第7章:眠れる森の開拓村と、消えた「水」の謎(第2話)
「な、神聖な聖水を不浄の粉末で汚す気か!? 控えよ、無礼者め!」
神官が悲鳴のような声を上げるが、ロバートはその長身を開拓村の太陽のように堂々とそびえ立たせ、冷徹に一蹴した。
「不浄ではない、人体の理さ。……さあセラム殿、調合を」
ロバートが「すべてを見抜いた名医」のドヤ顔で神官の視線を釘付けにしている間に、セラムは完全に死んだ魚の目で、淡々と、しかしミリグラム単位の正確さで動き始めていた。
(不機嫌なのは確かですが、ここで村人に死なれたら検死だの何だのでさらに足止めを食らいます。爆速で終わらせますよ)
セラムは神官の水瓶から聖水──ただの清涼な真水を1リットル、手際よく清潔なボウルに注いだ。そこへ、ロバートの往診鞄から取り出した白い粉末を迷いなく投入していく。
【命の水(ORS:経口補水液)の調合比率】
精製された塩(塩化ナトリウム): 2.6g
ブドウ糖(砂糖): 13.5g
村の真水(精霊の聖水): 1L
(小腸の粘膜において、ナトリウムはブドウ糖と『1:1』の比率で結合した時に、最も爆発的なスピードで水分とともに体内に吸収される。どちらが多すぎても、少なすぎてもダメだ。この黄金比こそが、水が消えた体に潤いを取り戻す唯一の鍵──)
セラムの脳内では、【生体分析】のモニタリングが作動し、刻々と変化する液体の組成をリアルタイムの数値で捉えていた。水に溶け出したナトリウムとブドウ糖の濃度を瞬時に読み取り、目標とする黄金比の1ミリモルのズレすらも許さず、粉末の量を冷徹に微調整していく。スプーンでかき混ぜる間も、溶け残りが完全に消失し、細胞の吸収に最適な電解質濃度へと収束する瞬間をスキルで正確に見極めていた。
セラムはスプーンで素早くかき混ぜ、完全に粉末を溶解させた。少し濁った、しかし電解質が完璧に補正された「特効薬」の完成だ。
「先生、第一輸液、準備完了です」
「よし」
ロバートは意識が朦朧として倒れている若い開拓民の青年を抱き起こすと、その唇にセラムの作った水を少しずつ流し込んだ。
「ごふっ……、う、うう……」
青年は最初、不味そうに顔をしかめた。低ナトリウム血症の身体には、真水ではなく、この微かに塩気を感じる水こそが染み渡る。喉の筋肉がゴクリと動き、コップ一杯の水分が青年の胃へと滑り落ちていった。
「おい、無駄な真似を……! 聖水に不純物を混ぜた泥水など、精霊の怒りをさらに買うだけ──」
神官が叫び終えるより先に、奇跡が起きた。
「……は、あ……っ?」
青年の、カラカラに乾燥していた唇に、みるみるうちに赤みが差してくる。
ハァハァと荒かった呼吸が目に見えて穏やかになり、泥人形のように弛緩していた手足にぐっと力が戻った。そして──。
「……俺は、一体……。あ、頭の痛みが、消えた……?」
青年が、パチリと力強く目を開けたのだ。
「な、何だと……!?」神官がひっくり返ったような声を上げる。
「起き上がった……! アランが目を覚ましたぞ!」周囲で見守っていた数少ない動ける村人たちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「フッ、驚くには値しないな」
ロバートは髪をかき上げ、さも当然だと言わんばかりにフッと澄ました笑みを浮かべた。
「彼らの身体は、水だけでなく『塩』を欲していたのだ。細胞の土台(浸透圧)が崩壊しているところに、いくら君の細胞活性魔法を注ぎ込んだところで、底の抜けたバケツに水を注ぐようなもの。私の助手が作ったこの『電解質補正水』こそが、崩れた土台を修復したのだよ」
(厳密には僕のカンペをそのまま喋っているだけですが、まあ、神官を黙らせる役としては満点です)
セラムは心の中で淡々とロバートのドヤ顔を評価しながら、次の村人、その次の村人へと、冷徹なまでの効率の良さでORSを飲ませて回った。
30分後。
広場に倒れていた十数人の村人たちは、全員が自力で起き上がり、お互いの無事を確かめ合っていた。神官はもはや言葉もなく、自分の聖水瓶と、村人たちを救った白い粉の袋を交互に見つめて呆然と立ち尽くしている。
「ロバート医師、セラム殿……! ありがとう、本当にありがとう……!」
開拓村の村長が、涙を流して二人の手を握りしめた。
「大したことではないさ、村長。彼らにはしばらくこの水を飲ませ、日中の無理な労働は控えさせることだ。……では、我々はこれで失礼する」
ロバートがスマートに鞄を閉じ、踵を返そうとした。
しかし、セラムは一歩も動かず、じっと村の奥にある干上がった井戸を見つめていた。彼の鋭い目が、地面の乾き具合を不自然に捉えていた。
「セラム殿? どうしたんだい、早く帰ってエールを飲まないと……いや、出張中だったね」
ロバートが不思議そうに覗き込む。
セラムはしゃがみ込み、井戸の周囲の乾いた泥を指先でつまんだ。
「……先生。いくら炎天下とはいえ、数日前まで満々と水を湛えていた大井戸が、たった数日で完全に『一滴残らず』干上がるものでしょうか」
「え? 猛暑のせいじゃないのか?」
「いえ。自然現象として不自然すぎます。まるで、人為的に水を止められたかのような乾き方だ。……村長さん、この村の『水源』は、どこから流れてきているんですか?」
村長は一瞬顔を曇らせ、村のさらに奥、深い『眠れる森』の境界線を指差した。
「この先にある山の大滝から、地下を伝って井戸へ流れてきているはずですが……あそこは最近、隣領の貴族が領地を広げるとか言って、不気味な私兵を配備し始めてから誰も近づけないんですよ」
セラムの目が、冷ややかに細められた。
(人為的な水源の遮断。炎天下での強制的な脱水状態の誘発。臨時の神官……。なるほど、この開拓村を放棄させたい『誰か』の陰謀ですか)
ただの熱中症の往診だと思っていた出張は、どうやら王都の利権が絡む、ドス黒い水面下の争いへと繋がっているようだった。
「先生」
セラムは冷たい声で、しかし確かな怒りをはらんで言った。
「隣領の貴族だか何だか知りませんが、僕たちの『極上エール2樽分の労働時間』をこれ以上引き延ばそうとする輩は、確たる証拠を突きつけて徹底的に叩き潰します。……水源へ行きますよ。邪魔をするなら、その悪巧みごと私の分析で木っ端微塵に解剖してやります」
「お、おう……!(今のセラム殿、めちゃくちゃ怖いな……!)」
ロバートは冷や汗を流しながらも、その背中に絶対の信頼を寄せて頷いた。
開拓村を救った二人の前に、眠れる森の奥深くに潜む、消えた水の「真犯人」の影が迫っていた。
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