[第9章]死霊術師(ネクロマンサー)の汚名と、目に見えない暗殺者(第1話)
「いいか、絶対にあの井戸に近づくんじゃない。……『死霊術師』の呪いがかけられている」
下町の診療所の窓外から、怯えきった住人たちの囁き声が聞こえてくる。
初夏のジメジメとした不快な湿気が、王都の最下層である貧民街を包み込んでいた。ここ数日、この界隈では不気味な噂と、それ以上に不気味な「奇病」が急速に広がっている。
「先生、例の井戸を使った住人の受診は、これで今週5人目です。……ですが、この男は明らかに『前の4人』とは病態のフェーズが違います」
セラムは感情の起伏が一切ない声で、診療所の奥のベッドを指差した。
横たわっているのは、貧民街で働く若い大工の男だった。
前の4人は、井戸水で傷口を洗った後に軽い化膿を起こした程度で、通常の洗浄と抗菌ハーブで事足りていた。だからこそ、セラムも単なる常在菌による軽度な感染症と判断し、定時退社を優先していたのだ。
しかし――この5人目の男は、格が違った。
「う、嘘だろ……。たかが擦り傷が、なんで一晩でこんな……っ!」
男は激しい高熱にうなされ、四肢をガタガタと震わせている。
作業中に足を少し擦りむいただけだというその傷口は、今や見る影もなくどす黒く変色し、水疱が破れて強烈な悪臭を放っていた。まるで内側から肉が溶けていくかのように、急速な壊死が時間単位で膝近くまで這い上がってきている。
「うむむ……。前の4人と同じように傷を洗い、ハーブを処方したのだが、まったく進行が止まん。宮廷の魔術医官どもは、これを『死霊術による肉体腐壊の呪い』と呼んで、スラムごと隔離しろと騒いでいるが……」
ロバートが苦渋の表情で、じっと己の手を見つめる。彼の卓越した臨床経験をもってしても、この圧倒的な破壊速度の前には手をこまねくしかなかった。
「呪い、ですか。相変わらず非科学的な表現を好む世界ですね。……合点がいきました。前の4人は前兆に過ぎなかったというわけです」
セラムは男の衣服をハサミで切り裂き、壊死の境界部に触れた。皮膚の下で、ガスが溜まっているかのような奇妙な握雪感(にぎゆきかん:雪を握るような感触)がある。
(……軟部組織の急速な壊死。高熱、敗血症性ショックの一歩手前。これはオカルトの呪いなどではない。特定の菌が凶暴な変異、あるいは劇症化したケースだ)
セラムの頭脳に、眠っていた医療知識の術式が起動する。
【病原体同定】――発動。
セラムが男の傷口から滲む浸出液を指先で微量に採取した瞬間、彼の脳内に、仮想の「5%羊血寒天培地」が展開された。
そこに植え付けられた目に見えない菌体があっという間に増殖し、特有のコロニー(菌の塊)を形成していく。
(……培養完了。血寒培地上で完全溶血(β溶血)を示す小さな透明なコロニー。さらにグラム染色像を脳内シミュレート――染まりは良好、グラム陽性連鎖球菌。しかも、一列に長く連なる特徴的な長鎖を形成している。カタラーゼ試験は当然、陰性)
これだけでも標的は絞られるが、臨床検査技師としてのセラムの矜持が、一切の曖昧さを許さない。脳内の仮想試験管で、さらに確定のための同定試験をミリ秒単位で叩き込む。
(PYRテスト(ピロリドニルペプチダーゼ試験)――陽性。さらに、菌体壁の多糖体抗原を調べるランスフィールド抗原分類――A群でビンゴ。……完全に確定しました)
セラムの冷徹な目が、脳内で浮かび上がった真犯人の姿を完全にロックした。
(A群β溶血性レンサ球菌(Streptococcus pyogenes)。……前の4人は通常の感染で済んでいましたが、この5人目は完全に『劇症型(TSLS)』、いわゆる人食いバクテリアのスイッチが入っています。進行が早いはずです)
