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最強美食家令嬢は世界を味わい尽くす  作者: 涙目
第一章 マレシアの料理

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第七話 三年間の成果は厚切りカツ

この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。

 初めて町へ行ってから、レスティナの生活はさらに忙しくなった。


 朝は日の出とともに起きる。


 まず小屋の裏に作った氷室を確認し、保存している肉や野菜が傷んでいないか調べる。


 朝食を作り、食べ終えたら身体を鍛える。


 走り込み。


 木登り。


 槍の素振り。


 マレシアとの模擬戦。


 魔力を全身へ巡らせる身体強化。


 それらが終わると森へ入り、狩りや採取を行う。


 食材を持ち帰れば、血抜き、解体、下処理。


 町へ持っていける素材があれば、冒険者ギルドで売却する。


 得た金で、塩、油、香辛料、米、新しい調理器具を買った。


 夕方からは魔法の修行。


 夜には、集めた食材を使って料理を作る。


 同じ日は一日としてなかった。


 季節が変われば、森で採れるものも変わる。


 春には、柔らかな新芽と山菜。


 夏には、酸味の強い果実と、川で捕れる魚。


 秋には、茸、木の実、脂を蓄えた魔獣。


 冬には、保存しておいた燻製肉や塩漬け肉を使い、身体を温める煮込み料理。


 レスティナは、季節が一巡するたびに新しい味を覚えた。


 一年目。


 水魔法を覚えた。


 最初は掌を濡らす程度だった水を、やがて桶一杯分まで出せるようになった。


 食材を洗う。


 鍋を洗う。


 火傷した場所を冷やす。


 水の勢いを細く絞り、包丁では取りにくい魚の鱗を剥がすことも覚えた。


 氷魔法を覚えると、食材を凍らせない程度に冷やし、鮮度を保つ練習をした。


 最初は肉そのものを凍らせてしまった。


 解凍すると水分が大量に流れ、焼いた肉がぱさついた。


 なぜ失敗したのかをマレシアへ尋ね、次は肉へ直接氷を触れさせず、周囲の空気だけを冷やした。


 何度も繰り返し、小屋の裏へ氷室を作った。


 二年目。


 風魔法を覚えた。


 最初に使ったのは、炎へ風を送るためだった。


 強く吹きつけすぎて灰を舞い上げ、下処理した肉を灰だらけにした。


 食べられなくなったわけではなかったが、灰を洗い落とし、もう一度下味をつけ直すことになった。


 次からは、空気の流れる方向と強さを細かく調整した。


 燻製の煙を一定方向へ流す。


 干し肉の表面へ穏やかな風を当てる。


 揚げ物の熱い蒸気を、顔から遠ざける。


 料理で使うたび、風魔法の制御は精密になった。


 狩りでは、風向きを読むだけでなく、自分の匂いが獲物へ届かないよう、周囲の空気を僅かに動かした。


 三年目。


 土魔法を覚えた。


 かまどを作る。


 小屋の地下へ食料庫を掘る。


 土壁を固め、雨水が染み込まないようにする。


 地面の中へ石板を作り、魔法の火で均等に熱して、肉やパンを焼く。


 生活と料理のために覚えた魔法は、そのまま戦う力になった。


 水は刃となった。


 氷は獲物の足を止めた。


 風は矢よりも速く木の葉を飛ばした。


 土壁は魔獣の突進を受け止めた。


 料理の火加減を調整するために磨いた火魔法は、指先ほどの炎から、大木を包む炎まで自在に変化させられるようになった。


 身体強化も同じだった。


 重い鍋を運ぶため、腕へ魔力を集める。


 高い木に実った果物を採るため、脚へ魔力を集める。


 獲物の解体で刃を滑らせないため、指先へ魔力を通す。


 必要な場所へ、必要な量だけ。


 レスティナは毎日の生活の中で、自然に魔力制御を繰り返していた。


 マレシアが一度教えたことを、レスティナは何度も試した。


 失敗すれば原因を尋ねる。


 原因が分かれば、すぐに次の方法を試す。


 成功しても、それで終わりにはしない。


 もっと速く。


 もっと正確に。


 もっと食材を傷つけず。


 もっとおいしく。


 そんな日々を過ごし、レスティナとマレシアが出会ってから、間もなく三年が経とうとしていた。


◇


「止まりな」


 森の奥深く。


 前を歩いていたマレシアが、右手を上げた。


 十一歳になったレスティナは、すぐに足を止める。


 以前より身長が伸び、痩せ細っていた身体にも、しなやかな筋肉がついていた。


 背中には短槍。


 腰には解体用の包丁と短剣。


 髪は邪魔にならないよう、後ろで一つに結んでいる。


「何かいます」


「ああ」


 姿は見えない。


 けれど、重いものが地面を踏む振動が、僅かに足の裏へ伝わってくる。


