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龍の息吹 1

そろそろ書き進めようと思って筆を取りました。完結まで頑張ります!!

 水底に空いた穴の先。あの清浄な泉を超えた場所。

 そこは想像を絶する静寂に包まれていた。

 どこまでも続く白磁の回廊。壁、床、天井に至るまで、継ぎ目がない。歩くたびに足音が不気味なほど鮮明に反響する。ベトルグロッサの街並みとは対極にある、あまりにも潔癖で、あまりにも無機質な空間だった。

 

「ここが、塔の中……?」

 

 カリンが小声で呟いた。彼が周囲の白さを警戒するように鋭く動くのにともなって、塔の白が彼の瞳に映り込む。首から下げた古びた鍵を握りしめた拳がわずかに震えていたが、彼は気にもせずに首を傾げていた。

 

「なあ、ギンダ。……変だと思わないか?」

「何が?」

「この塔のてっぺんには、神が住んでるんだろ。それが世界の常識だ。でも、ここには気配がない。ただの通路だ」

 

 カリンの言葉は、確信というよりも、自分自身に言い聞かせるような響きを帯びていた。


 確かに、世に溢れる教典も、信仰にも、『神の住む場所は気配がない』なんて言葉はない。むしろ、もっと騒がしいはずだった。仕える者、死者、世界を彩る様々なもの。どんな道も、大体そういうものに満ち満ちている。

 だが、ここはどうだろうか。

 自分が溶け込んでいくような感覚。自分の存在が薄まっていくような、あるいは何者かによって徹底的に「観測』されているような肌寒さ。無機質な空間は、すべてを洗い流すような非情な清廉さをも秘めていた。

 ギンダとカリンだけが唯一、この異質な空間において異物のように暖かかった。


 そんな時、どく、どくと音が聞こえた。

 白い回廊が延々と続くせいで意識が狭まり、ついに自分の心臓の音まで聞こえたのかと思った。だが、これはどこか違う。

 

 ギンダは本能的に、床や壁に手を滑らせた。やはり埃一つない。その上、見た目以上にとても滑らかで、とてつもなく硬かった。ギンダの知らない材質だ。耳を当てると、まるで生きているかのように微かな振動が伝わってくる。あの音は自分の心臓ではなかった。床が、壁が、塔こそが脈動していたのだ。一定の音で、一定の大きさで。心臓というより、信号に近かった。

 

「これ、ただの通路じゃない」

「どういうことだ」

「耳、当ててみて」


 ギンダの言う通り、カリンも壁に耳を当てると、途端に顔を顰めた。


「——心臓みたいな音がする」

「うん。でも、信号みたいにずっと一定だ。心臓はちょっとずれたり、速さが変わったりするでしょう? きっとここは……巨大な観測器なんだ。もしかしたら、僕たちの体温や呼吸、なんなら全てを測っているのかもしれない」

「ええ……何のために」

「さあ」


 ギンダは肩をすくめた。考えても答えが分からないこともある。むしろそんなことばかりだった。


「まあ、神の庭への侵入者を監視しているって思えば、納得がいくな。これから会いにいくまで、多めに見てほしいけどさ」


 カリンは少しだけ口角を上げて、そう笑った。少し表情が固い。握りしめた拳を後ろ手に隠している。隠し切れていないのに。そうしてまた彼は歩きだしながら、鍵を壁にかざしていた。

 池の中でも、鍵を翳していた気がする。鍵が光って、道が開いたような気もする。まるで、鍵こそが塔を進む地図のようだった。それでも、穴あきだらけの地図なのか、彼には遠い記憶の底にある何かを無理やり引き出そうとしているかのような危うさがあった。


 その鍵は、何?

 君は一体どうして、塔のことを知っていたの?

 聞きたいことはたくさんあった。話したいこともたくさんあった。だが、それでもギンダは喉元まで出かかった問いを飲み込んだ。数日前に会ったばかりの『相棒』だったから、というのが一番それらしい理由だったかもしれない。

 

 どれほどの時間を歩いたのか。

 時計という概念が意味をなさなくなった頃、前方に巨大な扉が現れた。近づくと、まるで二人を待っていたかのように音もなく開き始め、白磁の無機質な冷たさが一気に押し流される。外から塔の池に入った時とはまた違う、情報の濁流だった。

 

 肺を突き刺すような濃密な植物の香り。湿った土の匂い。肌を撫でる、生命の熱を含んだ風。

 扉の向こう側に広がっていたのは、ベトルグロッサの凍てつく外気とも、漂白されるような白磁の回廊とも隔絶された、原始の楽園——大密林だった。

 

「……嘘だろ、なんだよ、これ」

 

