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最強美食家令嬢は世界を味わい尽くす  作者: 涙目
第一章 マレシアの料理

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第八話 お別れの締めは香草スープ

この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。

 朝。


 目を覚ましたレスティナは、小屋の中にマレシアの姿がないことに気づいた。


 寝台から下り、外へ出る。


 マレシアは小屋の前にいた。


 三年前に出会ったあの日と同じ、旅人用の外套を身につけている。


 腰には剣と、いくつもの小さな鞄。


 背中には弓。


 鍋、包丁、金網、鉄串などの調理器具まで、丈夫な背負い袋へ括りつけられていた。


 足元には、昨日まで小屋の中に置かれていた荷物がまとめられている。


 見間違えようがなかった。


「師匠」


 マレシアが振り返る。


「起きたかい」


「本当に、行ってしまうんですか?」


 マレシアは、すぐには答えなかった。


 代わりにレスティナへ近づき、その頭へ手を置く。


「ああ。私は美食家だからね」


 朗らかに笑った。


「まだ見ぬ世界の食材と、料理を見たいんだ」


「……はい」


「そんな顔をするんじゃないよ」


 マレシアはレスティナの髪を優しく撫でる。


「大丈夫だよ、レスティナ。あんたに教えられることは、すべて教えた」


 狩り。


 解体。


 料理。


 魔法。


 身体強化。


 森で生きる知識。


 冒険者として仕事を受け、自分で金を稼ぐ方法。


 マレシアが持つものを、惜しむことなくレスティナへ与えた。


「昨日の甲殻猪も、私がいなくても倒せただろう」


「でも、師匠がいました」


「私は何もしなかったよ」


「そこにいてくれました」


 レスティナの声が、僅かに震えた。


「師匠がいると分かっていたから、失敗しても助けていただけると思えました」


「それでも、戦ったのはあんただ」


 マレシアは、もう一度レスティナの頭を撫でる。


「狩りも、調理も、魔法も。私にできることはすべて教えた。今じゃ、戦えば私より強い」


「そんなことは……」


「昨日、私を助けたのは誰だった?」


「……私です」


「なら、認めな」


 マレシアは少しだけ寂しそうに、それでも誇らしそうに笑った。


「師匠がいつまでも弟子の前へ立っていたら、弟子は一人で歩けないだろう?」


 レスティナは何も答えられなかった。


 マレシアが言っていることは分かる。


 一人で狩りができる。


 一人で料理ができる。


 魔法で水を出し、火を起こし、食材を保存するための氷を作れる。


 冒険者として依頼を受け、生活に必要な金も稼げる。


 小屋の裏には、自分で作った地下食料庫がある。


 その中には、肉、魚、山菜、茸、根菜、米、塩、油、調味料が保存されていた。


 生きていくために必要なものは、すでに持っている。


 それでも、マレシアに行ってほしくなかった。


「私も、一緒に行くことはできますか?」


「できるよ」


 思っていなかった答えに、レスティナが顔を上げる。


「来るかい?」


「……」


 レスティナは小屋を振り返った。


 三年前。


 ここは、死ぬのを待つだけの場所だった。


 食料はなく、火もなく、夜になれば魔獣の鳴き声に怯えた。


 今は違う。


 小屋の前には、二人で作ったかまどがある。


 肉を燻すための炉。


 魚や山菜を干す台。


 何度も包丁を振るった調理台。


 小屋の裏には氷室と地下食料庫。


 周囲の森には、まだ食べたことのない食材もある。


 ここで作った料理には、失敗も含めて、すべてマレシアとの記憶が残っていた。


「行きたいです」


「なら――」


「でも、今は行きません」


 レスティナは自分の手を見る。


「私はまだ、師匠に教えていただいた料理を、すべて師匠と同じようには作れません」


「もう十分うまいよ」


「十分ではありません」


「厳しいねえ」


「森にも、まだ知らない食材があります。町で見つけたのに、買えなかった調味料もあります」


