角度
一九八一年(昭和五十六年)十一月二日(月)
東京債券市場。午前九時三十分。
寄り付き直後から、売り注文が重なる。
板が薄い。
買いが追いつかない。
十年物国債。
利回り、急上昇。
昨日までの上昇とは違う。
連続的だ。
ディーラーが呟いた。
「角度が変わった」
横の同僚が言う。
「誰が売ってる」
「外もある。だが国内も本気だ」
安全資産が売られる。
それは不安ではない。
信用の再計算だ。
■ 大蔵省
為替担当が駆け込む。
「三十ベーシス、突破」
佐々木早紀は即座に立ち上がった。
グラフを見つめる。
右肩上がり。
だが今日は、傾きが急だ。
「出来高は」
「通常の倍です」
逃げではない。
戦略的な売り。
「理由は」
「財政悪化懸念、とのレポートが海外で出ています」
佐々木は短く息を吐いた。
ついに書かれた。
“財政悪化”。
医療費増。
労働力減少。
国会機能不安。
断片が、文章になった。
■ 日銀
会議室。
「市場安定措置を検討しますか」
「まだ早い」
「だが角度が急です」
議事録には残らない議論。
“信認”という言葉が出る。
国債は国家の信用だ。
その信用が売られている。
■ 証券会社
アナリストが顧客に電話する。
「長期は一旦外したほうがいい」
「どこまで上がる」
「分からない。だが方向は上です」
恐怖ではない。
計算だ。
利回りが上がれば、借入コストが上がる。
企業が鈍る。
税収が落ちる。
その循環を、市場は先に読む。
■ 午後(石本)
石本のもとへ速報が届く。
「利回り、さらに上昇」
石本は窓の外を見る。
国会議事堂。灯りはまだ変わらない。
だが市場は、もう待たない。
「……これは、説明が要るわ」
秘書が言う。
「財政健全性の声明を出しますか」
石本は即答しない。
声明は、認めることになる。
だが沈黙は、さらに売られる。
■ 夕刻
テレビニュース。
「国債利回り、急上昇」
初めて“急”という文字が出る。
一般視聴者は意味を知らない。
だが金融関係者は理解する。
これは一過性ではない。
■ 夜(総理府・小会議室)
机を寄せる顔ぶれ。
佐々木が言う。
「市場は、国家の持久力を疑い始めました」
小坂。
「電力停止の噂も、材料にされています」
涼子。
「原因が特定されない限り、収まりません」
石本は静かに言った。
「信頼は、言葉で戻らない」
沈黙。
国債が売られる。
それは、国家の未来が割り引かれることだ。
まだ破綻ではない。
だが今日――
角度が変わった。
傾きが急になった。
国家はまだ立っている。
だが足元の地面が、ゆっくりと傾き始めている。




