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第九話 戦が始まったのに、俺のいる場所は台帳の前でした

開戦の報せは、朝に来た。


 城内に鐘が鳴り響いた。兵士たちが走り回っている。どこかで怒鳴り声がした。廊下から重い足音が続いて聞こえてくる。甲冑を着た兵士が何人も走り抜けていった。


 レインが廊下を通り過ぎた。甲冑姿で、地図を片手に持っていた。すれ違いざまに俺を見た。


 「台帳の前にいるのか」


 「そうです」


 「……戦が始まったぞ」


 「知っています。やることがあるので」


 レインが少し笑った。「お前らしいな」と言って走っていった。


 城の空気が変わっていくのが分かった。鐘の音が止んでも、廊下の足音は続いていた。武器を持った兵士が列を作って城門に向かっていく。グルバッシュが厨房で大声を上げながら、出陣前の食事の準備を急いでいた。ゲルが「俺も何かしなきゃっすよ!」と走り回っていた。


 全員が戦に向かっていく。


 俺は台帳を開いた。


 やることが山積みだ。各補給拠点の在庫を確認する。前線からの要請を整理する。輸送の順序を決める。優先度をつける。ゲルに伝令を出す。それを繰り返す。


 戦が始まった。でも俺のいる場所は台帳の前だ。それでいい。剣も魔法も使えない。でも補給が切れれば、どんな軍も崩れる。台帳の前が俺の戦場だ。


◆◆◆


 開戦から一週間、待つ戦略は機能していた。


 前線から届く要請を一つずつ処理した。


 三日目、第二拠点から「矢が足りない」という報告が来た。一日で五千本使ったらしい。台帳を開いて第一拠点の在庫を確認した。三千本回せる。残りは城から直送する。輸送に半日かかるが、第一拠点の分でしのげる計算だ。指示を出した。ゲルが走った。


 五日目、食料の消費が予測より早くなっていた。台帳の数字と実績を照合する。気温が下がっていた。体が熱を作るために食料消費が増えている。この時期の気温変化を加味していなかった。各拠点に二割増しで配給するよう修正した。


 七日目、第三ルートの輸送が遅延した。泥濘で馬の速度が落ちていた。第一ルートに一部を振り替えた。到着は三時間遅れたが、止まらなかった。


 「村田さん、なんか淡々としてますね」とゲルが言った。「戦ですよ?」


 「やることをリストにして一つずつ潰すだけなので」


 「前の会社でもこんな感じだったんですか」


 「納期が迫っている時は、いつもこんな感じでした」


 ゲルが「……戦と納期を同じに考えてるんですか」と言った。


 「やることは変わらないので」


 前線から届く報告を整理すると、人間国家軍は速攻で決着をつけようとしていた。騎馬隊が動き回り、魔王軍の陣形を揺さぶろうとしている。でも崩れなかった。補給が続いているからだ。矢が届く。食料が届く。薬が届く。


 「村田さんの計算通りっすね」とゲルが言った。


 「今のところは」と俺は答えた。


 「今のところ、というのは」


 「まだ十日も経っていないので」


 ゲルが「心配性っすね」と言った。俺は台帳に戻った。


 心配性ではない。バルクが向こうにいる。俺と同じ「数字で動く人間」だ。以前、交渉の場で一度会っている。あの男は俺のことを正確に見ていた。「我が国の兵站部門より管理水準が高い」と言った。それはつまり、俺のやり方を理解しているということだ。


