龍の息吹 2
塔——密林の中で迎えた初めての夜。
ギンダとカリンは、太い枝を広げた木の枝の上、葉の間に隠れるように、身を寄せ合って座っていた。
密林の夜は、ギンダが今まで触れたことのない驚きに満ちていた。
屋根のように垂れ下がった分厚い葉。夜露を吸ったせいか、ぽたり、ぽたりと音もなく水を滴っている。湿った空気に草の匂いが入り混じり、香ばしさすら感じさせたが、蒸した風の中にどこか冷えた心地もあって、濃密で、不思議な夜だった。何より、天を見上げたら、天蓋のシダの隙間から満点の星空が揺らいでいる。霧のように薄ぼんやりとしているのは、密林の湿度のせいか、それとも空もどきだからなのか。塔の中なのに空が見えるとは意味が分からないが、それでもその空は、言い表せないほど美しかった。
「……信じられないな」
ギンダの指先が手帳を撫でる。指先が震え、手帳のざらついた革の手触りをどこか遠くに感じた。
「信じられないって、何が?」
「全部」
「全部かぁ……確かになぁ……」
見知らぬ草花、巨大なシダの木、そして強大な昆虫。それだけでは無い。空飛ぶランタンのような生き物に、ゴツゴツした獣のような魚、果てにはあの鎌の昆虫まで食べる凶悪な花までいた。
逃げて、隠れて、観察して。手帳は既に、今日この密林で目撃した未知の生態の記録が、所狭しと書き尽くされている。書けないなりに、書ける分だけ書いたのだ。
「俺、あの花が一番怖かったよ。最初に会ったデカい昆虫、バリバリ食ってただろ? 絶対に近づかないようにしようって思った」
カリンが低い声で忍び笑う。笑いながらも、彼の目はは辺りを探り続けているのか、時折ギンダから外れてはあちこちを眺めていた。
「ギンダはさ、塔の中にこんな場所があるなんて、想像したことあるか?」
「ないよ。だって——神サマのおわす塔だもの」
「そうだよな、俺もそう思ってた。でもさ、こんな場所でよかったのかもしれないなとも思うんだ」
カリンは、首から下げた鍵を指先で弄ぶ。よく見ると、鍵の古さに反して首紐だけは新しかった。何度も何度も、千切れるたびに紐を変えてきたのだろう。鍵を弄ぶ彼の手つきに危なげはなく、いつものように鍵を触っては回し、回しては摩りと繰り返しているようだった。
「誰からも忘れられるのって、怖いだろ。……俺は怖い。でも、誰かに遺すのも怖いんだ。だってほら、傷痕みたいじゃんか」
「……うん」
「だからさ、こういう——確かに在ったと言えるような場所、見つけられてよかったなって——ごめんな、なんだかぐちゃぐちゃだ」
カリンが鍵を、服の胸元を握りしめる。祈りか、苦痛か。どちらともつかぬその顔は、ギンダの胸を突いては離さなかった。
「俺さ——俺は、ほんとは、何も知らないんだ。父さんと、母さんのこと。小さい時に死んだ、それだけ覚えてる。何で死んだとか、どういう顔で、声で俺のそばにいてくれたのか、もう、何も分からないんだ」
ギンダは黙って聞いていた。頷くのも、相槌を入れるのも、なぜだか違うような気がした。
「ただ、子守唄かな……毎晩唄ってくれた詩と、あの時撫でてくれた感触だけが忘れられない。忘れられないんだよ、ギンダ」
「——それが、『世界の全て』?」
「そう。だから、全てを知りにきた……なんて、カッコ悪いかな?」
カリンは鍵をそっと手放すと、皺のよった服を雑に伸ばし、大きく、大きく息を吸った。吐き出すこともせず、ただ飲み込むために吸い込んだ。小さな息が漏れ出ては、肩の力が抜けた彼の隣で、ギンダはそっと肩を寄せる。蛇のリングを撫で付けて、カリンに小さく言葉を呟いた。
「カッコいいよ、とても。物語の主人公みたいだ」
「そうかなぁ。だったら、俺とギンダの冒険の話がいいな。二人で、すごいものを見つけるんだ——大地に根差した塔に登って、龍の宝石を見つけて、億万長者になるんだ!」
目を輝かせたカリンの顔には、ついさっきまであった息の拙さはどこにもなく、ただただ冒険への憧れに染まっていた。
「それって、さっきの唄に出てきたやつ?」
「そうそう! 聞いているとすごくワクワクしてくるんだぜ」
「いいなぁ、それ。よかったら……僕にも教えてよ。君の聞いた唄、知りたい」
こそこそと、葉の掠れる音に紛れて教わる唄は、どこか寂しく、温かかった。
大地に根差す塔や、龍の宝石。命を唄う鳥に、智者の蔵。そんな幻想的な言葉が並び、異国のリズムで揺蕩うそれは、単なる子守唄を超えた何かがあった。
葉と露の音を頼りに囁く唄が、その湿度に反して、微かな渇きに満ちていたからかもしれなかった。
「ああ、腹減ったなあ……さっき見つけたでっかい木の実、採っておけばよかった。パンだけじゃ足らないな」
「でも、あれ食べられるかな。見たことない果物だったし……」
「鳥が食えるならいけるだろ。鳥、いないけどな。でも鎌の虫が食ってたし、明日試してみようぜ」
不意に、森の奥から低く、大地を震わせるような咆哮が聞こえた。怒りでも悲しみでもなく、ただ鳴きたいから鳴いているだけ。自由な叫び声が、大地と木々を伝って二人の元へ辿り着いた。
「腹の音——」
「だったら良かったんだけどね」
「……仕方ない。そろそろ休憩も終わりにしよう」
カリンは枝の上に立ち上がり、体に付いた葉や埃を払った。迷いなく密林の果てを見据える彼の眼差しには、静かな熱がこもっていた。
「行こう、ギンダ。この先に待っているのは——」
「龍の宝石、命を唄う鳥、だね?」
ギンダも合わせて立ち上がる。カリンのようにとはいかないまでも、自分の手足には力が漲り、どこまでも地に足がついた感覚があった。唄を誦じたギンダに目を瞬かせたカリンがなんだか面白い。くるくると変わる彼の姿はギンダにとって新鮮で、かけがえのないものだった。そんなカリンが辿り着きたいという『世界の全て』。会わずにはいられない、知らずにはいられない。結局、ギンダもカリンも、同じ穴の狢なのだろう。
「——ギンダは、智者の蔵に行ったら夢中になって動かなくなりそうだな」
「うーん、否定できない」
「ははっ、じゃあ引き摺ってでも連れて行かないとな」
シダの天蓋の隙間から、朝の光が零れ落ちた。露が光に溶け込み、ギンダの銀髪をしっとりと濡らす。燻みとも、煤とも無縁な白さに包まれて、二人は密林のさらに深い場所へと吸い込まれるように消えていった。
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