生物だと? そんな詭弁で、この魔女の罪が消えると思うな! 水が清らかに見えるのは、我が配下たちが事前に『聖水』を撒いて怨霊の力を抑え込んでいるからだ!」


 バルドが勝ち誇ったように笑う。


 群衆も「そうだ、水は澄んでいるじゃないか!」と口々に叫んだ。


 顕微鏡も検査室もないこの世界では、「透明な水=安全」という常識を覆すのは容易ではない。


(……やれやれ。肉眼で濁りが見えないから安全、などという前世紀の衛生観念でよく医官が務まりますね。聖水とやらも、ただの気休めの香水でしょうに。――ならば、彼らの大好きな『視覚的変化』で分からせてあげるまでです)


 セラムは白衣のポケットから、もう一つのガラス瓶を取り出した。

 中に入っているのは、彼が前世の知識を応用し、事前にこの世界の動物の血液(免疫抗体)から精製しておいた「特異的沈殿試薬(抗A群レンサ球菌血清)」である。


「バルド医官、あなたが撒いた聖水とやらが、いかに無力か証明しましょう」


 セラムは井戸水の入った試験管に、その試薬を数滴、正確に滴下した。


「おい、何をする気だ? 澄んだ水に透明な液体を混ぜたところで、何も――」


バルドが鼻で笑おうとした、その瞬間だった。

滴下された無色透明の液体が井戸水と混ざり合った直後、試験管の中で「モコモコとした白い澱(おり)」が急速に湧き上がり、まるで雪が降るように底へと沈殿していったのだ。


「なっ……な、なんだそれは!? 水が突然、濁ったぞ!?」


 バルドの顔から余裕が消え、杖を持つ手が微かに震えた。

 群衆からも「おおっ!」「呪いの霧か!?」と驚愕の声が上がる。


「オカルトな解釈は結構。これはただの化学・免疫反応です」


 セラムは白く濁った試験管を群衆に掲げて見せた。


「この水の中には、確かに『真犯人』が潜んでいます。私の作った試薬が、水の中に浮遊するバクテリアの成分と特異的に結合し、目に見える塊となって沈殿したのです。――これが、あなたが『清めた』と言い張った井戸水の正体ですよ」


「ば、馬鹿な! そんな小細工、何かの手品だ! たかが水の中の小さな塵が、どうして一晩で人間の足を腐らせるというのだ!」


 バルドが必死に声を荒らげるが、セラムの冷徹な追撃は止まらない。


「では、もう一つ。その『人食いバクテリア』が、人間を殺す強力な『毒素(プロテアーゼや外毒素)』を産生している証拠をお見せします」


 セラムは別の試験管を取り出した。

 そこには、大工の傷口から採取した浸出液と、井戸水を反応させた液体が入っている。

 そこに、肉の成分(タンパク質)を溶かした溶液を注ぎ入れた。


「見ていてください。これが、患者の足の筋肉の膜(筋膜)で起きていた現象の縮図です」


 セラムが試験管を軽く振ると、注ぎ込まれたタンパク質の凝固塊が、見る見るうちにサラサラとした透明な液体へと分解され、溶けて消えてしまった。


「バクテリアが出す毒素が、これほどの速度で肉の組織をドロドロに融解させるのです。呪いでも怨霊でもなく、ただの生物学的な破壊現象(壊死性筋膜炎)。――バルド医官、あなたの言う『鑑定』とやらは、このミクロの証明よりも確かな根拠に基づいているのですか?」


 圧倒的な視覚的エビデンスを前に、広場は静まり返った。

 松明を持っていた住人たちの手が、だらりと下がる。

 彼らの目は、もはやバルドではなく、科学の力で「見えない恐怖」を白日の下に晒したセラムに釘付けになっていた。


「く、くそっ……! ええい、問答無用だ! その老婆を早く火炙りに――」


 バルドが狂ったように叫んだその時、広場の奥から、激しく息を切らせた男が走り込んできた。診療所で手伝いをしていたスラムの若者だ。


「お、おい! みんな聞け! ロバート先生の診療所の大工の兄ちゃんが……たった今、意識を取り戻したぞ! 高熱が下がって、腐りかけてた足の腫れが引き始めてるんだ!」


「なんだって!?」


 群衆に、今日一番の衝撃が走った。


「宮廷の医官様たちが『絶対に治らない呪い』だって見捨てた病気だぞ!?」


「ロバート先生のところの助手(セラム)が、何か特別な薬の点滴(てんてき)を打ったら、一発で効いたって!」


 住人たちの視線が、一気にバルドへの不信感へと変わる。


「医官様……あんた、何も分かってなかったんじゃないのか?」


「危うく、無実の婆さんを人殺しにするところだったぞ!」


「ひ、ひぃっ……!」


 詰め寄る群衆の圧力に圧され、バルドは杖を落とし、顔を真っ青にして後ずさりした。

 セラムは懐から懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。

時刻は16時15分。


(……よし。点滴の有効性も証明され、集団ヒステリーも鎮火。あとはこの井戸を一時閉鎖し、塩素の代替となる強アルカリ生石灰で徹底的に消毒すれば、今回の件は定時(17時)までにすべて片付きますね)


 セラムは、杭に縛り付けられたまま呆然としている老婆へと歩み寄り、その縄を静かにナイフで切り落とした。


「お婆さん、災難でしたね。……さあ、17時までに井戸の消毒作業を終わらせますよ。残業だけは、絶対に御免ですから」


 目に見えない暗殺者を科学でハサミ討ちにしたセラムは、夕暮れの街で、誰よりも早く帰路につく準備を始めるのだった。

よろしければ何点でも構いませんので評価やコメントをいただけると嬉しいです。

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