 レスティナは、マレシアを真っ直ぐ見つめた。


「次に師匠とお会いしたとき、驚いていただける料理を作りたいです」


「……そうか」


「ですから、ここに残ります」


「一人で大丈夫かい?」


「はい」


 寂しくないわけではない。


 行ってほしくない気持ちも消えていない。


 それでも、レスティナは自分で選んだ。


 ファレル侯爵に命じられたから、森に残るのではない。


 捨てられたから、この小屋で生きるのでもない。


 自分がもっと料理を学びたいから。


 自分の料理を作りたいから。


 初めて、この場所へ残ることを自分で決めた。


「分かった」


 マレシアは頷いた。


「なら、私はあんたが作る最高の料理を楽しみにしているよ」


「はい」


「それじゃあ――」


「待ってください」


 荷物へ手を伸ばしたマレシアを、レスティナが止めた。


「まだ朝食を食べていません」


「道中で干し肉を食べるよ」


「駄目です」


 レスティナは、きっぱりと言った。


「朝食を抜いてはいけないと、師匠が教えてくださいました」


「そうだったね」


「それに、旅立つ前の師匠へ食べていただきたい料理があります」


「何だい?」


「少しだけ、待っていてください」


 レスティナは地下食料庫へ向かった。


 持ち出したのは、牙狼の腰肉。


 森玉葱。


 白い根菜。


 細い茎を持つ山菜。


 数種類の香草。


 野蒜。


 果実酒。


 角猪の脂。


 マレシアと出会った日に使ったものと、ほとんど同じ食材。


「これは……」


「師匠が最初に作ってくださった料理です」


 牙狼肉と森山菜の香草スープ。


 レスティナが人生で初めて食べた肉。


 誰かが自分のために作ってくれた、最初の料理。


「同じものを作るのかい?」


「同じ料理です。でも、三年前とまったく同じ味にはなりません」


「どうしてだい?」


「作る人が違います」


 レスティナは調理台の前に立った。


 まず、牙狼の腰肉を確認する。


 表面は乾いていない。


 色も匂いも問題ない。


 氷室で凍らせず、低い温度を保ちながら保存していた肉だ。


 肉の表面に残る薄い膜へ包丁の先を入れる。


 膜を指で摘み、包丁を寝かせる。


 肉を削らないよう、刃を膜へ押し当てながら取り除いた。


 次に、肉の繊維を確認する。


「三年前、師匠は繊維を断つように切っていました」


「ああ」


「ですから、こちらです」


 繊維に対して直角へ包丁を入れる。


 厚さは、すべて同じ。


 薄すぎれば煮込んだときに肉の存在感が消える。


 厚すぎれば、八歳だった自分には噛みにくかった。


 三年前の一切れを思い出し、同じくらいの厚さへ揃えた。


 木の器へ肉を入れる。


 塩。


 乾燥香草。


 潰した野蒜。


 僅かな果実酒。


 指先で肉を一枚ずつほぐしながら、下味を馴染ませる。


 強く揉まない。


 薄く切った肉は形が崩れやすく、塩も短時間で入る。


「果実酒は、三年前より少ないね」


「はい。今日の牙狼は若い個体で、血抜きもうまくできています。臭みが少ないので、肉の香りを消しすぎないようにしました」


「よく見ている」


「師匠に教わりました」


 肉を休ませている間に、野菜を準備する。


 白い根菜は、皮を薄く剥く。


 先端と葉に近い部分で硬さが違うため、火の通りを揃えるよう大きさを変えて切る。


 山菜の茎は、表面の硬い筋を引いて取り除き、斜め切り。


 葉は水へ短時間だけ晒し、苦味を少し抜く。


 森玉葱は薄切り。


 火を通すと形が崩れ、スープへ甘味を加える。


「山菜の葉を、三年前より長く水へ晒したね」


「この時期の葉は、三年前に食べたものより成長していて、苦味が強いです。でも、抜きすぎると香りまでなくなるので、これ以上は晒しません」


 マレシアは何も言わず、レスティナの手元を見守った。


 かまどへ鍋を置く。


 火をつけるための薪は使わない。


 レスティナは鍋底を包むように、火魔法の炎を生み出した。


 最初は弱火。


 角猪の脂を入れ、ゆっくり溶かす。


 脂が透明になったところで、潰した野蒜を加えた。


 小さな泡。


