第4章:狐憑きの少女と、消えた電気信号(第1話)
王都の高級住宅街を揺るがした「美肌クリーム薬害テロ」が、セラムの放った匿名密告データによって水面下で鎮圧されてから数週間。
貧民街の『ロバート診療所』には、いつもの穏やかな、そしてセラムにとっては最高に「退屈で平和な」日常が戻っていた。
午後3時45分。
カルテの整理を終え、セラムは手元の懐中時計を眺めていた。
(あと1時間ちょっとで17時。今日も何事もなく平和に定時退社できそうだな。仕事終わりのビールには、昨日自炊して漬けておいた大根のピクルスがよく合うはずだ……)
そんなささやかなアフターファイブの計画は、突如として破られた。
──ドガァァァン!!
診療所の頑丈な木製の扉が、蹴破らんばかりの勢いで跳ね開けられたのだ。
「頼む! ドクター・ロバート、助けてくれ!!」
なだれ込んできたのは、上質な外套を羽織った男たちと、その中心で悲痛な叫びを上げる初老の紳士。王都の誰もがその名を知る大貴族、ラインハルト伯爵だった。
その従者たちに抱えられているのは、彼の愛娘である15歳の少女、マリア。
「いやぁぁぁ! 触らないで! 天井に、天井に黒い顔がびっしり張り付いて私を見てるの!! 離せ、お前たちも悪魔の仲間かぁぁぁ!!」
マリアは虚ろな目で宙を睨みつけ、とても人間の少女のものとは思えない獣のような悲鳴を上げていた。かと思えば、突然白目を描き、全身を弓なりに反らせて激しく痙攣し始めた。口元からは白い泡が漏れている。
「お、おいセラム殿、これは一体……!?」
奥から飛び出してきたロバートが、その異常な光景に顔を引きつらせる。元宮廷医の彼とて、これほど凄惨な精神錯乱と痙攣の同時発症は見たことがない。
「ドクター、娘を、マリアを救ってくれ! 数日前から急に『誰かが自分を殺そうと狙っている』と怯えだし、夜中に突然笑いながら徘徊して暴れるようになったのだ! 教会のお祓い師どもは皆『悪魔憑きだ』と切り捨て、娘を暗い地下室に幽閉して命が尽きるまで聖水を浴びせろと言う! だが、私にはどうしても信じられない!」
伯爵はロバートの白衣にすがりつき、涙を流して訴えた。
その時、大貴族の行方を追ってきたのだろう、教会の息がかかった神官の一人が診療所に踏み込んできて、忌々しげに言い放った。
「伯爵、無駄です! 夜中に突然暴れ出し、意味不明な幻覚を見て、獣のように叫ぶ。これは古典的な『狐憑き』、すなわち悪魔がその肉体を乗っ取った証拠! 医師ごときの生体医療で治せるわけがありません。早く大聖堂の地下へ連れ戻し、神の光を浴びせ続けねば、魂まで腐り果てますぞ!」
(悪魔憑き? 狐憑きだと? ……これだからオカルト脳の宗教家は困る)
セラムは一歩下がったポジションから冷ややかな視線を少女に投げ、脳内システムを最大出力で起動した。
──【生体イメージング(脳波・神経):接続】
──【免疫プロファイル:スクリーニング】
セラムの網膜に、少女の脳内を走る微弱な「電気信号」の波形がリアルタイムで投影されていく。
【脳波データ:両側性に高振幅の棘波(てんかん波)および遅い波(徐波)を多数検出】
【免疫スクリーニング:自己抗体「抗NMDA受容体抗体」が陽性。脳の海馬および前頭葉を、患者自身の免疫細胞が誤って攻撃中】
【診断:抗NMDA受容体脳炎(こうエヌエムディーエーじゅようたいのうえん)】
(ビンゴだ。精神病でも呪いでもない。自分の身体を守るはずの免疫システムが暴走して、脳の重要な受容体を敵と勘違いして破壊し、脳を大炎上させているんだ。前世の地球でも、数年前まで原因不明の『悪魔憑き』として世界中で迫害されていた悲劇の急性脳炎だ)
原因さえ分かれば、やるべきことは決まっている。
だが、セラムは脳内モニターに表示されたもう一つの「警告データ」を見て、思わず舌打ちしそうになった。
【治療における禁忌アラート】
神殿の『ヒール(細胞活性魔法)』は、脳を攻撃している暴走免疫細胞(リンパ球)の増殖を爆発的に『超加速』させる。投与した場合、100%の確率で脳組織の不可逆的壊死、および呼吸停止に至る。
(あのお調子者の神官め。お祓いと称してヒールをかけまくってたな。そのせいで脳の炎症が限界突破して、今にも呼吸中枢(延髄)が焼き切れそうだぞ。あのまま地下室に幽閉されてたら、悪魔じゃなくて神殿の魔法で殺されてるところだ)
セラムは素早くペンを走らせ、少女の病状を抑え込もうと必死になっているロバートの視線の先──カルテの隙間へと、新しい記録用紙を挟むフリをしてカンペを滑り込ませた。
【セラムのカンペ】
『悪魔じゃない。脳の炎症。自己免疫の暴走。神殿のヒール(細胞活性)は炎症をさらに悪化させて脳を殺すので【絶対に厳禁】と伝えてください。
治療には、脳の炎症を力技で抑え込む強力な消炎薬(ステロイドの代用)が必要です。神官を追い出してください』
ロバートは少女の脈を測るポーズを取りながら、眼下の羊皮紙を鋭く一瞥した。
そこに書かれた「100%の確率で死亡」「ヒールは厳禁」という臨床データに心臓を跳ね上がらせながらも、彼は完璧な「天才医」のスイッチを入れた。
フッ……と冷徹に笑い、ロバートは神官を鋭く睨みつける。
「おい、そこの無知な神官。お前が大聖堂でお祈りを捧げている間に、この哀れな令嬢の脳は、お前たちの放った不器用なヒールによって完全に焼き切れかけているぞ」
「な、何だと……!? 不敬な!」
「伯爵、安心しなさい。お嬢さんに憑いているのは悪魔などではない。……脳内の『電気信号』が、彼女自身の暴走した免疫によってバグを起こしているだけだ。私なら、そのバグを消し去ってみせよう」
「おお、本当か! ドクター・ロバート!」
希望の光にしがみつく伯爵。
しかし、カンペを読んだロバートの背中には、冷や汗がダラダラと流れていた。
(セラム殿! 啖呵は切ったけど、その『脳の炎症を抑える薬』なんて、うちのボロ診療所の棚には一滴も置いてないよ!? どうするんだよぉぉぉ!!)
ロバートの必死のアイコンタクトを、セラムは冷徹に受け止める。
定時退社をかけた、時間との戦いが幕を開けた。
よろしければ何点でも構いませんので評価やコメントをいただけると嬉しいです。




