[第9章]死霊術師(ネクロマンサー)の汚名と、目に見えない暗殺者(第2話)
「いいかセラム殿、この薬液の全量を男の腕に流し込めばいいのだな!?」
割れた窓から暴徒の怒号が吹き込む診療所で、ロバートがガラス瓶を掲げて叫んだ。
「ええ。今から静脈路を確保します。先生、大工の左腕を縛って、駆血してください」
セラムは診療所の備品である点滴用の輸液チューブを滑らかに手繰り寄せ、ガラス瓶に接続した。
ロバートが手早く男の肘の内側の少し上を布で縛ると、高熱で脱水気味の皮膚の下から、怒張した正中皮静脈が浮き上がってきた。
セラムは高濃度アルコールに浸した綿をピンセットで掴み、穿刺予定部位を中心に、内側から外側に向かって同心円を描くように迷いなく拭った。
往復させて拭いたら、周囲の常在菌を穿刺部位に塗りつけるハメになるからだ。
「ちょっとチクッとしますねー」
チクリ、と銀針が男の皮膚を貫き、確かな手応えとともに血管を捉えた。
セラムは素早く駆血帯を解き、自家製ペニシリンの点滴を開始した。
「よし、薬液は滴下し始めたな! これでこの男は助かるのか!?」
「ええ。脳内での微量液体希釈法シミュレート通り、ペニシリンがこの人食いバクテリア(レンサ球菌)の細胞壁合成を根底から破壊します。進行はすぐに止まるはずです。先生はここに残り、大工の男の容態を見ていてください。……17時まで、彼の命を繋ぎ止めるのが先生の仕事です」
「なっ……!? では、セラム殿、君は一人でどこへ行く気だ!?」
セラムは返事の代わりに、白衣のポケットにいくつかのガラス試験管と、現場検証用の資材を詰め込んだ。
「言ったはずです。17時までにこの『呪い』の正体を大衆の目の前で暴き、と。大工の男をいくら治療したところで、あの井戸からレンサ球菌が供給され続けていれば、スラムの住人は次々に餌食になります。そうなれば私の残業は明日も続くんですよ」
「し、しかし外は完全に暴徒と化している! 焼き討ちに遭いかねんというのに、飛び込むのは自殺行為だ!」
「暴徒よりも恐ろしいのは、エンドレスな超過勤務です。……行ってきます」
診療所の裏口の鍵を静かに開け、セラムは初夏の不快な熱気が満ちる路地裏へと滑り出した。
スラムの中央広場は、狂気と熱気に満ちていた。
「火をつけろ!」
「このババアが死霊術で街に呪いをかけたんだ!」
広場の中央には、頑丈な木の杭に縛り付けられた、みすぼらしい身なりの老婆がいた。
彼女の足元には、乾燥した薪がうずたかく積まれている。
怯えきったスラムの住人たちを扇動しているのは、きらびやかな法衣をまとった、いかもしゃくに障りそうな男――宮廷から派遣された魔術医官だった。
「静粛にせよ、迷える子羊たちよ!」
魔術医官が、聖なる意匠が施された杖を掲げて高らかに宣言する。
「この地に満ちる肉腐れの奇病は、間違いなくこの邪悪な薬草調合師が呼び出した、目に見えない怨霊の仕業である! 我が魔術医療の鑑定によれば、この老婆の家からは怪しげなカビの生えたハーブや、濁った液体が多数発見された! これこそが呪いの触媒だ!」
「そうだ! 焼き殺せ!」
(……カビの生えたハーブ、ね。ただの保存管理の悪い生薬か、あるいはペニシリンの親戚みたいな接合菌の類でしょうに。それを呪いの触媒とは、片腹が痛い)
群衆の最後尾から、冷ややかな視線を送る男が一人。
セラムは暴徒たちの興奮に一切同調することなく、彼らが恐れている「呪いの井戸」へと、音もなく近づいていた。
井戸の周囲には、すでに魔術医官の指示によって「聖水」と呼ばれる液体が大量に撒かれ、オカルトな魔方陣が描かれていた。
「フゥ……」
セラムはため息を一つつくと、白衣のポケットから滅菌された長いスポイトと、新しい試験管を取り出した。
(さて、集団ヒステリーの目を覚まさせるための、科学的証拠を採取させてもらいましょうか)
セラムは魔方陣を踏み越え、井戸のロープを静かに手繰り寄せ始めた。