 香りが油へ移る。


 野蒜の縁が色づく前に取り出す。


「焦がさなくなったね」


「何度も焦がしましたから」


 レスティナは火を少し強める。


 下味をつけた牙狼肉を、一枚ずつ鍋底へ並べた。


 肉同士を重ねない。


 鍋の温度を下げないよう、一度に入れすぎない。


 じゅううううっ。


 赤い肉の縁が白く変わる。


 すぐには触らない。


 鍋底へ触れた面に焼き色がつき、自然に剥がれやすくなるまで待つ。


 裏返す。


 もう片面は短時間。


 中まで火を通す必要はない。


 表面へ焼き色と香ばしさをつけたら、木の皿へ取り出す。


 二度目の肉も同じように焼いた。


 鍋底へは、茶色い焼き跡が残っている。


 レスティナは果実酒を加えた。


 しゅうっ、と蒸気が上がる。


 木べらで鍋底を擦り、肉の旨味を果実酒へ溶かす。


「水ではないのですね」


「三年前に師匠が作ったときは、果実酒を使いました。その香りを覚えています」


「よく覚えていたね」


「初めて食べたお肉ですから」


 果実酒の強い香りが飛んだところで、水を加える。


 先に白い根菜。


 次に森玉葱。


 火を強め、温度を上げる。


 ただし、沸騰したあとはすぐに弱火。


 表面が静かに揺れる程度へ落とした。


 浮かんできた灰汁を、匙を寝かせながら丁寧にすくう。


 汁まで大量に捨てない。


 灰汁がほとんど出なくなったところで、焼いた牙狼肉と山菜の茎を入れた。


 野蒜も戻す。


 数種類の香草は、糸で束ねて鍋へ沈める。


「香草の組み合わせも、三年前と違う」


「一つだけ増やしました」


「なぜだい?」


「牙狼肉へ合うと思ったからです」


「三年前と同じ料理を作るんじゃなかったのかい?」


「同じ料理です」


 レスティナは鍋の中を見つめる。


「でも、三年間で、もっと合う香草を見つけました。おいしくなると分かっているのに使わないのは、食材に失礼です」


 マレシアは目を細めた。


「そうかい」


 根菜へ火が通るまで、弱い火を保つ。


 強く沸騰させない。


 肉が鍋の中で激しく動けば、焼いた表面が剥がれ、汁も濁る。


 レスティナは火魔法を細く広げ、鍋全体へ均等に熱を送った。


 根菜へ細い串を刺す。


 まだ中心へ抵抗がある。


 もう少し。


 再び串を刺す。


 今度は力を入れなくても、すっと入った。


 水へ晒していた山菜の葉を入れる。


 色と食感を残すため、最後に短時間だけ。


 束ねた香草を取り出す。


 汁を匙へ取り、味を見る。


 最初は、塩を加えずに。


 肉へ下味として使った塩。


 野菜の甘味。


 煮詰まった汁。


 それらを確かめてから、不足している分だけ塩を加える。


 一つまみ。


 混ぜる。


 味を見る。


 もう一度、指先へ半分ほど。


「完成です」


 レスティナは火を止めた。


 木の器を二つ並べる。


 白い根菜。


 牙狼肉。


 森玉葱。


 山菜の茎と葉。


 どちらかの器へ、具材が偏らないよう順番に盛りつける。


 最後に、澄んだ褐色のスープをたっぷりと注いだ。


「どうぞ」


 湯気の向こうで、レスティナが微笑む。


「牙狼肉と森山菜の香草スープです」


 三年前。


 マレシアがレスティナへ差し出した料理。


 今度はレスティナが、マレシアの前へ置いた。


「いただこう」


「いただきます」


 マレシアは、まずスープを一口飲んだ。


 牙狼肉の力強い旨味。


 根菜と森玉葱の甘味。


 山菜の僅かな苦味。


 野蒜の香ばしさ。


 香草の爽やかな香り。


 三年前と同じ料理。


 けれど、まったく同じ味ではなかった。


 肉の味が、以前よりはっきり残っている。


 新しく加えられた香草が、牙狼肉の野性味を消すのではなく、後味へ変えていた。


 山菜の苦味も、ただ抜いただけではない。


 肉の脂を軽くする程度に残されている。


「どうでしょう?」


「うまいよ」


「師匠が作ったものと、同じ味ですか?」


「いいや」


 レスティナの表情が僅かに曇る。


「もっと、練習が必要ですね」


「違う」


 マレシアは、もう一口スープを飲んだ。


