第7章:眠れる森の開拓村と、消えた「水」の謎(第3話)
うっそうと生い茂る『眠れる森』の奥深く、地を揺るがすような瀑布の音が近づくにつれ、空気はひんやりとした湿気を帯びていく。
だが、その美しい大滝のふもとに辿り着いたロバートとセラムが目にしたのは、自然の神秘とはかけ離れた、極めて人工的で冷酷な光景だった。
「……なるほど。精霊の怒りの正体は、あれですか」
セラムの冷徹な視線の先には、頑丈な丸太と強固な土嚢で築かれた巨大な『堰』があった。滝から流れ落ち、本来なら地下の水脈へと流れ込むはずの清流が、完全にせき止められ、隣領の方向へと強引に引き込まれている。
隣領のハルフォード子爵の狙いは明白だった。この開拓村の地下に眠る鉱物資源を独占するため、「精霊の呪いで水が枯れた」というオカルトの恐怖を植え付け、村人たちを自発的に離村させようとしていたのだ。広場にいたあの神官も、貴族に買収されたサクラに過ぎなかった。
「誰だお前たちは! ここは我が領主の直轄地となった! 命が惜しくば立ち去れ!」
侵入者に気づいた私兵の隊長が、容赦なく長槍の刃先を二人に向けた。周りの兵たちも一斉に包囲網を狭めてくる。
一触即発の空気。しかし、セラムは彼らと戦うどころか、私兵たちの足元に転がっている「ある物」を鋭く捉えていた。
(……贅沢な高級白パン、異様なまでに塩気の強い燻製肉。── そして、あの大量の空の木樽は、村から強奪した『極上エール』ですね。なるほど、目の前に滝の真水があるというのに、彼らは贅沢にも酒を水代わりにがぶ飲みして宴会をしていたわけですか)
セラムはさりげなく【生体分析】を起動し、私兵隊長の血管を凝視する。
【生体分析:私兵隊長の体内データ】
血清ナトリウム(Na): 162 mEq/L (基準値:135-145) ※危険水域
脱水ステータス: 高張性脱水(高ナトリウム血症)
(……お労しや。アルコールには強い利尿作用があります。ただでさえ塩辛い兵糧を食べているのに、炎天下で水代わりにエールを飲めば、体内の水分だけが猛烈に排泄され、ナトリウム濃度が跳ね上がるのは当然の結末。村人たちは塩分が足りない『低ナトリウム血症』でしたが、この愚か者たちは真逆の【高ナトリウム血症】で自滅しかけている!)
すべての生化学的ロジックを掌握したセラムは、あくびを噛み殺しながら、ロバートの背中にそっと詳細なカンペ(メモ書き)を忍び込ませた。
「先生、あなたの得意な『あの悪癖』の出番です。彼らは今、贅沢な酒のせいで脳の水分がカラカラに絞り出されています。少し背中を押してやれば、勝手に崩れますよ」
「ふっ、悪癖とは人聞きが悪いな、セラム殿。……医療従事者としての“言葉の処方箋”と言ってくれたまえ」
ロバートはカンペに目を落として不敵に微笑むと、あえて長身を堂々と反らし、髪をかき上げて私兵たちの前に立ちはだかった。その目には、元エリート宮廷医術師としての、圧倒的な「ハッタリ」の光が宿っている。
「愚かなる迷える子羊たちよ、武器を収め給え。私は王都の医師、ロバート。そこの隊長殿、君のことだ! 君はさっきから、異常なほどの喉の渇きと、激しいイライラ、そして激しい頭痛に悩まされていないかね!?」
図星を突かれた隊長が、一瞬ビクリと身体を硬直させた。だが、彼はすぐにギラついた目でロバートを睨みつけ、大剣を激しく引き抜いた。
「……それがどうした! 医者風情がハッタリを抜かすな! 喉の渇きなど、この極上エールを飲めば……」
「飲むほどに死へ近づくだけですよ、無知な兵隊さん」
冷や水を浴びせるようなセラムの呟きと同時に、セラムのつま先が、隊長の足元にあったエール樽を小気味よく蹴り飛ばした。ゴロゴロと音を立てて、滝壺へと落ちていく酒樽。
「て、てめぇ……! 俺たちの酒を……ッ!!」
隊長の顔が怒りで怒張し、赤黒く染まる。激昂した彼は、大剣を振りかざしてセラムへ躍りかかろうとした──その瞬間だった。
「がっ……、あ、あガっ……!?」
激しい怒りによるアドレナリンの放出、それによる急激な血圧の上昇。ただでさえ高ナトリウム血症で脱水限界を起こしていた隊長の脳血管に、致命的な負荷がかかった。
凄まじい目眩と脳浮腫の激痛が彼を襲い、隊長は剣を落とすと、まるで糸が切れた人形のようにガクガクと震えながら、その場に崩れ落ちた。
「ひ、ひぃ、あ、頭が、割れる……! 息が、できん……!」
隊長は白目を剥き、過呼吸を起こしながら、激しく嘔吐し始めた。
