三日月の名刺
名刺入れの中身を机に広げたのは、猫が寝静まった頃だった。
ロゴは洒落た三日月の意匠。裏には輸入商社の名前と、聞いたこともない部署名が刷られている。「開発三課」。商社に開発部があるというのが、まず引っかかった。
カルロは煙草に火をつけず、ただ指に挟んだまま眺めた。火をつける気になれない夜というのは、大抵ろくでもないことを考えている証拠だ。
「輸入商社、ねえ」
独り言が事務所の壁に吸い込まれる。ゴルツなら鼻で笑うだろう。金にもならない詮索だと。だが、あの男——なりたての吸血鬼が握りしめていたこの名刺入れの縁は、指の跡がつくほど強く握られていた形跡があった。逃げてきた人間の握り方だ。追ってきた者の握り方じゃない。
電話帳より役に立つのは、この街で三十年飯を食ってきた人脈だった。カルロは受話器を取り、埃をかぶった手帳をめくる。
「……ああ、俺だ。夜分に悪い。ちょっと聞きたいことがある。三日月マークの商社、知らないか」
相手が黙り込む間が、答えより雄弁だった。
「知らない、なら普通に言うだろう。その間はなんだ」
「──カルロ、お前、また首突っ込む気か」
「金にはならないと思う」
「だろうな」
電話の向こうでため息が聞こえた。それから低い声で、聞いたこともない単語がひとつ落とされる。「転換屋」。人を吸血鬼に変える仕事を請け負う者たちのことを、裏の世界ではそう呼ぶらしい。表向きは商社。裏では、人間を「材料」として右から左へ流している——そんな噂が、ここ半年で急に増えたのだという。
「教えてくれるのか、それとも脅すのか、どっちだ」
「教えてやる。そのかわり俺の名前は出すな。あそこは、共存協定の裏をかいて商売してる連中だ。表沙汰にすりゃ協定側が動く。動けば、あんたも巻き込まれる」
「もう巻き込まれてる」
「……はっ。相変わらずだな、お前は」
男は、開発三課というのが実質の中枢だと言った。三日月マークの商社は表看板に過ぎず、実態は「素体」と呼ばれる人間を集め、転換の処置を施し、然るべき筋——恐らくは吸血鬼社会の上層——に卸している。素体の集め方は表向き自由意志の契約だが、契約書の文字は小さく、逃げ出せば「回収」の名目で追われる。
「回収、ね」
「逃げた素体は資産の紛失扱いだ。連中にとっちゃ、それだけの話さ」
電話を切った後も、カルロはしばらく名刺入れを睨んでいた。膝の上で丸くなっていた猫が、薄目を開けてこちらを見る。
「お前はどう思う」
猫は答えず、また目を閉じた。だが尻尾の先が、一度だけゆっくりと揺れた。
それで十分だった。
翌朝、カルロは煙草も吸わずに事務所を出た。行き先は港近くの商業地区、三日月マークの看板を掲げたビルだった。表玄関から入る気はない。三十年この街で飯を食ってきた男には、表玄関以外の入り方がいくつもある。
ビルの裏手、荷捌き場に回ると、段ボール箱を積んだトラックが停まっていた。積み荷の伝票には「医療用サンプル」の文字。だが箱の隙間から漏れる冷気と、微かな薬品の匂いは、医療用サンプルにしては量が多すぎた。
カルロは作業員のふりをして、箱の一つに軽く手を触れた。中で何かが、かすかに身じろぎした気配がした。人の重さだ。
背筋に、久しぶりの悪寒が走った。傭兵時代、戦場で嗅いだのと同じ種類の悪寒だった。
「……こいつは、想像より根が深いな」
独り言は、今度は誰にも聞かれなかった——はずだった。
振り返ると、荷捌き場の陰にスーツの男が立っていた。三日月マークの名札をつけた、見覚えのない顔。だが目つきだけは、カルロの知っている「回収屋」のそれだった。
「お客さん、ここは関係者以外立入禁止でね」
声は丁寧だったが、笑っていない目が、カルロの正体をすでに見透かしているようだった。
「積み荷を間違えたみたいでね。医療用サンプルにしちゃ、ずいぶん重そうだ」
「よくある誤解ですよ。うちは特殊な冷凍検体も扱ってますから」
「検体が、身じろぎするのか」
男の表情から、初めて愛想が消えた。カルロは両手を軽く上げ、敵意がないことを示しながら、視線だけは男の腰のあたりから外さなかった。武器を持ち慣れた人間の癖だ。傭兵時代に嫌というほど叩き込まれた。
「あんた、回収屋だろう。開発三課の」
「……その言葉、どこで?」
「風の噂だ。名前は伏せとく約束でね」
男はゆっくりと距離を詰めてきた。荷捌き場という狭い空間、逃げ場は限られている。カルロは背後のトラックを意識しながら、頭の中で三つの退路を数えた。多い方じゃない。
「お客さん、詮索は体に毒だ。特にこの街じゃね」
「脅しか」
「親切な忠告ですよ。うちは、逃げた素体は必ず回収する。例外はない。それが、素体自身であろうと、素体を匿った第三者であろうと」
その一言で、カルロの中の何かが冷たく凪いだ。事務所の少女の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「匿った覚えはないな。ただの猫探し屋だ」
「そうですか。なら、これ以上は無粋でしたね」
男はそう言うと、懐から名刺——三日月マークの、今朝カルロが見たのと同じ意匠の名刺——を取り出し、カルロの胸ポケットに差し込んだ。
「気が変わったら、そちらへ。ああ、それと」
男は踵を返しかけて、思い出したように付け加えた。
「猫探し屋さん、ここに来たことは、上には報告しません。今日のところは、ね」
その「今日のところは」という一言の重みを、カルロは十分すぎるほど理解していた。荷捌き場を出て、表通りに戻るまでの間、悪寒は一度も引かなかった。
事務所に戻る道すがら、カルロは胸ポケットの名刺を指先で弄びながら、独りごちた。
「猫探し屋、か。……上等だ」
その声には、珍しく笑いが混じっていた。