 理解している人間は、対策を立てる。


 いつか来ると思っていた。


◆◆◆


 八日目、リリスが補給拠点に来た。


 戦場の負傷者処置の合間に、薬の在庫を確認しに来たらしい。


 「消費量、想定より多い」とリリスが言った。資料を持ってきていた。


 「どのくらいですか」


 「二割増し。負傷者が予測より多い。人間国家軍の攻めが激しかった最初の一週間で増えた」


 俺は台帳を開いた。二人で数字を確認した。


 「このペースだと、あと十八日で警戒ラインを下回ります」


 「補充はどのくらいで来る」


 「城から三日で届きます。今すぐ発注をかければ間に合います」


 「……ちゃんと計算してるのね」


 「そのためにラインを決めておいたので」


 リリスがしばらく数字を見た。それから静かに言った。


 「……以前、消費量の変化を見落としたことがあった」


 「ありましたね」


 「今回は自分で気づいた。仕組みがあるから、数字の変化に気づけた」


 「そのためにラインを決めておいたので」


 「……同じことを二回言った」


 「そうですね」


 リリスが小さく笑った。珍しい顔だった。帰り際に一言付け加えた。


 「後方にいなさいよ。ちゃんと」


 「います」


 「……補給が止まったら困るから。それだけだから」


 「わかっています」


 リリスが出ていった。


 俺は台帳に戻った。薬の発注をかけてから、次の問題に移った。


◆◆◆


 十日目、最初の異変に気づいた。


 前線からの報告に、小さな変化があった。人間国家軍の騎馬隊の動きが鈍くなった。速攻を仕掛けてくる頻度が下がっている。代わりに陣地の構築が始まっていた。


 俺は台帳を開いて補給の流れを確認した。


 向こうの補給線が太くなっていた。物資の輸送量が増えている。持久戦の構えだ。


 計算し直した。


 向こうの補給限界は七十三日のはずだった。でも補給線を強化されると話が変わる。バルクが追加の補給ルートを二本引いていた。物資の流れが変わっている。七十三日が九十日になる。さらに延びる可能性がある。


 一方でこちらの備蓄は有限だ。戦が長引けば長引くほど、消耗していく。


 台帳の数字を三度確認した。間違いではなかった。


 「……読まれましたね」


 「え?」とゲルが聞いた。


 「バルクが俺の戦略を読んでいます」


 「どういうことっすか」


 「俺が補給で粘る戦略を取ると分かった上で、補給が続いても勝てる陣形に組み直しています。向こうの補給限界を延ばしながら、こちらの消耗を待つ気です」


 ゲルが「……つまり」と言った。


 「このままでは、こちらが先に時間切れになります」


 ゲルが「どうするんですか!!」と叫んだ。


 俺は台帳を閉じた。考える必要があった。


 バルクは正確だった。


 交渉の場で資料を見せた時、バルクは全部読んでいた。食材費の削減率、矢の生産量、薬草の備蓄、補給ルートの設計——全部。あの男は俺のやり方を理解した上で、今回それを逆手に取ってきた。


 「村田は補給で粘る。だから補給を絶つのではなく、補給が続いても勝てる陣形で戦う」


 正しい読みだ。俺がバルクの立場でも同じことをする。


 ただ一つ、バルクが見落としているものがある。


 俺はレインのところへ行った。


◆◆◆


 レインは地図を広げて前線の動きを分析していた。俺が入ってくると「珍しいな。お前から来るとは」と言った。


 「計算が狂いました」


 レインが少し目を細めた。「……お前が計算ミスをするのか」


 「バルクが俺の戦略を読んでいました。補給で粘る前提で陣形を組み直しています。向こうの補給限界が延びた。このままの戦略では時間切れになります」


 「つまり」


 「早期に決着をつける必要があります」


 レインがしばらく黙った。それから「やっと俺の出番か」と言って立ち上がった。


 「ただ一つ問題があります」と俺は続けた。


 「何だ」


 「バルクは俺を警戒しています。補給を管理している人間として、俺の動きをずっと見ている。でも——」


 俺は地図を指さした。「向こうの陣形を見てください。補給線の防衛に重点を置いています。そのせいで、本陣の守りが薄い」


 レインが地図を覗いた。


 「……本当だ。補給線を守ることに兵力を使いすぎている」


 「バルクは俺を正確に読んだ。でもレインさんのことを甘く見ています」


 「なぜそう言い切れる」


 「レインさんは開戦前まで長期の視察と前線偵察に出ていました。城に戻ったのは開戦の直前です。向こうの諜報が城の内情を把握していたのは、レインさんが不在の時期です。つまり向こうはレインさんの存在も動き方も、ほとんど情報を持っていない」


