第6章:血の止まらない呪いと、王位継承の陰謀(第4話)
「な、動くな不審者ども! 殿下にそのような青臭い泥水を一滴でも滴らせてみろ、即座に大逆罪で首を刎ねて──」
色をなして叫ぶ宮廷医長の手を、近衛隊長がその屈強な腕でガシリと掴み、力任せにねじ伏せた。
「ぐあああっ!? た、隊長、乱心されたか!?」
「黙れ、医長! 殿下の血をただの一滴も止められず、オカルトな呪いの一言で片付けようとしたお前たちの『英知』など、もう一銭の価値もない! ……ロバート医師、セラム殿。すべての責任は私が持つ。やってくれ!」
「話が早くて助かるぜ、隊長さん」
ロバートが不敵に笑い、往診カバンから緑色の「ほうれん草濃縮エキス」を取り出した。
しかし、セラムはそれを受け取らず、懐中時計に目を落とす。16時40分。
「先生、経口投与です。胃腸から吸収されて肝臓で新しく血が固まるようになるまで、最低でも『2時間』かかります」
「2時間だと!?」
近衛隊長が息を呑む。
床にねじ伏せられたままの宮廷医長が勝ち誇ったように叫んだ。
「ハハハ! 見ろ! 2時間など殿下の身体が持つわけがない! やはり無駄なのだ!」
「──だったら2時間持たせるだけだ。ガタガタ騒ぐな, ヤブ医者」
ロバートが地響きのような声で宮廷医長を一喝し、鋭い眼光でベッドのエドワード王子を凝視した。
「セラム、ボトルの半分を胃管で一気に流し込め。残りは30分おきだ。……隊長さん、今すぐ大量の氷と清潔な布、それから薄い塩水を用意しろ! ビタミンKが吸収されて効果が出るまでの120分、創傷部を徹底的に冷やして血管を縮める。出血は俺たちの手による持続的な圧迫止血で極限まで抑え込むぞ。血圧を落とさねぇよう、水分補給も同時並行だ!」
「お、おう! すぐに手配する!」
「先生、始めましょう」
セラムの短い返事と同時に、ロバートの巨大な手が正確無比な圧力で王子の傷口を捉えた。
ここからは、まさにプロの意地をかけた時間との戦いだった。
王子のデータはRBC 290万/μL、Hb 8.2g/dL。
これ以上の失血でHbが5.0g/dLを下回れば、急性心不全でショック死する。
セラムはロバートの指示通り、ほうれん草濃縮エキスを慎重に胃へと流し込んだ。
「……よし、内側からの仕込みは終わった。次は外側からだ。『母なる癒やしよ、破れし器を満たせ(ヒール)』!」
ロバートが短く呪文を唱えると、その無骨な掌が淡いエメラルドグリーンの光を放ち、王子の傷口を包み込んだ。
微弱ながらも持続的に注ぎ込まれる回復魔術が、破壊された微小血管の細胞を必死に繋ぎ止め、内側からの漏れを塞ごうとする。
その魔術の障壁を邪魔しないよう、セラムは横から清潔な布を滑り込ませ、指先の感覚だけを頼りに、血流を完全に止めない絶妙な圧力で圧迫止血を続けた。
先生の魔術による細胞の修復と冷却、そしてセラムの精密な物理的圧迫──二人のアプローチが完璧に噛み合っていた。
10分、30分、1時間が経過する。
時計の針は17時を回り、セラムの「定時」は無慈悲にも過ぎ去った。
しかし、二人の手元には一切の迷いはなかった。セラムは定期的に王子の結膜の色を確認し、脈拍を測り、脳内で血球数の減少スピードを正確に計算し続ける。
(……持ち堪えている。血圧は維持できている。あと少し……!)
