第7章:眠れる森の開拓村と、消えた「水」の謎(第1話)
王宮での一件(最高級の肉とビール)を診療所で完全に消化し、いつも通りの平和な定時退社ライフに戻る──はずだった。
「……先生。どうして僕たちは、こんな見渡す限りの炎天下の荒野にいるんでしょうか」
セラムは容赦なく照りつける太陽を見上げ、うんざりしたように額の汗を拭った。
ここは王都から馬車で数日、うっそうとした森を切り開いて作られたばかりの『眠れる森の開拓村』。周囲は逃げ場のない熱気に包まれ、立っているだけで汗が噴き出す。
(──数日前、下町の診療所にあの近衛隊長がドカドカと乗り込んできた時のことを思い出す)
『ドクター・ロバート! 緊急事態だ! 王都から数日かかる開拓村で、村人が次々に謎の病で倒れているらしい。原因を調べて救ってくれ!』
セラムはカルテを整理しながら、いつも通りの平坦な声で即答した。
『隊長、当診療所は出張往診を一切受け付けておりません。定時を過ぎれば閉めますので、今すぐお引き取りを』
しかし、隊長はフッと不敵に笑い、セラムの目をまっすぐ見据えて揺さぶりをかけてきた。
『もし往診を引き受けてくれるなら、例の王室御用達の極上エール、来月分は倍の2樽にしてやろう。お前の定時後の晩酌用にな』
その瞬間、セラムの指先がピクリと止まった。
(……2樽。あの極上のビールが、通常の倍。……魅力的だ。非常に魅力的、ではあるが──)
セラムは脳内で瞬時に天秤にかけた。片方は極上エール2樽。もう片方は、数日間に及ぶ不便な田舎への拘束、炎天下での労働、確実に崩壊するプライベートの定時。
(……いや、割に合いません。ビールは惜しいですが、数日間の出張など御免被る)
セラムが『お断り──』と口を開きかけた、その時だった。
『おおお! あの美味いエールが2樽だと!? 受ける! その依頼、この名医ロバートが引き受けよう!!』
条件の豪華さと持ち前の熱血さに目を輝かせたロバートが、セラムの制止を振り切ってガタッと机を叩いて立ち上がってしまったのだ。
『先生……!?』
セラムがこの日一番の、冷徹極まりないジト目を向けたが、時すでに遅し。近衛隊長は『交渉成立だな!』と満足げに笑い、さっさと手配の馬車へと戻っていった。
結果、セラムは移動中も、そしてこの炎天下の現地に着いてからも、終始「心底めんどくさい、早く帰りたい」というオーラを全身から放ちながら、死んだ魚のような目でロバートの後ろを嫌々ついて歩く羽目になったのだ。
(あのエール2樽の半分は、僕の精神的慰謝料として先生の分から差し引かせてもらいますからね……)
「フッ、仕方ないさ、セラム殿。王室御用達の極上エールを毎月支給してもらう身だ(お前のせいで倍になったがな)、たまにはこうして“名医”としての義務を果たさねばなるまい?」
ロバートはスマートな往診鞄を手に、髪をかき上げながらいかにも「孤高の名医」といった風にフッとクールな微笑(ドヤ顔)を浮かべた。
──が、次の瞬間、セラムにだけ聞こえる声で「セラム殿! ぶっつけ本番の出張だけど、今回もデータの方よろしくね!? 頼んだよ!?」と必死の形相で囁いてきた。
セラムは表情を変えず、ただ冷ややかな一瞥を返す。
「わかっています。1秒でも早く終わらせて、下町の診療所で冷えた樽を開けますよ」
だが、村の入り口をくぐった瞬間、二人の表情から余裕が消えた。
活気があるはずの開拓村は、不気味なほど静まり返っていた。
畑にはクワが放り出され、道端には数人の村人が泥人形のようにぐったりと倒れ込んでいる。皆、一様にハァハァと荒い息を吐き、肌はカラカラに乾燥し、意識が朦朧としていた。
「これは……! おい、しっかりしろ! 何があった!?」
ロバートがすかさず駆け寄り、倒れている男の体を起こす。その真剣な眼差しは、根にある「純粋な患者想い」そのものだった。そこへ、村の広場から悲痛な祈りの声が聞こえてきた。