 カリンが絶句するのは無理もない。

 頭上には天をも隠さんとする巨大なシダの葉、大地には宝石のように発光する苔の絨毯が広がっている。何かの生き物の鳴き声が遠くから聞こえ、あたりに咲く見知らぬ植物も、艶やかな色でギンダたちを密林へ誘っていた。どれもこれも見たことがない。唯一見たことのあるものといえば、あの巨大なシダだろうか。図鑑で見た。現代には生息していない。化石でしか残されていないものだった。

 つまり、ここは図鑑の世界と呼べる場所であり、遥か昔にあったという命の始まりの場所なのだ。人間が生まれるよりもずっと前、荒々しくも美しい生命の歴史が閉じ込められていたのだ。

 

 ギンダは、思わずその場に膝をついた。

 目の前には、人間が一度も見たことのない構造をした花が咲いている。その花弁が呼吸するたびに、淡い光が密林全体に波紋のように広がっていた。

 

「——『世界』の根源だよ、カリン。この場所こそが、きっと、全ての始まりなんだ」

 

 ギンダの灰色の瞳に熱が宿った。俯いて、書庫の隅で埃を被っていた姿など、もはやどこにもない。未知への好奇心に満ちた、探求者の眼差しだった。

 彼は手帳を取り出し、震える手でその光景を記録しようとした。しかし、あまりの情報の多さに筆が止まる。記録などというちっぽけな作業では、この世界の鼓動を捉えきれないことに気づいてしまった。それでも、書きたい。書きたいのに、表現できない、この昂りをどうしたらいい——

 

 その時、茂みの向こうで巨大な何かが動く音がした。地面が揺れて、何かを踏みつけるような、そんな音。空気を震わせる音もする。そして、木々の間を縫うようにして姿を現したのは、とてつもなく巨大な昆虫だった。ギンダやカリンの数倍の大きさはあった。粘液で光る深緑の身体、器用に折り畳まれた鎌のような脚。凶悪な見た目だ。昆虫の棘のような触覚が風に合わせて小刻みに揺れているところだけを見たら、まだ可愛かったのに。細い体躯から連なる尾鰭のような羽根がカサカサと空気を震わせ、青白い複眼がぎょろりと二人を捉えていたから、そんな気持ちなど消え失せてしまった。

 ふと、大鎌のような脚が、少し傾いた。ほんの少しだけ、まるで狙いを定めるように——

 

「ギンダ、逃げるぞ!」

 

 瞬間、カリンがギンダの腰を抱き、勢いよく茂みの影へと飛び込んだ。直後、彼らが立っていた場所を大鎌が突き抜ける。ヒュッと風を切る音がした。草花が無惨に飛び散り、草の匂いが鼻を刺す。この匂いは世界の始まりでも一緒らしい。目の端に、裂けたカリンの服の裾が過った。ヒヤリとした。危機一髪だった。昆虫の生態がギンダの脳裏を駆け巡る。退治する方法、寄せ付けない方法——できるだけ長い棒で、自分たちとは違う方向を指してみる? いや、でも大きすぎる。あんな巨体に近づくことなんてできやしない。知っていることとできることは違う。ギンダの身体は動いてくれなかった。

 

 結局動くこともできず、二人は息を潜めて様子を伺った。茂みは姿を隠すのにちょうどいい。小柄なことも相まって、影すら見えない。それでも、本能か、緊張からか、二人は身を縮めていた。冷や汗がカリンの肌を伝うのが見えた。唇が僅かに開いて震えている。目線は昆虫に釘付けだった。しかし、彼の表情に恐怖の色はなく、口角が歪み、瞳はどこか輝いていた。

 

 昆虫はしばらく同じ場所にいたが、興味を失ったのか、また羽根を震わせ、大地を踏みつけながらどこかへ去っていった。

 

「……これだよ、ギンダ」


 茂みから恐る恐る這い出して、カリンは呟く。震える両の手のひらを見つめている。汗が滲み、血の気が戻って赤く染まった彼の手は、いつか見た霜焼けの手よりも余程生きていた。

 

「父さんと母さんが言ってた——『塔には世界の全てがある』……本当だったんだ」

 

 カリンの瞳が、かつてないほど鮮やかに輝いた。焼けつきそうなほどの熱だった。この生命溢れる密林に至っても、変わらずギンダには眩しく映っていた。

 彼に返せるものは何だろう。

 ギンダに一歩踏み出す勇気を与え、今もギンダの羅針である彼に、ギンダができることは何だろう。

 目の前の圧倒的な生命に、自分の知識は及ばない。

 それでも。

 

 ギンダは意を決して立ち上がった。華奢な背筋はもう二度と丸まることはない。丸めない。

 彼らは、巨大な影が潜む大密林の奥へと歩みを進めた。生命の鼓動が絶え間なく響く。自分たちがこれまで築いてきた小さな常識が、ここでは何の役にも立たないことを、二人は肌で感じ取っていた。

閲覧ありがとうございました。

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