そして、投与からちょうど2時間が経過した、18時40分。
ロバートが圧迫していた手をわずかに緩め、王子の傷口を確認した。
いつもなら、緩めた瞬間にダラダラと溢れ出ていた真っ赤な鮮血が──出ない。
傷口の表面には、濁りのない、ぷるぷるとした強固なフィブリンの網の目──本物のカサブタがしっかりと形成されていた。
クマリンの毒性を物量で叩き潰したビタミンKが、ついに肝臓で凝固因子を急造させ、血液の天秤は正常なバランスを取り戻したのだ。
「……止まった。凝固系の再稼働を確認。止血完了です、先生」
セラムの声と同時に、エドワード王子が「うっ……」
と微かな声を上げ、ゆっくりと高貴な瞳を開いた。
「お、おお……殿下! 殿下が目を覚まされた!」
近衛隊長が涙を流して崩れ落ち、寝室中に歓声が沸き起こる。
宮廷医たちは完全に腰を抜かし、信じられないものを見る目で下町の医療従事者たちを見つめていた。
処置を終え、静かに手袋を脱ぐセラムの元へ、近衛隊長が震える足取りで歩み寄ってきた。
「ロバート医師、そしてセラム殿……。何とお礼を言えばいいか。お前たちは国の宝、いや、殿下の命の恩人だ。王宮が支払えるあらゆる金銀財宝、あるいは望む限りの地位を約束しよう。何が望みだ?」
セラムは片付けを終えた往診カバンの蓋を閉めた。
時計の針は18時45分。
きっちり2時間の「残業」だった。
「隊長。お金や地位は要りません。王宮の権力闘争に巻き込まれるのも御免です。今回の件、僕の名前は公式記録から完全に抹消してください」
「な……公式の記録を拒否するのか? では、他にどのような褒美を……」
セラムはそこで一度言葉を切り、隣に立つロバートを振り返った。
「先生。本日発生した超過勤務の対価、および口封じの費用として、診療所に現物支給の要求をしたいのですが……よろしいですか?」
ロバートは一瞬目を丸くしたが、セラムの真面目な横顔を見て、すべてを察したようにニカッと豪快に笑った。
「おう、お前が残業して勝ち取った権利だ。好きにふんだくりな!」
「ありがとうございます」
セラムは再び近衛隊長に向き直ると、その目をギラリと鋭く光らせた。
「では隊長。王室御用達の『最高級ブランド肉と野菜』、そして地下セラーにある『極上エール(ビール)の樽』を、毎月、下町の診療所に定期支給するという契約書を今ここで書いてください。僕の定時後の晩酌にかかっているんです。……これは、譲れません」
「……あ、ああ! 分かった! 職権で今すぐその誓約書を書こう! 特上肉も最高級の酒も、毎月必ず診療所へ届けさせると誓う!」
近衛隊長は、そのあまりに世俗的で、しかし妙に執念深い要求に圧倒されながらも、即座に羊皮紙にサインと王室の蝋印を押し、セラムへと手渡した。
セラムはそれを受け取ると、まるで国宝でも扱うかのように丁寧にカバンへと仕舞い込んだ。
「十分です。……先生、行きますよ。今から帰れば、19時過ぎには極上のビールで乾杯できます。これ以上の残業は1秒たりともお断りです」
「ハハッ、そりゃいい! 今日は特上肉のバター炒めで決まりだな!」
驚愕する王族たちを置き去りにし、二人は夜の帳が下り始めた王宮の回廊を、今度こそ風のように駆け抜けていくのだった。
王宮の外門を抜け、ようやく下町の明かりが見えてきた夜道。
セラムはカバンを揺らしながら、隣を歩くロバートにずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「先生。さっき近衛隊長、すべての責任を持つとか言っていましたよね。いくら宮廷医官が信用できないからって、王宮のルールを無視して下町の医師に命を預けるなんて、普通はあり得ません。……何かあるんですか?」
ロバートは夜空を見上げ、豪快に鼻を鳴らした。
「あぁ、あいつか。……昔、俺がまだ戦場専門の軍医をやってた頃、腹にでかい穴あけて転がってた小隊長がいてな。周囲が全員『もう助からん、見捨てろ』って諦める中で、俺だけが『まだ心臓が動いてる』って、一晩中血まみれになって肉を縫い合わせたんだよ。それが、あの隊長さんだ」
「……なるほど」
セラムは納得して眼鏡の位置を直した。命の恩人、それも戦場で絶対の絶望から自分を引っ張り上げてくれた医師の言葉なら、隊長が宮廷医長をねじ伏せてまで信じるのも当然だった。
「だからあいつは、俺の言うことなら『泥水を飲め』って言われても飲む男さ。まぁ、今回はただのほうれん草だったがな! ギャハハ!」
「ただのほうれん草ですが、王子の命を救った最強の特効薬です。……さあ先生、急ぎましょう。肉とビールが待っています」
「おうよ、残業の後の酒は格別だぞ!」
二人は笑い合いながら、夜の下町へと消えていった。
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