 木の幹には、硬いもので抉られたような傷。


 地面には、レスティナの顔よりも大きな足跡。


 周囲の草木が、広い範囲で踏み荒らされていた。


「甲殻猪だ」


「食べられますか?」


「まず聞くことが、それかい?」


「食べられないのでしたら、戦わずに離れます」


「食べられるよ。肉は豚に似ているが、もっと味が濃い。秋へ向けて脂を蓄えている今の時期なら、特にうまい」


 レスティナの目が輝いた。


「狩ります」


「即答だね」


「どのように料理しましょう」


「倒してから考えな」


 甲殻猪は、ただの猪ではない。


 成体は馬車ほどの大きさになる。


 背中から脇腹までを、岩のように硬い甲殻が覆っている。


 正面から剣を振り下ろしても、刃が通らない。


 巨大な牙と突進力を持ち、数人の冒険者をまとめて跳ね飛ばす危険な魔獣だった。


「私が正面から注意を引く。レスティナは横から足を狙いな」


「私が正面へ行きます」


「駄目だ」


「マレシアさんより、私の身体強化のほうが強いです」


「だからといって、弟子を囮にする師匠はいないよ」


「でも、私は師匠を囮にしてしまいます」


「……言うようになったね」


「正面から受け止める必要はありません。進む方向を変えます」


 レスティナは周囲を見回した。


 大きな木。


 岩。


 僅かに傾斜した地面。


 甲殻猪が突進できる道は限られている。


「止めるのではなく、右へ逸らします。そこへ氷を作るので、転倒したところをお願いします」


「本当にできるかい?」


「できると思います」


「思います、か」


「まだ試したことがありません」


 マレシアは眉間を押さえた。


「失敗したら?」


「上へ逃げます」


 レスティナが頭上の枝を指差す。


 甲殻猪が木へ激突している間に、マレシアが仕留めることもできる。


 無謀に見えて、逃げ道まで考えていた。


「分かった。だが、少しでも難しいと思ったら、すぐに避けな」


「はい」


 二人は甲殻猪の痕跡を追った。


 やがて木々の先に、大きな黒い影が見える。


 地面を掘り返し、植物の根を食べている。


 背中を覆う甲殻は灰色。


 何層もの岩を重ねたように盛り上がっている。


 レスティナは風向きを確認した。


 甲殻猪へ自分たちの匂いが流れていない。


 足音を消し、正面へ回り込む。


 マレシアは左側の茂みへ。


 レスティナは、甲殻猪から十分に距離を取って立った。


「すう……」


 一度、深く息を吸う。


 魔力を全身へ巡らせる。


 足。


 腰。


 腕。


 目。


 耳。


 身体強化。


 地面に落ちていた小石を拾い、甲殻猪の頭へ投げた。


 小石が甲殻へ当たり、乾いた音を立てる。


「ブゴォッ!」


 甲殻猪が顔を上げた。


 小さなレスティナを見つけ、前脚で地面を掻く。


「こっちです」


 レスティナは逃げなかった。


 甲殻猪が突進する。


 巨体からは想像できない速度。


 地面が揺れ、土と落ち葉が巻き上がる。


 レスティナは右手を地面へ向けた。


「土よ」


 甲殻猪の左前方。


 地面が斜めに盛り上がる。


 真正面へ壁を作るのではない。


 突進する甲殻猪の左肩だけへ、斜めから土壁を当てる。


 巨体の進行方向が、僅かに右へ逸れた。


 レスティナは左へ跳ぶ。


 甲殻猪が彼女の横を通り過ぎる。


「氷よ」


 逸らされた先の地面が、一瞬で凍結した。


 甲殻猪の前脚が滑る。


 踏ん張ろうとした後ろ脚も、氷の上を滑った。


 巨体が横倒しになる。


 地面を削りながら、何度も転がった。


「今です!」


 マレシアが茂みから飛び出す。


 剣を抜き、甲殻に覆われていない腹へ向かう。


 しかし、転倒した甲殻猪は、予想よりも早く身体を起こした。


「速い!」


 牙がマレシアへ向く。


 剣を振るより、甲殻猪の突進のほうが早い。


 レスティナは地面を蹴った。


 身体強化を脚へ集中。


 マレシアと甲殻猪の間へ、一瞬で割り込む。


 正面から巨体を受け止めない。


 甲殻猪の牙へ左手を添え、その勢いと同じ方向へ身体を回転させる。


 力の向きを、僅かに横へ変える。


 牙がレスティナの身体を掠めて通過した。


 その勢いのまま跳躍。


 甲殻猪の頭上へ回り込む。


「氷よ」


 右手の中へ、細く鋭い氷の槍を作る。


 狙うのは甲殻ではない。


 右目。


 身体強化した腕で、氷の槍を深く突き込んだ。


「ブゴオオオオッ!」


 甲殻猪が暴れる。


 レスティナはすぐに手を離し、背中の甲殻を蹴って飛び退いた。


 甲殻猪は数歩進む。


 大きく身体を揺らし、地面へ倒れた。


 しばらく脚を痙攣させたあと、動かなくなる。


