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第6章:血の止まらない呪いと、王位継承の陰謀(第1話)

 窓の外から差し込む、柔らかく穏やかな午後の木漏れ日。

 診療所の中は、いつも通りの静寂に包まれていた。

 壁の時計の針は15時20分。

 外来のピークは過ぎ去り、あとはカルテの整理と、明日の医療器具の滅菌処理を済ませれば、今日も完璧なルーティンで定時退社を迎えられるはずだった。

 セラムは手帳を開き、今週の自炊メニューと食材の在庫リストを脳内で突き合わせていた。


(昨日はレバーを大量に炒めたから、今夜は少し胃に優しい大根のスープと、特売で仕込んでおいた塩麹漬けの鶏胸肉にしようか。効率よくタンパク質を摂取しつつ、今月の食費も予算内に綺麗に収まりそうだ……)


 元臨床検査技師としての精密な管理能力は、日々の生活コストの最適化においても遺憾なく発揮されている。

 セラムが満足げにペンを走らせていた、その時だった。


──ガタガタガタガタッ!!


 地響きのような激しい馬蹄の音と、鎧が擦れ合う金属音が、診療所のすぐ外で急停止した。

 直後、建付けの頑丈なはずのドアが、凄まじい勢いで叩き開けられる。


「ドクター・ロバート! セラム殿! 大変だ、王宮から急患である!!」


 飛び込んできたのは、息を荒くし、顔面を紙のように真っ白に染めた近衛隊長だった。

 その胸当てには、王室直属を示す金色の獅子の紋章が刻まれている。ただ事ではない。


「……なんだ、騒々しい。ここは戦場病院じゃないんだ、静かにしろ」


 奥のデスクで薬の調合をしていたロバートが、眉をひそめて不機嫌そうに顔を上げた。


「申し訳ない! しかし一刻を争うのだ! 第一王子・エドワード殿下が……! 先ほど、庭園でのご遊戯中に足元を滑らせて転倒され、石盤で指先に小さな擦り傷を負われたのだが……血が、血が全く止まらないのだ!」


(……は? 擦り傷で、血が止まらない?)


 セラムのペンがピタリと止まった。

 近衛隊長の必死の形相を見るに、冗談や誇張を言っているようには見えない。

 しかし、通常の人体であれば、指先の小さな擦り傷など、ものの数分もあれば自然に止血されるのが当たり前だ。


「宮廷医どもは何をしている。そんなもの、止血薬を塗りたくって、上から布でも当てて強く圧迫しておけば一発だろう」


 ロバートが鼻で笑い、興味なさそうに手元の作業に戻ろうとする。


「それが……それが、あらゆる手を尽くしても無駄なのだ! 宮廷に伝わる最高級の止血薬を浴びせるように投与し、神殿の治癒魔導士たちが総出で止血の術式を施した! にもかかわらず、傷口から溢れる血は、まるで堰を切った水のようにサラサラと流れ続けている! 殿下の顔色は見る間に土色になり、今や意識も朦朧とされているのだ。このままでは……殿下が失血死してしまう!」


 近衛隊長の言葉に、診療所の空気が一瞬で張り詰めた。

 宮廷医の止血薬も、魔法によるアプローチもすべて無効。


(……おかしい。単なる遺伝性の疾患──たとえば『血友病』のような凝固因子の先天的な欠乏症なら、第一王子という身分であれば、幼少期の健康診断やちょっとした怪我の段階でとっくに発見され、宮廷カルテに記載されているはずだ。10代半ばになるまで何不自由なく健やかに育ってきた王子が、ある日突然、ただの擦り傷で失血死の危機に瀕するわけがない)


 セラムの脳内で、元臨床検査技師としての冷静なスイッチがパチリと切り替わった。


(これは、外部からの『人為的な介入』──すなわち、意図的な毒殺未遂の可能性が極めて高い)


「先生」


 セラムはすっと立ち上がり、ロバートを見つめた。


「同行しましょう。単なる外傷の問題ではありません。止血の要である『凝固因子』の段階的な反応が何者かによって阻害されているか、あるいは……」


「あるいは、なんだ、セラム」


 ロバートの目が、鋭く光る。


「はい。体内の止血システムそのものを、根底から破壊するような未知の『毒』が巡っている可能性があります。僕の簡易検査キットと試薬があれば、王子の血液が『なぜ固まらないのか』の物理的な原因を突き止められるはずです」


