第4章:狐憑きの少女と、消えた電気信号(第3話)
【脳内アナライズ:物質特定に成功】
【純度:98.4% / 薬効:即効性(静脈投与可能レベルの均一性を確認)】
(完璧だ。ロバート先生の微細コントロールのおかげで、不純物が一切混ざっていない。これをお嬢様の静脈へ的確に投与すれば、暴走しているリンパ球の動きは一瞬で鎮静化する)
調合室を出たセラムの手には、怪しく光る液体が満たされた注射器(ガラスと銀で作られた、この世界の精密な医療器具)が握られていた。
時計の針は16時45分。定時まで、あと15分。
しかし、ベッドのカーテンを開けた瞬間、マリアの身体には最悪の異変が起きていた。
「ハッ……、ヒュ……、……っ」
少女の激しい痙攣はピタリと止まっていた。だが、それは回復を意味しない。
脳の炎症が呼吸中枢(延髄)にまで波及し、自発呼吸が完全に停止しかけていたのだ。
少女の唇は、みるみるうちに紫色に変色していく。
「セ、セラム殿! 呼吸が止まりかけている! 心臓の鼓動も弱くなっているぞ!」
ロバートが悲鳴を上げる。
(くそ、神殿のヒール魔法による悪影響が、想定より早く出始めやがった……!)
「ドクター・ロバート! マリアを、マリアを助けてくれぇ!」
ラインハルト伯爵が取り乱し、涙を流して叫ぶ。
定時退社のチャイムが迫る中、セラムの視線は驚くほど冷徹だった。
パニックに陥るロバートの横をすり抜け、少女の細い腕へと手を伸ばす。
「ロバート先生、すぐに気道を確保して、手動のアンビューバッグ(人工呼吸器)で酸素を送り込んでください。私はこのまま、静脈へ薬剤を投与します」
「う、あ、ああ! 分かった!」
ロバートが少女の顎を挙上させ、必死に酸素を送り込む。
その隙に、セラムはマリアの細い肘の内側──その皮膚の下に走る細い静脈の位置を脳内システムで一瞬で見抜いた。
(前世で何千回、何万回と注射針を扱ってきたんだ。ショック状態の脱水した血管だろうが、外すわけがない)
チクリ。
セラムの迷いのない手つきにより、銀の針がマリアの静脈へと完璧に滑り込んだ。
ゆっくりと、しかし確実に、精製したばかりの高濃度抗炎症成分(ステロイド様物質)を、少女の循環血液中へと滑らかに注入していく。
投与完了。
その瞬間、セラムの脳内モニターが経過観察データを弾き出した。
──【生体イメージング:経過観察】
【血中薬物濃度:ピークに到達】
【免疫プロファイル:暴走リンパ球の活性が急激に低下。抗NMDA受容体抗体の産生が停止】
【脳波データ:高振幅の棘波(てんかん波)が消失。正常な基礎波(α波)への復帰を確認】
「……はぁっ! げほっ、ごほっ!」
突然、マリアの胸が大きく跳ね上がった。
紫に染まっていた唇に、みるみるうちに健康的な赤みが戻っていく。
少女は穏やかな、ごく自然な寝息を立て始め、ゆっくりと、その美しい瞳を開いた。
「……お父様……? 私、今まで、何を……?」
「おお……! マリア! マリアァァァ!!」
ラインハルト伯爵は娘を抱きしめ、人目をはばからず号泣した。
教会の連中が『悪魔憑き』だと切り捨てた娘を、この診療所は医術だけで救ってみせたのだ。
しかし、ロバートの医師としての顔はまだ引き締まったままだった。
「伯爵、ひとまず峠は越えましたが、お嬢様の脳の炎症が完全に引いたわけではありません。今夜は容態が急変する恐れもあります。このまま診療所のベッドで一晩、私が付きっきりで経過を診ましょう。伯爵も今夜はここでお嬢様に付き添ってください」
「あ、ああ……! 恩人であるあなた方がそう言うなら、ぜひお願いしたい。今夜の分の見舞い金も、いくらでも支払おう!」
主治医として残業(徹夜)を即決するロバート。
その横で、セラムはパチンと懐中時計を閉じた。
──ゴォォォォン……、ゴォォォォン……。
王都の大聖堂から、17時を告げる重厚な魔導鐘の音が地響きのように響き渡る。
「ではロバート先生、お嬢様のバイタルは完全に安定、脳波の棘波も消失を確認しました。経過観察のカルテは机に置いておきます」
最後の鐘の音が響き切る前に、セラムは伯爵が感謝の印として机に置いた、金貨がギチギチに詰まった超高額の報酬袋を、電光石火の早業で引ったくった。
「えっ? あ、おいセラム殿? 君、まさか……」
「ロバート先生、お疲れ様でした。昨夜の『夜間休日出勤(隠密回診)』のぶんの手当と、本日の緊急調合の危険手当は、この報酬からきっちり差し引いて俺の懐に入れておきます。先生の今夜の残業代は、明日また計算しましょう。1秒でも残業したくないので、お先に失礼します」
ガタッと椅子を引いて、驚くべき滑らかさで白衣を脱ぎ捨てるセラム。
「ちょ、ちょっと待てセラム殿! 私はこれから一人で徹夜の看病だぞ!?
検査技師の夜勤シフトは──」
「労働基準(契約)に夜勤の条項はありません。では、お大事に」
悪魔の呪いという名の「電気信号のバグ」をデータで一蹴した影の検査技師は、唖然とする大貴族と、「これから始まる地獄のワンオペ夜勤」に絶望する雇い主を置き去りにしたまま、夕暮れの街へと文字通り「定時ジャスト」で退社していくのだった。
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