 レインがしばらく黙った。


 「……俺が城にいなかった時期に、向こうは情報を集めていたということか」


 「はい。だから俺が補給戦略で粘ると思っている。レインさんが動くとは想定していない」


 レインが地図から目を上げた。


 「……なあ、村田」


 「はい」


 「お前、俺に頭を下げに来たのは初めてじゃないか」


 「そうですね」


 「計算が狂った、助けてくれ、と言いに来た」


 「そういうことになります」


 レインがしばらく俺を見た。それから笑った。清々しい笑い方だった。


 「悪くない。乗った」


◆◆◆


 作戦を決めた。


 俺は表向き「補給をさらに強化する」動きを取った。物資の輸送量を増やし、各拠点への補充を大げさに見せる。バルクが見れば「まだ粘る気だ」と読む。補給線への警戒をさらに強めるはずだ。


 その間、レインは少数精鋭を率いて待機していた。


 ゲルが「村田さん、これは本当に大丈夫っすか」と聞いてきた。


 「分かりません」


 「え?」


 「バルクが補給線に兵力を集中させれば、本陣が手薄になります。でもバルクが読まなければ作戦は失敗します」


 「そんな不確かな作戦で大丈夫なんですか!!」


 「バルクなら読みます。俺がバルクの立場でも同じ判断をします」


 「……村田さんが敵だったら怖いっすね」


 「よく言われます」


 ゲルが「もしレインさんが失敗したらどうするんすか」と続けた。


 「……その場合も計算してあります」


 「どんな計算っすか」


 「レインさんが失敗する計算が出なかったので、頼みました」


 ゲルが「それ計算じゃなくて信頼じゃないっすか!」と叫んだ。


 俺は台帳に戻った。


◆◆◆


 翌日の夕方、バルクが動いた。


 「補給線への攻撃開始」という報告が届いた。


 想定通りだった。補給の強化を見て、バルクが「補給線を叩けば崩れる」と判断した。兵力を補給線攻撃に集中させた。


 それが合図だった。


 レインが動いた。


 少数精鋭十五人。手薄になった本陣への強行突破。補給線の攻撃に兵力を割いていた人間国家軍の本陣は、想定の半分以下の守りしかなかった。


 報告が届いた時、俺は台帳の前にいた。


 「本陣に混乱発生。人間国家軍が後退を始めました」


 ゲルが「やったっすよ!!!」と叫んだ。


◆◆◆


 夜、レインが戻ってきた。


 鎧に傷があった。でも表情は清々しかった。


 「本陣は手薄だった。お前の計算通りだ」


 「レインさんが動いてくれたからです」


 「バルクという男、最後まで補給線を見ていたな。俺が本陣に突っ込んでくるとは思っていなかったようだ」


 「向こうがレインさんの情報を持っていなかったので」


 レインがしばらく黙った。


 「……お前に頼まれた時、正直驚いた」


 「そうですか」


 「お前が計算ミスをするとは思っていなかったから」


 「バルクが優秀だったので」


 レインが「敵を褒めるのか」と言った。「正確に評価しているだけです」と俺は答えた。


 レインが立ち上がりかけて、少し止まった。


 「なあ、村田」


 「はい」


 「以前言っただろ。お前の数字と俺のセンスを合わせたら無敵だって」


 「言っていましたね」


 「今日、証明した」


 俺は少し考えた。


 「……そうですね」


 レインが笑って出ていった。


 廊下に一人残って、俺は台帳を開いた。


 人間国家軍の補給限界まで、計算上は残り五十日を切った。でも本陣が崩れた今、その計算は意味をなさないかもしれない。


 撤退交渉が来るのは、もう少し先だ。


 次にやることを書き始めた。

読んでいただきありがとうございます。

「計算が狂いました」——誠一が初めてレインに頭を下げに行く場面、

書いていて一番気持ちよかったシーンです。

バルクは誠一を正確に読んでいた。でもレインを読めなかった。

数字で動く人間同士の読み合いが、次の話でさらに深まります。

「我々は何と戦っていたのだ」という将軍の言葉は、

誠一一人への評価ではありません。


▼次話

「補給担当が、敵陣に単身で乗り込みました」

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