 ロバートはしばらくセラムの真剣な眼差しを見つめていたが、やがて深くため息をつき、手元のお気に入りのパイプを机に置いた。


「……チッ、王宮のドブさらいに巻き込まれるのは御免被りたいが、患者が目の前で死にかけていると聞いちゃ、医者としては寝覚めが悪い。セラム、急いで準備を。近衛隊長、馬車を飛ばせ!」


「は、はいっ! 感謝いたします!」


 セラムは迅速に動いた。

 定時退社という個人の平穏を脅かす不条理な陰謀に対して、静かな怒りを燃やしながら、診療所の棚から必要な道具を次々とカバンへ詰め込んでいく。


 王都のガラス職人に特注した数本の小さな細ガラス管(試験管)、血液がその場で固まるのを一時的に防ぐために柑橘類からクエン酸を抽出・精製して自作した特殊な薬液、そして凝固時間を手動で正確に計測するための小さな砂時計。

 これらはすべて、セラムがこの世界のありふれた道具を組み合わせて作り上げた、独自の「簡易検査セット」だった。

 診療所の外には、漆黒の塗装が施された王室専用の高速馬車が待機していた。

 ロバートとセラムが乗り込むと同時に、御者が鞭を振るい、馬車は猛烈な勢いで王宮へと走り出した。

 ガタゴトと激しく揺れる車内の中で、セラムは腕を組み、脳内に血液凝固・線溶系の精密なマップを限界まで展開させていた。


(人間の身体が傷ついた時、血を止めるための仕組みは大きく分けて二つある。まずは血小板が集まって傷口を一時的に塞ぐ『一次止血』。そして、その隙間を強固な網で補強する『二次止血』……いわゆる、12種類もの凝固因子がドミノ倒しのように複雑に絡み合う【凝固カスケード】だ)


 セラムの頭の中で、複雑な生化学反応の数式とフローチャートが目まぐるしく点滅する。


(正常なら、内因系、外因系の双方が合流し、最終的に『トロンビン』という酵素が活性化される。このトロンビンが、血液中に溶けている『フィブリノーゲン』を、粘り気のある強固な繊維である『フィブリン』へと変え、赤血球を巻き込んでカサブタを作り、傷口を完全に密閉する。……宮廷医たちの治療が効かないということは、このドミノ倒しのどこかの段階が、致命的にブロックされているということだ)


 しかし、セラムの思考はそこで止まらない。検査技師としての臨床経験が、さらに深い「裏の可能性」を提示する。


(いや、待てよ。固める力が落ちているだけじゃないとしたら……? 固まったそばから、その血栓を片っ端から溶かす【線溶系(フィブリン溶解系)】が、何者かによって異常に暴走させられている可能性もあるんじゃないか?)


 人間の身体には、血が固まりすぎて血管が詰まらないよう、不要になったカサブタを溶かす「線溶系」というブレーキシステムが備わっている。


(もし犯人が、プラスミン(血栓を溶かす強力な酵素)を強制的に活性化させるような特殊な毒を王子に盛っていたとしたら……。どんなに凝固因子が頑張ってカサブタを作ろうとしても、一瞬で溶かされて流れていく。だから、いくら一般的な止血薬を打っても、神聖な魔法で塞ごうとしても、サラサラと流れ続けてしまうんだ……!)


 考えれば考えるほど、医学的に極めて合理的で、かつ悪質な手口だった。


「高貴な血筋は濁らず、さらさらと流れ続ける」というこの世界の荒唐無稽な建前を逆手に取り、王子を確実に、そして静かに失血死させようとする冷酷な意志を感じる。


(誰が、何の目的でそんな毒を仕込んだのかは政治の領域だ。僕の知ったことじゃない。だけど──)


 セラムはカバンの紐を強く握りしめた。


(おやつに毒を仕込まれたか何か知らないが、そんな陰謀のせいで王子の命が奪われ、その結果として、僕の今夜のスープと鶏胸肉の完璧な調理スケジュールが狂わされることだけは、絶対に許容できない)


 馬車が大きく傾き、王宮の巨大で重厚な城門をくぐり抜けた。

 豪華絢爛な宮殿の奥からは、すでに大勢の医官たちの怒号と、絶望に満ちた悲鳴が風に乗って聞こえてくる。

 血の止まらない呪いという名の、最悪のトリック。

 定時退社をかけたセラムの、新たなデータ分析の戦いが、今幕を開けようとしていた。

よろしければ何点でも構いませんので評価やコメントをいただけると嬉しいです。

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