龍の息吹 3
昨日の自分がどこを歩いていたのか、分からなくなる瞬間がある。ぽつねんと取り残されて、足元が抜けるような、そんな感覚。もう小さな子供じゃないのに、迷子になると途端に心細さに身を裂かれる。
「ここ、どこ?」
ギンダたちは、迷子になっていた。
巨大なシダの木、闊歩する昆虫や動物たち、足元に茂る濃密な緑。森は昨日と同じ顔だった。だが、全てのものが大きすぎるせいで、全てが同じ質量を持って迫ってくる。おかげで今どこにいるのか、検討もつかなかった。情報量が多いのだ。
それでも茂みをかき分け、二人は前へ進む。進めば進むほど緑が濃くなっていた。
「……カリン、今どこにいるか分かる?」
「うーん……分かんない。太陽でもあったら方角が分かるんだけど」
太陽がない。その言葉に、足が縫い止められた。ギンダは隣を歩き続けるカリンを見つめて、つい問い返す。
「太陽、ないの? 昼と夜の区別はあるのに」
「太陽っていうか、灯りみたいな感じ? 決まった時間に、決まった通りに光ってる気がしてさ」
「灯り」
「そう、灯り」
灯りとは、奇妙な表現だった。ここは原始の楽園で、大密林で、こんなにも命で溢れている。なのに、太陽がない。代わりに灯りが刻々と、決められた時間にともっては消えていく。よくできた標本箱にも思わせる例えに、ギンダは薄寒いものを感じ、蛇のリングを握りしめた。
「わぁ——見ろよ、ギンダ」
ギンダの動揺を知ってか知らずか、カリンはそばにあった木を仰いでいた。
「これ、星みたいだぜ。綺麗だなぁ……」
木の樹皮のあちこちに張り付いた小さな光の粒。夜空の星を切って貼り付けたように、ゆらゆらと輝いていた。カリンがそっと手を近づけると、光の粒はふわりと舞い上がる。カリンの周りをぐるぐると廻ったかと思えば、ふわふわと風に揺られてどこかに飛んでいってしまった。
「なんだったんだろ、あれ」
「虫ではなさそうだったね」
「ああ。妖精とかなら嬉しいんだけど」
「確かに、この場所ならいてもおかしくないや」
くすくす笑い合うカリンの瞳に、木漏れ日の翠が揺れる。広い密林で迷子だということがどうでも良くなってしまうくらい、透き通っていて、ただただ綺麗だった。
それでも、やはり進まねばならない。
茂みや蔦、花々によって戻る道は既に塞がれた。行く道もまた、切り開かねばただの茂みでしかない。行くも戻るも、足を使って進むしかなかった。
だが、これがまた大変だった。
ぬかるみや茂みならまだいい。崖を登ったり、木の枝を伝ったりと、地面以外を歩かされた時、ギンダは死を覚悟した。カリンは目の前ですいすい進んでいくのに、自分の足はもつれるばかりで、手足に力が入らない。
「ねえっ……僕たち、どこに向かってるんだっけ⁉︎」
ギンダは息も絶え絶えに、カリンが垂らしたロープを登って木の上を目指す。手汗でロープが滑って、ぎりぎりと掌を傷つけた。背の低い木ならもう少し登りやすいのに、背の高いつるつるしたシダの木だったから、尚更体を支えるのに苦労した。上にはすでにカリンがいて、ギンダが登る様子をじっと眺めている。身軽な彼が心底羨ましいが、彼が身軽なおかげでギンダの進める道が出来ているのだ。黙ってついて行くしかない。
「今朝の雄叫びの主の場所だぞー!」
「えっ⁉︎ 」
カリンがギンダを見下ろしながら、応援するように答えた。
「なんでっ……危ないんじゃ……!」
「登ってから話せよ、きついだろそれ」
ようやく登ったギンダに水の入った袋を渡し、カリンは手早くロープを回収した。先に目星をつけていたのか、次の足場——太い枝を眺めている。ギンダは息を整えながら、疲労で暴れ回る心臓をなんとか抑え込んだ。
「あの雄叫びのところに、なんで向かってるの。危険すぎる」
「でも、他にも手がかりないだろ? それに、あの咆哮ならきっとこの密林のヌシだ。ヌシの縄張りなら食い物も飲み物も困らないはずだ」
「そうかもしれないけど……僕らに敵う相手じゃない」
「別に戦うわけじゃない。ギンダの言う通り、敵うわけないしな。それに、俺たちはこの密林で一番小さくて弱いんだ。そんな弱くて食い出のない奴を、ヌシが構うと思うか?」
カリンの言い分にギンダは言い淀む。大体筋は通っているような気がする。確かにこの密林は危険に満ちている。だが、大人しくしている分には牙を向かない。命の危機といえば最初の巨大な昆虫くらいだった。他の脅威は、よく観察さえしていれば避けられるものだった。
「な、大丈夫だろ」
にっと歯を見せて笑ったカリンは、ギンダの手を引いて枝から枝へ伝って行く。迷いのない足取りに、ギンダは自分の身がどこか軽くなるような心地がしていた。
その時、ふいに空気が澄んだ。
今まで体に纏わりついていた、籠るような熱が消え、爽やかな風が吹き抜ける。木々や葉の瑞々しい香りすらも消し飛ばし、鼻を抜けるような水の香りがした。
ギンダとカリンは目を輝かせて顔を見合わせた。
「水場だ!」
