見えない綻び(ほころび)
一月上旬。夜。
霞が関の建物は、昼よりも整って見える。
窓の明かりが点々と残っている。消えている部屋も多い。
だが、完全な闇ではない。
――まだ回っている。
それが、この国の現在地だった。
――
厚生省。
医務局のフロアは静かだった。
昼の騒がしさが嘘のように、紙の音だけがある。
コピー機の駆動音。ホチキスの金属音。遠くの電話。
時田涼子は、今日の報告を三部に分けていた。
一部は正式ルート。
一部は参考資料。
もう一部は――口頭でしか渡せない。
正式に回せば、責任が発生する。
責任が発生すれば、動きが止まる。
止めたくない。
まだ崩れていない今なら、間に合う。
涼子は短く書き添える。
「……石本政務次官に」
紙を封筒に入れる。
封はしない。
封をしないことが、今夜の形だった。
――
運輸省。鉄道監督局。
ダイヤ改正案の紙が机に広がっている。
若い職員の欠勤が増えていた。
検査員。信号担当。保線の若手。
数は多くない。だが偏っている。
局長補佐が言う。
「間引きは、まだ早い」
隣の課長が首を振る。
「今のうちに“準備”だ。事故を起こしてからでは遅い」
“事故”。
口に出すと現実になる言葉。
鉄道は止まらない。
止めた瞬間、社会が止まる。
だからこそ――止めないための削減が検討される。
本数を一割減らすだけで、現場の負荷は下がる。
乗客は文句を言う。だが事故よりましだ。
まだ決定ではない。
だが、紙の上で静かに始まっている。
――
建設省。都市局。
橋梁点検の優先順位表が、赤鉛筆で書き換えられている。
若い技術者が休んだ。代わりに五十代のベテランが現場に出ている。
本来なら机にいる人間だ。
部長が言う。
「重い現場は回すな」
「落とせない橋から先に」
選ぶということは、捨てるということだ。
捨てた橋が、いつか落ちる可能性はある。
だが今は、全部は守れない。
それでも――まだ機能している。
優先順位をつけられるうちは、国家は動いている。
――
大蔵省。主計局。
数字はまだ大きくは崩れていない。
だが法人税の中間納付に、微妙な遅れが出始めている。
若い主査が言う。
「猶予申請が増えてます」
「理由は?」
「人手不足、と」
“人手不足”。
それは経済用語ではない。現場の言葉だ。
主計課長補佐の佐々木早紀は、ペンを止める。
「……まだ、誤差の範囲」
自分に言い聞かせるように。
誤差。誤差であるうちは、制度は壊れない。
――
その夜。議員会館。
一室に灯りが残っていた。
石本茂は、机に封のされていない封筒を置く。
涼子の報告。
読み終え、目を閉じる。
“時間がありません”
紙の言葉が、頭の中で反復する。
正式な対策本部にすれば、ニュースになる。
ニュースになれば、混乱が先に広がる。
――だから、本部にはしない。
名は付いた。だが強権にはしない。
石本は電話を取る。番号を回す。
「——夜分失礼します」
相手は各省の次官級ではない。
その下。いま実務を握っている人間たち。
石本は言う。
「大げさな名前はいりません」
「情報だけ、夜に回してください。正式ルートとは別に」
沈黙の向こうで、息を呑む音がする。
「記録は最小限で」
「ですが、現場の数字は止めないでください」
それが、合意だった。
会議ではない。
文書もない。
ただ、電話の向こうの理解だけ。
この国は、まだ機能している。
鉄道は走る。橋は立っている。税は集まる。病院は灯りをつけている。
だが、若い男から順番に、欠けていく。
欠ける順番が見えたとき、国家は初めて
“自分が削れている”
と知る。
時計は日付をまたいだ。
秒針は同じ速さで進む。
まだ、何も終わっていない。
だが、何かが続いている。
名はある。だが形は、まだ影だ。




