[第9章]死霊術師(ネクロマンサー)の汚名と、目に見えない暗殺者(第4話)
「お、おい! 本当にこれで呪いが解けるのか!?」
スラムの住人たちが、恐る恐る井戸を取り囲む。先ほどまで魔術医官を巻き込んで老婆を火炙りにしようとしていた暴徒たちの顔には、今や一様に困惑と、セラムの「科学」への畏怖が入り混じっていた。
「何度も言いますが、呪いではなく単なる細菌汚染です」
セラムは白衣の袖をまくり上げ、用意させた大量の白い粉末を井戸の脇に積み上げさせた。
中世のこの世界において、前世の「次亜塩素酸ナトリウム」のような洗練された塩素系消毒剤を入手するのは不可能に近い。だが、公衆衛生の歴史が証明した、もっとシンプルで強力な代替品がある。
生石灰(酸化カルシウム)だ。
「いいですか、今からこの粉末を井戸へ投入します。水と反応して激しい熱と強アルカリ性の環境を作り出し、井戸の壁面や水中に潜むバクテリアの細胞膜とタンパク質を根底から変性・加水分解して死滅させます」
「な、なんだって……?」
住人たちが呆気にとられる中、セラムは躊躇なく生石灰の袋をひっくり返し、井戸の中へと一気に投入した。
直後――ゴボゴボゴボッ!!! と、井戸の奥底から恐ろしい重低音が響き渡り、凄まじい白煙が吹き上がった。水面が激しく沸騰し、熱を帯びた蒸気が広場に広がっていく。
「ひ、ひぃぃっ! やっぱり怨霊が暴れて――」
「ただの化学反応(水酸化カルシウムへの転換)による水酸化熱です。静かにしてください」
怯えて逃げ出そうとする住人たちを、セラムの冷徹な一言が引き止める。
「水質が強アルカリ性に傾くため、今からこの井戸水は絶対に『使用禁止』にしてください。触るのも厳禁です」
「な、なんだって……? じゃあ、この井戸はもう使えないのか!?」
「いいえ。三日ほど置いて菌が完全に死滅した後、井戸の水を何度も何度もすべて汲み上げて捨てる『換水作業』を、水が濁らなくなるまで徹底的に繰り返してください。その後、酸を少しずつ加えて中和させ、さらに底から湧き出る新しい地下水と完全に入れ替わってから、ようやく洗濯などの生活用水として使えます。――いいですか、絶対に肉眼できれいそうに見えるからと、勝手に飲まないでください。水質が中性に戻ったことを私が確認するまでは、飲んだら胃に穴が空きますよ。埋め立てる必要はありませんが、それなりの手間はかかります」
「お、おお……! 飲むには時間がかかるが、井戸を潰さなくていいんだな!?」
スラムの住人にとって、貴重な水源を完全に失わずに済むという事実は、何よりもありがたい救いだった。
「……セラム、殿」
ふと振り返ると、縄を解かれた薬草調合師の老婆が、痛む体を支えられながらセラムの前に立っていた。その煤けた顔には、涙の跡が白く浮き上がっている。
「すまない、ねぇ……。新参者のあんたに、こんなことまでさせて。……私しゃ、ただのハーブの保存が下手なだけの、しがない婆さんなのに、危うく殺されるところだった……」
「気になさらないでください。あなたが焼かれようが生きようが、本質的な問題はそこではありません」
セラムは手帳に目を落としたまま、淡々と答えた。
「あなたのハーブの管理が悪かったのは事実です。カビが生えた生薬は交差汚染の原因になりますから、後で私が正しい乾燥保存法を指導します。……それと」
セラムはパチン、と懐中時計の蓋を閉めた。
時刻は16時45分。
「私が動いたのは、あなたの命のためでも、スラムの平和のためでもありません。ここであなたを処刑させ、井戸を放置すれば、明日以降さらに劇症型感染症の患者が診療所に押し寄せ、私の定時退社が永遠に奪われるからです。……すべては、私の17時定時退社のための防衛策です」
あまりに冷徹で、あまりにブレないその理由に、老婆は呆気にとられた後、ふっと小さく笑った。
「変わった助手様だねぇ……。でも、ありがとうよ」
16時58分。
西日が差し込む診療所の医局で、セラムは完璧に整理整頓されたデスクの前に立っていた。
私服への着替えを終え、鞄を片手に、退勤カードの前に立つ。
奥のベッドからは、点滴が効いてすっかり熱が下がり、穏やかな寝息を立てている大工の男の声が聞こえていた。ロバートは安堵の表情でそのバイタルをチェックしている。
「いやはや、セラム殿。今日もまた、君の規格外の『検査データ』に救われたよ。ペニシリンの劇的な効果といい、あの井戸の白い濁りの証明といい、まさに奇跡だ」
「奇跡ではありません。順序通りに準備をして、確かな根拠を積み上げた結果に過ぎません」
カチャン、と17時ちょうどを告げる時計の音が響くと同時に、セラムは退勤の打刻をした。
「では先生、大工の男のペニシリンは、体内の菌を抑え続けるためにあと数日は定時投与を継続してください。私はこれで失礼します。明日の仕事に響きますので」
「ああ、お疲れ様、セラム殿。ゆっくり休んでくれ」
診療所の扉を開け、初夏の夕暮れの風に吹かれながら、セラムは一人、帰路についた。
今日も無事に、1分の残業もなく業務をコンプリートした。心地よい疲労感とともに、彼の頭の中はすでに、今夜の夕食のメニュー――安く手に入れた旬の野菜を使った、手軽でコストパフォーマンスの良い自家製の浅漬けと、冷えたお酒の組み合わせ――へと切り替わっていた。
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