枝を渡り、木を降りて崖も下り、足早に駆け抜ける。その先にあったものは、やはり水場だった。それもただの水場ではない。この密林に相応しい、とてつもなく大きく、澄んだ湖だった。水底まで見えそうなほどに透き通った水は、波打つ水面が鱗のように乱反射していた。水の中に泳ぐ巨影すら、湖の神秘性を高めているようだった。
「……影?」
水面に細波が立ち始める。静寂が嘘のように、空気が重く、張り詰めた。地響きで木の葉が揺れ、動物たちが慌てて遠くに走り去って行く音がする。宙を舞っていたあの光の粒も、その姿を消し去った。大きな飛沫と轟音。湖が割れ、割れた水の間から現れたものは、先ほど水の中に過ぎった巨影の主だった。
真鍮のような鱗に、強靭な牙。揺蕩う長い髭と、宝石のように輝く紅い瞳。圧倒的な存在感を持つその主は、龍だった。
密林のヌシであり、神話そのものの姿をしたその怪物は、咆哮すら上げずに二人を静かに見下ろしていたのだ。その瞳には知性が宿り、底知れぬ深淵が広がっているように見えた。
「龍だ……!」
ギンダは咄嗟にカリンの服を掴んでいた。彼が飛び出すとか、そういうことを考えたわけではない。ただ、縋るものが欲しかったのだ。圧倒的な強者が目の前にいる。自分たちを値踏みしている。その事実に、本能が警鐘を鳴らす。カリンもまた、ギンダの腕を掴んで離さない。掴まれた腕越しに、彼もまた震えているのを感じていた。
龍の紅い目は二人を離さなかった。龍の体から滴る水の音すら聞こえず、ギンダとカリンは固唾を飲んで龍の目を見つめ返した。
龍が巨大な鼻先を二人の目前に近づく。熱い息を感じる。龍も呼吸するのだと、的外れなことを考えた。熱くて、湿った、生き物の匂いがする。龍が口を開ければ、ギンダもカリンも一飲みだ。カリンの手が震え、縋るように首元の鍵を握りしめた。
ふと、龍の瞳の焦点が、ギンダたちではなく、別のものにあるようにギンダは感じた。瞳孔の向きを辿ると、そこにあったものはカリンの鍵だった。
ギンダは震える足を奮い立たせた。見つめあっているだけでは埒があかなかった。龍の熱に震える手を握りしめ、龍の眼差しに竦むカリンを抱きかかえるようにして地を踏みしめた。初めて、カリンの前に立ったのだ。
「——僕たちは、知りたいだけなんだ。塔の上に待っている何かに、会いたいだけなんだ。だから、どうか」
見逃してくれとも、許してくれとも続けることができず、ギンダは言葉を萎ませた。この閉ざされた森で、誰とも言葉を交わさず、交わせず、ただ湖に静かに暮らす龍。そんな龍に届く言葉を知らなかった。届かずとも、伝えなければならない言葉でもあった。
「……どうか、見守っていてほしい」
結局、紡げたのは祈りのような言葉だけだった。
龍に届いたのかどうかは分からない。だが、その巨大な頭を少しだけ下げ、二人を見つめる龍の瞳の中には、先ほどよりも暖かい光が灯っているように見えた。
龍はゆっくりと頭をもたげると、鼻面で二人の体を押し、またゆっくりと二人から離れていった。水を割り、揺蕩うように湖の中央へと泳いでいく。後ろから見ても長く大きく、怖かった。そして龍は、目一杯に息を吸い込み——咆哮した。
空気が割れた。振動がギンダたちを強く震わせた。強い風が立ち、全てを押し流す。霧も空も、ギンダたちの怯えさえも、全てを消し去っていった。霧の晴れた密林に残ったものは、外壁を囲うように連なる白磁の螺旋階段で、湖の対岸から上へ、上へと続いていた。
龍は階段をしばらく眺めると、また二人を一瞥し、巨大な尾を翻して水底へ消えていった。
龍の尾鰭が消えた瞬間、ギンダはカリン共々崩れ落ちた。膝が笑っていた。
「……怖かった、生きてる、僕たち、生きてるよ——はは——すごいや——」
「すごかったな、ほんと——」
止まっていた分の息を吸うように、カリンは肩で息をしながら呟いた。
「ギンダがいなかったらどうなってたか……」
「……ううん。君がいたから、頑張れたんだ、きっと。僕一人じゃ、震えていただけだった。それよりさ、龍の宝石! あの龍の瞳のことだったりしない?」
「ああ、確かにすっごく綺麗だったもんな! 龍の瞳が宝石だったら流石に持って出ることはできないなあ、残念だ」
ひとしきり笑って、ようやく立ち上がる。螺旋階段は静かに佇み、誰かが昇ることを待っていた。
ふと、この階段を登れば、もう戻ることはできない気がした。ベトルグロッサのあの書庫にも、カリンと出会う前の自分にも、戻れない気がしていた。しかし不思議なことに、戻れないことを惜しく感じる自分はどこにもいなかった。
塔の上に待つ者に会いにいくために。自分たちが何のために生きているのか、頂への道の中で、自分自身の手で書くために。
消えたはずの龍の眼差しを背中に感じながら、ギンダとカリンは階段を登り始めた。
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