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欠ける順番

父が休んだのは、咳が出たからじゃなかった。


出張から帰って二日目、三日目。

肇は、朝になっても起き上がれなかった。


居間のこたつの縁に手をついたまま、身体が前に折れている。

髪が乱れ、額に汗が滲む。

いつもなら襟をきっちり留める人が、今日はボタンに指が届いていない。


「……平気だ」


声が、平気じゃない。

掠れて、薄い。


その“平気だ”が、優にはいちばん怖かった。


和美が台所から戻ってくる。

スーツの上にコート。鞄は肩にかけたまま。

父の額に手を当てる。


「熱、ある」


「寝れば治る」


肇は笑おうとして、口の端だけが上がった。

笑いにならない。


和美は言い切った。


「病院。今日、行って」


父の眉がわずかに寄る。


「……仕事が」


「仕事は休んでるでしょ。もう連絡した。――まず身体」


怒ってはいない。

壊れそうなものを壊さないための声だった。


肇は言い返そうとして息を吸い、そこで止まった。

胸が狭いのが、見て分かる。


和美は優を見る。


「優。学校、終わったらまっすぐ帰ってきて。昼、お父さんに、うどんでも食べさせて」


「うん」


返事はできたのに、腹の奥が重いままだった。


玄関で靴を履きながら、和美は声を落とす。


「大学もね……人が、いないの」


急いでいる言葉は、現実が追いついていない証拠みたいだった。


「休みが多い。窓口も、会議も、予定どおりにいかない。……課長まで休んで、机の上が紙の山よ」


“大学”は、安定の象徴みたいな場所だったはずだ。

そこが回らない。


回らない感触が、家の中にも流れ込んでくる。


「だから」


和美は続ける。


「私、休めない。ごめんね」


謝られると、余計に胸が詰まる。

優は首を振った。


「いいよ」


和美は一瞬だけ優の頬に触れ、すぐ手を離した。

触れる時間が短いほど、温かさが残った。


「病院、行けそう?」


父にもう一度言うと、肇は目を閉じて頷いた。

頷き方が、いつもの父じゃない。力が足りない。


扉が閉まる。鍵がかかる。母の足音が遠ざかる。

家の中が静かになった。


静かすぎて、父の呼吸が聞こえる。

吸って、吐く。

その間が少し長い。


「……優」


父が呼んだ。


優は隣に座る。

座った瞬間、父の体温が空気ごと伝わってくる気がした。


「大丈夫?」


肇は笑おうとして、また失敗した。


「大丈夫だ。……ちょっと、疲れてるだけ」


“疲れてるだけ”。


この家の中でも、その言葉が便利な毛布として使われ始めている。

便利すぎて、怖い。


――


学校は、いつも通りに始まった。


いつも通りの朝礼。いつも通りのホームルーム。

ただ、廊下の端に貼られた時間割が、また書き換えられている。


数学:自習

社会:代講(――先生)