「おお、偉大なる水の精霊よ……! 我らの無礼をお許し、怒りをお鎮めください……!」
広場では、きらびやかな法衣をまとった教会の神官が、必死に聖水を撒き散らしながら奇跡の呪文を唱えていた。神官の手から柔らかな光が放たれ、倒れた村人たちの体を包み込む。細胞を活性化させる高位の回復魔法だ。
しかし──村人たちは一瞬だけビクリと身震いしたものの、すぐにまた力なく地面へ頽れた。全く起き上がる気配がない。
「そんな、バカな……! 私の『細胞活性』が効かないだと!? やはり、これは土地の精霊が、ここの水を枯らしたことへの怒りの呪いなのだ……!」
神官が絶望に顔を青ざめ、十字を切る。村の井戸はここ数日の猛暑で完全に干上がっており、村人たちは精霊の怒りで水を取り上げられ、呪い殺されかけているのだと誰もが信じ込んでいた。
その様子を、セラムは冷徹な目で見つめていた。
(呪い? 精霊の怒り? ……ただの体の仕組みを、オカルトと一緒にしないでください)
セラムは倒れている村人の一人に近づき、しゃがみ込んだ。
すぐさま脳内のクローズド・ラボ──【生体分析】を起動する。
患者の皮膚を軽くつまむ。皮膚が元の形にすぐ戻らない(テント徴候)。眼球はやや陥没し、粘膜は完全に乾燥している。
(典型的な重度脱水。だが、神官のヒールが効かないのはなぜだ? 細胞の活性化魔法が弾かれるということは、細胞の『土台』そのものが崩壊している証拠──)
セラムは男の腕に素早く針を刺し、微量の血液と、カテーテルでかすかに採取できた尿を脳内ラボの分析器へと滑り込ませた。
チーン、と脳内で電子音が鳴り、目の前に正確な数値が浮かび上がる。
【生体分析データ】
血清ナトリウム(Na): 122 mEq/L (基準値:135-145) ※著明な低下
血清カリウム(K): 3.1 mEq/L (やや低下)
血漿浸透圧: 250 mOsm/kg (著明な低下)
尿中ナトリウム(Na): 10 mEq/L以下
データを見た瞬間、セラムの鋭い目が、さらに細められた。
(……やっぱりだ。これは単なる『水不足』じゃない。真逆だ。水分に対して、体内の『塩分』が圧倒的に足りていない──重度の**【低ナトリウム血症】**だ!)
セラムはロバートに歩み寄り、脳内の分析データを記した紙をそっと手渡した。
データを受け取ったロバートは、一瞬で「すべてを察した」名医の顔へと切り替わり、神官の前に毅然と立ちはだかった。
「そこまでだ、神官殿! 哀れな精霊に八つ当たりするのはやめ給え。これは呪いでも何でもない。この炎天下での激しい労働による、大規模な電解質──すなわち、体内の塩分の喪失。重症の熱中症だ!」
「ね、熱中症だと!? 何をわけのわからない不敬なことを!」
神官が血相を変えてロバートを指差した。
「水を飲んで倒れている者に、これ以上水を飲ませろというのか!? それに、この村の井戸は枯れている! 真水(聖水)すらもう底を突くというのに、どうやって彼らを救うというのだ!」
(……王都から馬車で数日かかるこの山奥だ。今から薬(輸液製剤)を手配しに戻っていたら、この村の人間は全員、明日を迎えられずに心停止(ショック死)する)
セラムの鋭い目が、神官の持つ水瓶へと向けられた。
ロバートに無言で頷いて合図を送る。
「セラム殿、鞄から『精製された塩』と『ブドウ糖』を。……フッ、神官殿、君の持っているその貴重な『聖水(真水)』を、すべて私に委ねてもらおうか。ただの真水(聖水)を飲ませれば彼らは死ぬが──我が助手の調合により、それを一瞬で生命を呼び戻す『命の水』に変えてみせます」
ロバートが堂々とドヤ顔を決め、セラムが淡々と白い粉末の袋を取り出した。
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