第3章:王都がんパニックと、秘密の夜間回診(第3話)
(……ロバート先生。普通のメスで闇雲に切り進めば、上顎動脈を傷つけて大出血を起こす。血管と神経にべったりと癒着したこの化け物を剥がすには、刃物ではなく『水』を使うんだ)
俺はサラサラと羊皮紙に指示を書き連ね、処方箋を渡すポーズでロバートの手元に滑り込ませた。
カンペを盗み見たロバートの目が一瞬だけ泳ぐ。
『水圧剥離』──前世の高度な外科手術で用いられる、組織の隙間に液体を注入して圧力をかけ、血管や神経を傷つけずに腫瘍だけを浮かび上がらせる最先端の術式だ。
もちろん、ロバートがそんな概念を知るはずもない。
だが、彼は天才医のポーカーフェイスを崩さなかった。フッ、と低く笑い、組んでいた腕を解く。
「聖女よ、そしてお嬢さん。……確かにこの化け物は、あなた方の無知なヒールによって深く根を張り、重要な血管を巻き込んでいる。並の医師なら、メスを入れた瞬間に血の海を作り出し、顔の神経をズタズタにして終わるだろう」
「そんな……!」
公爵令嬢が絶望に顔を覆い、すすり泣く。
「だが、私を誰だと思っている」
ロバートは傲然と言い放つと、引き出しから細い注射針と、生理食塩水(ただの綺麗な塩水)を満たしたシリンジを取り出した。
「セラム、灯りを最大に。……これより、我が宮廷医術の秘奥『水刃の剥離術』を執り行う」
「はい、先生」
俺は魔導ランプを令嬢の顔面に近づけ、網膜への投影システムを『超高解像』に切り替えた。
【術中イメージング:ズームイン】
【上顎動脈と腫瘍底部の境界:0.2ミリメートル】
【ナビゲーション:青ラインの隙間に針尖を固定、液圧注入を開始せよ】
(ロバート先生、怯むな。俺がみせる青いガイドラインの『ど真ん中』に針を刺せ。そこにゆっくりと薬液を注入するんだ)
ロバートの瞳が、俺の投影したミクロの境界線を捉える。
彼は極極細の針を、令嬢の腫瘍と健康な組織のわずかな隙間へと、驚くべき精密さで刺し入れた。そして、ゆっくりとシリンジのピストンを押していく。
じわじわと、令嬢の皮膚の下に液体が送り込まれていく。
「あ……冷たい……?」
令嬢が微かに呟く。
水圧によって、癒着していたがん細胞の塊が、大切な動脈や神経から「ベリベリ」と物理的に浮き上がっていく様子が、俺の脳内エコーに克明に映し出された。
【上顎動脈からの剥離:成功】
【眼下神経からの剥離:成功】
【腫瘍の完全孤立化を確認。メスによる切除可能】
(よし、浮いた! 今だロバート先生、メスでその根元を一気にすくい取れ!)
「ふむ。我が水刃の前に、剥がれぬ組織はない」
ロバートはすかさずメスに持ち替えると、完全に血管から遮断されて浮き上がったピンポン玉大のしこりを、まるで熟した果実をもぎ取るかのように、鮮やかに一閃した。
コロン。
不気味な赤黒い肉の塊が、ガラス皿の上へと転がり落ちる。大出血は──一滴もない。
「うそ……、本当に血が、流れていない……?」
聖女が信じられないものを見る目で皿の上の塊を見つめた。
「これで終わりだ。──ヒール」
ロバートが手をかざすと、純白の魔力が令嬢の大きく窪んだ頬を満たしていく。
水圧剥離によって完全に守られた上顎動脈と神経のトポロジーに沿って、健常な細胞たちが猛烈な勢いで手を取り合い、パズルのピースが嵌まるように傷口を塞いでいく。
ものの数十秒で、令嬢の頬は、何事もなかったかのように平らで、吸い付くような美しい素肌へと生まれ変わった。
「あ……、あ……」
手鏡を持たされた公爵令嬢は、何度も自分の左頬を指で触り、やがてその場に泣き崩れた。
「治ってる……、本当に、綺麗に治ってる……! これで、王太子殿下の御前へ出られます……! ありがとうございます、ドクター・ロバート……!」
「ふむ、これに懲りたら、二度と出所不明の錬金クリームなど使わぬことだ。……聖女よ、今夜の分のクランケはこれで終わりだ。彼女たちを連れて、速やかに退出しなさい」
ロバートは冷徹に言い放ち、背を向けた。
「はい! 本当に、本当にありがとうございました!」
聖女は何度も頭を下げ、重い金貨の袋をさらに三つ、机の上に並べて、夢見心地の令嬢たちを連れて勝手口から去っていった。
バタン、と静かにドアが閉まる。
「……セラム殿ォォォ!!」
次の瞬間、ロバートは椅子から転げ落ち、俺の足元に縋りついた。
「死ぬ! 今度こそ死ぬかと思った! 針を刺す手が1ミリずれたら動脈が噴水になるところだったんだよ!? なにあの水で剥がすやつ! 怖すぎるよぉぉぉ!!」
俺は情けなく震えるロバートを冷ややかな目で見下ろしながら、机の上に並んだ4つの金貨の袋を素早く回収した。
「お見事でしたよ、ロバート先生。あの極限状態での針捌きは、流石は元宮廷医です。……医者としてのスキルがワンランク上がりましたね。それに貧民街の通常外来の3ヶ月分が、たった1時間の残業で手に入ったわけですから」
金貨の詰まった袋をトントン、と叩いて見せると、俺はそっとため息をついた。
「これほど集中力を酷使する高難度のオペを夜間にこなしたんです。先生の心臓と、私の睡眠時間を守るためにも……『明日の午前診は休診』にしましょう」
「えっ……? 休診にしていいの……?」
ロバートが涙目のまま、ぱあっと顔を輝かせて見上げてくる。
「ええ。これだけ難しい手術の翌朝ですから、医師の体調管理(と、俺の朝寝坊)も立派なリスク管理です。明日は午後からののんびり出勤ということにしましょう。入り口に『午前は研究のため休診』と張り紙を出しておきます」
「セラム殿……! なんて優しい、気の利く助手なんだ……! 君がいてくれて本当に良かった……!」
ロバートは感激に声を震わせ、俺の手を両手で握りしめてブンブンと振った。
(さすがにオレも今晩は疲れた。これで明日の朝は堂々と二度寝ができる)
「さあ、報酬の山分けをして、今夜はもう解散です。……それと、王都の錬金工房がこの『がん細胞製造クリーム』を大量生産しているという件、少し嫌な予感がします。一度、成分のバックデータを詳しく叩いておいた方が良さそうですね」
俺は白衣のポケットに金貨を仕舞いながら、窓の外の暗い王都の街並みを見つめた。
この薬害の裏には、ただの「錬金術の失敗」だけでは片付かない、もっと濁った意図が隠されている気がしてならなかった。