「た、隊長!? どうされたのですか!?」
パニックに陥る私兵たち。その瞬間、ロバートの目がハッタリのそれから、鋭い「医師の眼」へと切り替わった。
「セラム、冗談抜きで限界だ! 嘔吐物の吸引を防ぐぞ、側臥位にしろ! お前たち、突っ立っていないで彼の鎧の紐をすべて解け! 呼吸を確保するんだ!」
ロバートの凄まじい怒号に気圧され、私兵たちは慌てて隊長の鎧を剥ぎ取り始めた。セラムは冷静に隊長の身体を横向きにし、口内の嘔吐物を素早く掻き出すと、近くの革袋から滝の真水を隊長の頭と首筋に容赦なくぶっかけた。
「過呼吸による二酸化炭素の排出過多、および脳浮腫による中枢神経症状です。衣服を緩めて物理的に冷却し、ゆっくり深呼吸をさせれば数分で落ち着きます。……さあ隊長さん、吸って、吐いて。私の手の動きに合わせてください」
セラムが淡々と胸の動きを誘導し、ロバートが首の血管を圧迫して血流をコントロールする。的確極まる二人の緊急処置により、激しく痙攣していた隊長の呼吸が、次第に「ハァ……、ハァ……」と安定を取り戻していった。
やがて、白目を剥いていた隊長の目に、うっすらと確かな意識が戻る。
「あ……、が……、俺は……」
「命拾いしたな、隊長殿」
ロバートは往診鞄を閉じると、ふっと不敵な笑みを戻した。
「今のは我が医術による一時的な延命に過ぎん。君たちの血管の中は今、過剰な塩分とアルコールで破裂寸前なのだ。このまま労働を続ければ、次は本当に脳の血管が弾け飛んで終わるぞ。……さあ、どうする?」
死の淵から今しがた戻ってきた隊長は、ロバートたちへの圧倒的な恐怖、そして命を救われた事実の前に、完全に戦意を喪失していた。
「あ、ああ……。お前たち、何を、している……! 先生の言う通りにしろ……っ! 堰を、堰を今すぐ叩き壊せ……! 命あっての物種だ……!!」
「は、はいっ! 今すぐ壊します!!」
ボスの命令を受け、恐怖が限界に達していた私兵たちは、武器を投げ捨ててクワや斧に飛びついた。自ら築いた丸太の堰を、今度は生き残るためにめちゃくちゃに叩き壊し始める。
ガラガラと音を立てて堰が崩壊し、堰き止められていた大量の清流が、本来のルートである地下水脈へと勢いよく流れ込んでいく。これで数時間もしないうちに、村の井戸には並々と水が戻るはずだった。
「ひぃっ、水を、真水をくれぇ!」
鎧を脱ぎ捨て、川の真水に頭を突っ込んでがぶ飲みし始める私兵たち。隊長も部下たちに支えられ、滝の真水を少しずつ飲みながら、日陰へと引きずられていった。
それらを冷ややかに見届け、セラムはパチンと手帳を閉じた。
「先生、彼らは真水を飲んで横になっていれば、数時間でナトリウム濃度が下がって落ち着くはずです。私たちの仕事はこれにて終了、速やかに村へ戻りましょう」
「ああ、そうだな。これ以上彼らに付き合う必要もない」
二人は悠然とその場を後にした。
一足先に馬車で開拓村の広場へと戻ると、すでに奇跡が起きていた。
「湧いた……! 井戸から水が湧き出たぞ!!」
「精霊様が、精霊様が許してくださったんだ!!」
村人たちが狂喜乱舞し、湧き出る冷たい地下水を頭からかぶって涙を流している。地下水脈の砂礫の層を通過する過程で、過剰な塩分や不純物は完璧にろ過され、村に届く頃には、極上の清涼な真水に生まれ変わっていた。
「おお、ロバート先生! セラムさん!」
人混みをかき分け、村長がボロボロの木樽を二つ、台車に乗せて息を切らせながら走ってきた。
「約束の、村で一番の『極上エール』です! 水が枯れて、これが最後の2樽でした……。本当に、本当に村を救っていただき、ありがとうございました……!」
村長が深く頭を下げ、差し出してきたのは、正真正銘、合法的に支払われた彼らの『往診報酬』だった。
ロバートは満足げに胸を張り、往診鞄を叩いた。
「ふはは! 確かに受け取った! 子羊たちの渇きを癒やすのが、我ら医師の務めだからね」
セラムはその木樽を愛おしそうに馬車へと積み込み、御者台に腰掛けた。
「では先生、約束の報酬も無事に回収できましたし、定時ですので迅速に下町の診療所へ撤収します。帰ったら冷えた樽を開けて、1秒でも早く私の乾いた細胞に、この黄金の液体を流し込むとしましょう」
馬車が夕暮れの街道を走り出す後ろで、開拓村の歓声はいつまでも途切れることなく響き渡っていた。
よろしければ何点でも構いませんので評価やコメントをいただけると嬉しいです。