代講の名前が、女の先生だった。

前まで男の先生が受け持っていたクラスを、女の先生が回している。


それ自体は「よくある穴埋め」の形をしているのに、穴の数だけが増えていく。


職員室の扉の隙間から、電話の声が漏れる。


「――はい、欠勤ですね。……はい、熱。……分かりました、後で――」


“欠勤”という単語が、もう日常の音になり始めていた。


授業中、優はノートを取っているふりをしながら、父の顔を何度も思い出した。

額の汗。笑いの失敗。息の詰まり。


それでも黒板の字は進む。

プリントが配られる。

提出期限が決まる。


世界は、止まらないふりが上手い。

その「上手さ」が、いちばん不気味だった。


――


家に帰ると、美幸が居間でテレビをつけていた。


「おかえり」


言葉はこっちを向いているのに、目は画面に貼りついたまま。


いつも通りの背中。

――なのに今日は、その“いつも通り”が腹立たしい。


こたつには父が横になっていた。

布団を肩まで引き上げて、目を閉じている。

頬が赤い。息が浅い。


寝ているというより、“そこに留めてある”みたいだった。


優は台所に立つ。

鍋に水を張って火をつける。

湯が鳴り、蒸気が立つ。


音があるだけで、家の形が保たれている気がした。


うどんを器に移して、父の前に置く。


「……食べられる?」


父は目を開けずに、箸だけを動かした。

二口、三口。そこで止まる。

箸が器の縁に触れて、かすかな音がした。


「……うまい」


言うだけで、もう疲れている声。

褒め言葉が、励ましにならない。


そのとき、美幸がテレビに向かって言った。


「ねえ、今日も出てない」


「何が」


優が聞くと、美幸は唇を尖らせた。


「アキラだよ! 最近ずっと体調不良で休んでるんだって。テレビ出ないの。心配」


“心配”。


その言葉が、優の胸のどこかを跳ねさせた。

跳ねたのは怒りじゃない。焦りだった。


「……おまえさ」


声が硬い。自分でも驚くほど硬い。


「とうさんを、もっと心配しろよ」


美幸がきょとんとする。悪気のない顔。

悪気がないのが、一番刺さる。


「してるよ」


「してないだろ。アキラの方が心配じゃん」


美幸の顔が赤くなる。言い返しかけて、言葉が詰まる。

目に水が浮く。泣く寸前の顔。


その瞬間、父が小さく咳をした。


ひとつ。


軽い咳。

なのに、家の空気が固くなる。


優と美幸の言葉が、同時に止まった。


美幸が小さく言う。


「……お父さん、大丈夫かな」


優は答えなかった。

答えたら、現実になる。


優は父の額に手を当てた。

熱い。手のひらが熱を吸ってしまう。


「病院、行った?」


父は目を開けずに、首を振った。


「……待ってたら、楽になるかと」


“待ってたら”。


その言い方が、余計に怖い。

待っていた時間が、すでに二日分あるのを知っているからだ。


玄関の鍵が回る音がした。


母――和美が帰ってきた。

コートのまま、鞄も下ろさず居間を覗く。


父の顔。布団。うどんの器。

視線が順番に行って、止まる。


「……行ってないのね」


声が低い。怒りでも失望でもない。

“次の手順”へ切り替わる声だった。


和美は息をひとつ吸って、優を見る。


「優。美幸。――支度して。今から病院」


優は頷いた。

美幸も、涙を拭きながら頷いた。


父は起き上がろうとして、うまくいかない。

和美が黙って肩を貸す。迷いがない。

迷いのない動きが、怖い。


家族の動きが、一本の導線になる。


テレビでは、アイドルが笑っていた。録画の笑顔。

画面の中だけが、ずっと元気だった。


優は靴を履きながら、ふと思った。


最初に欠けたのは、棚だった。

次は、先生だった。

そして今、父が欠けていく。


欠ける順番が、静かすぎる。

静かだから、追いつけない。


――


玄関を出ると、夜の冷気が頬を刺した。


父――肇は、コートを着るだけで息が上がっていた。

玄関柱に片手をつき、肩で呼吸をする。


優は父の腕を支えた。

骨が軽い。いつもより軽い。

棒みたいに細い腕が、掌に頼りなく収まる。


和美が鍵を閉めながら言う。


「歩ける?」


肇は頷いた。

頷いたが、歩き出すまでに一拍かかった。


車に乗せるまでが、ひと仕事だった。

シートベルトを締める手が震える。


父は「大丈夫」と言おうとして、言葉が喉で折れた。


病院へ向かう道で、救急車のサイレンが二度すれ違った。

赤い光が窓に跳ねて、消える。


「……多いね」


美幸が小さく言った。


優は返事をしなかった。

返事をすると、現実が増える気がした。


――


病院の駐車場は、いつもより明るかった。

照明が増えているのかと思った。違う。車のライトだ。


誰も消さないまま停めて、急いで降りている。

ライトの白い筋が、夜の空気を切り裂いている。


玄関の自動ドアの前に、人がいた。

列だった。


ただの列じゃない。

体の重さが列になっている。


立っていられない人が壁に寄りかかり、しゃがみ込み、抱えられている。


番号札の機械音が鳴っている。


ピッ、ピッ。


乾いた音。

音が速い。速いほど、処理が追いついていない。


自動ドアが開いた瞬間、熱気がぶつかった。

暖房の熱じゃない。人の熱だ。焦りの熱だ。


汗。消毒液。湿ったコート。

咳――咳というより、息の荒さ。


受付の前に、行列が伸びている。


並んでいるのは、ほとんどが女だった。

女が男の腕を抱えている。

女が男の背中を叩いている。

女が診察券を握りしめている。


男たちは顔色が悪い。

土気色。青白い。赤いのに乾いている。

目がうつろ。


「すみません、うちも――」


「順番にお願いします!」


受付の女性の声が、同じ調子で何度も繰り返される。

声が擦れているのに、笑顔の形を崩さない。崩せない。


床に座り込んでいる女がいた。

隣に男が寝かされている。コートを丸めて枕にしている。


女は文句を言わない。

ただ、男の手を握って、離さない。


テレビがついていた。

音量が小さい。誰も見ていない。


画面の中ではバラエティが笑っている。

笑い声だけが浮いている。


和美が受付へ向かう。

優は父を支えたまま後を追った。

美幸が後ろでコートの裾を握っている。怖いときの癖だ。


列の途中で、誰かが怒鳴った。


「いつまで待たせるんだ!」


怒鳴ったのは女だった。

怒鳴りながら、隣の男の肩を支えている。


怒りは受付に向いているというより、不安に向いている。


受付の女性が頭を下げる。


「申し訳ありません。診察が立て込んでおりまして……重症の方から――」


“重症”。


その言葉が、優の背中を冷やした。


和美がようやく窓口に辿り着く。

診察券を出す手が迷わない。迷わない手が、今日いちばん頼もしい。


「玉木です。夫が高熱で……出張から帰ってから三日。食欲がなくて、今日は立てなくて」


受付の女性が父を見る。

目の下、唇、呼吸、皮膚の色。


一瞬で“測る”視線。

手際がよすぎて怖い。


「お熱は?」


和美が即答する。


「測ってない。でも触れたら熱い。息が浅い」


受付の女性が頷く。

頷き方が、経験のそれだった。

――こういう人が、ここに毎晩来ている。


「少しお待ちください。状態確認します」


“少し”。


その言葉が、もう曖昧に聞こえる。


優は父の腕を握り直した。

軽い。軽いまま、熱い。


ふと、列の先にいる男の顔が目に入った。

同じくらいの年齢。顔色。目の焦点。


“欠け方”が、似ている。


欠ける順番が、静かすぎる。

静かだから、並べてしまう。

静かだから、慣れてしまいそうになる。


それが、一番怖かった。

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