小さな傷口から侵入したレンサ球菌が、驚異的な速度で筋膜を食い荒らし、全身をショック状態に陥れる恐怖の病態。中世の医療知識しか持たないこの世界の人々が、これを「死霊術師の呪い」と呼んで恐怖するのも無理はなかった。
「セラム殿、何か分かったのか!?」
ロバートが、セラムの微かな目の動きを見逃さずに身を乗り出す。
「原因の特定は終わりました。呪いではなく、ある特定のバクテリアが筋膜を猛烈な勢いで分解しています。ハーブや並の洗浄では、彼らの増殖速度に追いつきません」
「な、なんだと……!? では、どうすればいい!?」
「手はあります。幸い、この手のレンサ球菌が最も苦手とする『特効薬』の心当たりが、すでにこの診療所にありますから」
「なに? すでにある、とはどういうことだ、セラム殿!?」
驚愕するロバートをよそに、セラムは迷いのない足取りで診療所の奥にある厳重に施錠された薬品棚へと向かった。
劇症型溶血性レンサ球菌。この悪魔のような増殖速度に打ち勝つには、細胞壁の合成を根底から叩き潰す「β-ラクタム系抗生剤」――すなわち、世界最初の抗生物質、ペニシリンが不可欠だ。
セラムは前世の現役時代、「幕末にタイムスリップした脳外科医が、限られた江戸時代の機材でペニシリンを精製する」という超有名医療ドラマを、熱心に視聴していた過去があった。その精製プロセスを検査技師の知識でブラッシュアップし、数ヶ月前から診療所の地下で、青カビからひそかに抽出・精製してストックしておいたのだ。すべては不測の感染症パニックで、自分の定時退社が脅かされないためのリスクヘッジである。
セラムが棚から取り出したのは、遮光性のガラス瓶。中には、結晶化させて生理食塩水に溶解できるように調整した、自家製のペニシリン(滅菌精製液)がいつでも使える状態で眠っていた。
「セラム殿、それは……?」
「細菌検査をやっている人間にとって、これほどありがたいお薬はありませんよ。先生、この液体を今すぐ大工の男の静脈へ投与してください。**脳内での薬剤感受性データ(微量液体希釈法シミュレート)では、この菌に対するペニシリンのMIC(最小発育阻止濃度)は感性の基準値を遥かに下回っています。**確実に叩けます」
しかし、その最高のリスクヘッジをあざ笑うかのように、外から突然ガシャーンと激しい割れ窓の音が響いた。住人たちの怯えきった声が、怒号へと変わっていく。
「死霊術師を捕まえろ!」
「あの井戸の近くに住んでいる、偏屈な薬草調合師の婆さんが犯人だ!」
「あの老婆を広場で火炙りにすれば、この街の呪いは解けるんだ!」
窓外を見下ろしたロバートが、表情を険しくして身構えた。
「まずいぞセラム殿、裏口の鍵をかけろ! 奇病への恐怖で理性を失った住人どもが暴徒化している。無実の老婆を『死霊術師』に仕立て上げて、すでに広場で火炙りの準備を始め終えているようだ。このままではあの老婆だけでなく、患者を囲っている我が診療所まで焼き討ちに遭いかねん!」
セラムは騒がしい窓の外を一度だけ一瞥し、チッと小さく舌打ちをした。時計の針は15時を回ったところ。
「……集団ヒステリーですか。本当に迷惑ですね。無実の人間を焼いたところで、井戸の中の細菌が死滅するわけがないでしょうに。何より――」
セラムは手帳のページを破り、ロバートに手渡した。その目は、いつになく冷ややかに据わっている。
「くだらない魔女狩りのせいで、私の残業が確定することだけは絶対に許せません。先生、17時までにこの『呪い』の正体を大衆の目の前で暴き、あの人食いバクテリアの感染源を徹底的に叩き潰します。準備を」
医学とオカルト、そして定時退社をかけたミクロの戦いが始まった。
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