「これは、あんたの味だ」


「私の……」


「私が教えた切り方と、火加減と、香草の使い方。そのまま真似しただけじゃない。自分で食材を見て、考えて、もっとおいしくなる方法を選んでいる」


 マレシアは牙狼肉を食べる。


 柔らかい。


 繊維を正しく断ち、火を入れすぎていない。


 噛むたびに肉汁と、染み込んだスープが溢れる。


「三年前、私が作ったものよりうまいよ」


「本当ですか?」


「ああ」


 レスティナの顔に、喜びが広がった。


「よかった……」


 二人は、ゆっくりと香草スープを食べた。


 レスティナは三年前のように、慌てて喉へ詰まらせたりしない。


 一つ一つの食材を味わいながら、時折マレシアの器を確認している。


 料理が減っていくたび、嬉しそうに目を細めた。


 最後の一滴まで飲み終え、マレシアは器を置く。


「ごちそうさま」


「お粗末さまでした」


「粗末なものなんて、何もなかったよ」


 レスティナは空になった器を見つめた。


 これで、本当に別れの時間になる。


「レスティナ」


「はい」


「いつか、あんたの一番だと思う料理を食べさせておくれ」


「今日の料理では、駄目ですか?」


「うまかったよ。でも、あんたはこれから、もっと多くの食材と料理に出会う」


 マレシアは立ち上がる。


「その中で、これが一番だと思えるものを見つけたら、私に食べさせてほしい」


「分かりました」


「約束だよ」


「はい」


 レスティナは立ち上がり、マレシアを見つめた。


「師匠にいただいたご恩は、必ず返します」


 マレシアは、優しく笑った。


「もう返してもらったよ」


「ですが、私は何も……」


「三年間、一緒に食事をした」


 マレシアは、レスティナの頬へ手を添える。


「狩りをして、料理をして、うまいと言い合った。それで十分だ」


 レスティナは、たまらずマレシアへ抱きついた。


 十一歳になり、三年前より大きくなった身体。


 それでも、マレシアの腕の中では、まだ幼い少女だった。


「師匠……」


「ああ」


「必ず、また会えますか?」


「私も、あんたの料理を食べなきゃならないからね」


 マレシアも、レスティナを強く抱きしめ返した。


 二人は、互いの体温を刻むように、しばらく抱きしめ合った。


 やがて身体を離す。


 マレシアは荷物を背負った。


「元気でね、レスティナ」


「師匠も」


「分からないものを、すぐ口へ入れるんじゃないよ」


「少しずつ確かめます」


「それも駄目だと言っているんだ」


「では、食べられるか調べてからにします」


「狩りで無茶をしない」


「食材を傷つけないようにします」


「自分の心配もしな」


「はい」


 本当に分かっているのか、少し不安になる返事だった。


 マレシアは苦笑し、レスティナの頭を最後にもう一度撫でた。


 それから、森の道へ足を踏み出す。


 レスティナは小屋の前から、その背中を見送った。


 マレシアは一度も振り返らなかった。


 振り返れば、足を止めてしまうと分かっていたから。


 レスティナも追いかけなかった。


 自分で、ここへ残ると決めたから。


 木々の間へ、マレシアの姿が消える。


 完全に見えなくなってからも、レスティナは長い間、同じ場所へ立っていた。


 寂しい。


 胸の中に、大きな穴が開いたようだった。


 それでも小屋へ戻れば、二人で使った鍋がある。


 包丁がある。


 燻製炉がある。


 地下食料庫には、これから料理する食材がある。


 教わったものは、すべて残っていた。


「師匠」


 誰もいなくなった森へ、レスティナは呟く。


「次にお会いするときは、もっとおいしい料理を作ります」


 世界のどこにいても、きっとマレシアを驚かせるほどの料理を。


 そのために、もっと狩る。


 もっと学ぶ。


 もっと多くの味を知る。


 レスティナは空になった二人分の器を手に取り、洗い場へ向かった。


 一人になって初めて作る料理は、何にしよう。


 寂しさの中でも、彼女の足は止まらなかった。

お読み頂き、ありがとうございます。

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