第3章:王都がんパニックと、秘密の夜間回診(エピローグ)
翌朝。貧民街の『ロバート診療所』の門前には、「午前は研究のため休診(午後1時より診療開始)」と書かれた羊皮紙が堂々と張り出されていた。
「ふあぁ……。やっぱり平日の朝寝坊は最高だな。定時退社も良いが、遅番というのも悪くない」
セラムは昼前にのそのそと起き上がり、昨夜稼いだ金貨の詰まった袋を眺めながら、淹れたてのハーブティーをそそった。
一方、元宮廷医のロバートは、昨夜の命がけの「水圧剥離術」の緊張からようやく解放され、まだベッドの中で泥のように眠っている。
(さて、あの『がん細胞を急増させる高級クリーム』の成分だが……)
セラムは脳内のラボシステムを起動し、昨夜密かにサンプリングしておいたクリームの残留成分のバックデータを叩いた。
──【生体分析:成分解析】
【対象:王都錬金工房製・美容クリーム】
【主要成分:魔力活性化多糖類、未知の細胞分裂促進因子】
【結論:意図的に細胞の『接触阻止(増殖を止めるブレーキ)』を破壊する化合物。過剰なヒール魔法と組み合わさることで、確実に悪性腫瘍を誘発するよう設計されている】
(ただの錬金術の失敗じゃない。これは、神殿の『ヒール』の価値を跳ね上げるためか、あるいは王都の貴族たちを病に陥れるための……明らかな人工物、いや、『薬害テロ』だな)
きな臭い陰謀の匂いがプンプンする。
普通の物語の主人公なら、ここから真相を暴くために王都を駆け巡るのだろう。だが、セラムはふっと息を吐いて冷ややかに笑った。
(まぁ、俺はただの雇われ助手だ。表立って王都の政治闘争に首を突っ込んで、残業が増えるなんて真っ平御免だからな。……とはいえ、このままこの劇薬が流通し続けて患者が激増したら、巡り巡って俺の『定時退社ライフ』が脅かされる)
思考を巡らせたセラムは閃いた。
(直接動くのは馬鹿のすることだ。こういう時は、当事者に爆弾を投げつけるに限る)
セラムは羽ペンを取ると、文字から筆跡が割れないよう、あえて王都で最もありふれた安価な羊皮紙に、事務的で冷徹な「報告書」を書き連ねた。
【密告書:王宮および公爵家御中】
現在、王都の貴族間で流行している錬金クリームには、細胞の増殖ブレーキを破壊する毒素が含まれている。これに神殿の『ヒール(細胞活性)』を重ねると、肉塊が異常増殖する「不治の病」が人工的に引き起こされる。
昨夜、公爵令嬢の顔面から摘出された肉塊がその動かぬ証拠である。
目的は神殿の権威失墜、あるいは貴族社会の混乱。
早急に該当クリームの流通停止、および錬金工房の強制捜査を推奨する。
──一介の愛国者より。
セラムは、昨夜の残渣から抽出したクリームの分析データ(結晶パターンのスケッチ)を同封し、手紙を封印した。
送り先は、昨夜この診療所を訪れた「聖女」が所属する大聖堂、そして患者本人である「公爵家」の門番だ。診療所の小遣いで貧民街の浮浪児を一人雇い、「大聖堂と公爵家のポストにこれを放り込んできたら、この銀貨をやる」と告げて手紙を託した。
(よし、これで良心の呵責はゼロ。あとは権力を持ってるお偉いさん方が、勝手に裏で潰し合ってくれればいい。俺たちの足がつく証拠は一切残していないし、これで一件落着だ。……さあ、そろそろロバート先生を起こして午後診の準備をさせるか)
自らの平穏と定時退社を守るため、完璧なリスクヘッジを済ませたセラムであった。
セラムが匿名で送りつけた、あまりにも正確すぎる「美容クリームの成分分析データ」と「薬害テロの指摘」を記した密告書。
それは狙い通り、公爵家と大聖堂のトップを震撼させた。
身内の令嬢が被害に遭っていた公爵家は激怒し、王宮の憲兵隊を動かして問題の錬金工房を極秘裏に強制捜査。クリームはすべて回収・破棄され、裏で糸を引いていた過激派の錬金術師たちは一網打尽にされた。
神殿側も「ヒール魔法が万能ではない(むしろ悪化させる)」という不都合な真実を隠蔽するため、この一件を「悪質な毒殺未遂事件」として処理し、表向きは完全に闇に葬った。
こうして、王都を襲いかけた「人工的ながんのパンデミック」は、一般の民が気づかぬうちに、水面下でひっそりと、しかし確実に鎮圧されたのである。
(ふむ、どうやら上手く立ち回ってくれたみたいだな)
それから数週間後。
王都の高級住宅街からあのクリームが消え、診療所に「顔に謎のしこりができた」と駆け込んでくる貴族の数がゼロになったのを確認し、セラムはコーヒーをすすりながら満足げに頷いた。
自分の手を汚さず、残業も増やさず、データだけでテロを未然に防ぐ。これこそが臨床検査技師のスマートな危機管理というものだ。
ロバート診療所には、再び貧民街の住民たちが風邪や擦り傷で訪れる、のどかな(そしてセラムにとっては退屈で平和な)日常が戻っていた。
しかし、がんパニックが落ち着き、ようやく手に入れた平穏な定時退社ライフも、長くは続かなかった。
今度は「政治的な陰謀」ではなく、人間の脳が引き起こす「医学の神秘とザンネンな誤解」が、再び診療所のドアを叩いたのだ。
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