 森に静けさが戻った。


 レスティナは近づかず、甲殻猪の様子を確認する。


 呼吸がない。


 それでも油断せず、土の塊を作って横腹へぶつける。


 反応はない。


「仕留めました」


「……ああ」


 マレシアは剣を構えたまま、レスティナを見ていた。


 甲殻猪を倒したことだけではない。


 突進を真正面から止めようとせず、土壁で方向を変えた。


 氷で足を滑らせた。


 転倒から立ち直る速度を見誤ったあとも、マレシアを庇いながら攻撃を受け流した。


 最後は甲殻を傷つけず、最小限の攻撃で急所を貫いた。


 自分が手を貸す必要は、ほとんどなかった。


「師匠、お怪我は?」


「ないよ」


「よかったです」


「レスティナ」


「はい?」


「あんた、いつからあんな動きができるようになった?」


「今、初めてしました」


「……そうかい」


 マレシアは、自分が止めなければならない場面を考えた。


 土壁を作ったとき。


 氷で転倒させたとき。


 甲殻猪が予想より早く立ったとき。


 レスティナが牙の前へ飛び込んだとき。


 どの場面でも、自分が助けるより先に、レスティナ自身が対処していた。


 認めなければならない。


 純粋な戦闘能力なら、レスティナはすでに自分を超えている。


「どうかしましたか?」


「いいや」


 マレシアは剣を鞘へ戻した。


「大きくなったと思っただけだよ」


「三年前よりは、大きくなりました」


「そういう意味じゃないんだけどね」


 マレシアは苦笑した。


「さて、血抜きをするよ。これだけ大きいと、手間がかかる」


「はい!」


 レスティナは甲殻猪へ駆け寄った。


 やはり本人の関心は、倒したことより食べることへ向いていた。


◇


 甲殻猪は巨体だった。


 一度に小屋まで運ぶのではなく、その場で血抜きと内臓の処理を行う。


 後ろ脚を太い木へ固定し、身体を傾ける。


 首の太い血管へ刃を入れると、大量の血が流れ出した。


「普通の猪より、血が多いです」


「身体が大きいからね。それに、血抜きが不十分だと臭みが残りやすい。時間をかけよう」


 血が落ちる間に、腹側から甲殻と皮を外す。


 背中側の甲殻は硬い。


 無理に包丁を入れれば刃が欠ける。


 甲殻の切れ目へ金属の楔を差し込み、槌で叩く。


 一枚ずつ甲殻を外し、下の皮と肉を傷つけないよう剥がした。


 甲殻は防具の素材として売れる。


 牙も武器や装飾品になる。


 肉以外の部分も、町へ持っていけばかなりの金額になるはずだった。


 内臓を取り出し、魔法の氷で冷やす。


 肉は部位ごとに切り分けた。


 腿。


 肩。


 腹。


 背中。


 首。


 そして、背骨の両側から、長く厚い肉を外す。


「これは?」


「背肉だ。人によってはロースと呼ぶ。柔らかさと、赤身と脂の釣り合いがいい」


 甲殻猪は、冬へ向けて脂を蓄え始めている。


 背肉の片側には、白い脂肪が厚くついていた。


「どう料理しましょう?」


 マレシアは背肉の厚さを確かめる。


「油も、小麦粉も、卵もある。町で買ったパンの残りも、乾かして保存しているね」


「あります」


「なら、揚げ物にしよう」


「唐揚げですか?」


「いや。肉へ衣を重ねて、厚切りのカツにする」


 レスティナの目が輝いた。


「料理名は?」


「甲殻猪の厚切り香草カツ・赤実ソースだ」


     ◇


 小屋へ戻ると、すぐに調理を始めた。


 まず、甲殻猪の背肉から、硬い筋と余分な脂を取り除く。


 脂をすべて取るわけではない。


 赤身の片側へ、指一本分より薄い脂を残す。


「脂は多いほうがおいしいのでは?」


「脂だけでは重くなる。だが、全部取れば甲殻猪らしい旨味が減る。肉と一緒に食べられる量を残すんだ」


 背肉を厚く切る。


 薄切りではなく、指二本分ほど。


「厚いまま揚げるのですか?」


「ああ。外側は香ばしく、内側には肉汁を残す。ただし、甲殻猪の肉は中までしっかり火を通す」


「角兎は、少し桃色が残っていました」


「獣の種類によって、肉に潜む病や寄生虫の危険が違う。猪に似た魔獣は、生焼けで食べないほうがいい」


 レスティナは真剣に頷いた。


 厚切りにした肉へ、包丁の先で浅い切れ目を入れる。


 赤身と脂身の境目。


 肉の外周。


 加熱すると縮みやすい筋を、数か所断ち切る。


「筋を切らないと、どうなりますか?」


「脂と赤身の縮み方が違う。周りの筋を残したまま揚げると、肉が反り返り、火の通りが不均一になる」


 次に、厚みを揃える。


 肉の厚い部分へ清潔な布を被せ、木槌で軽く叩く。


 強く潰すのではない。


 中心から外へ向かって、厚みのある場所だけを少しずつ伸ばす。


「薄くしすぎたら、厚切りではなくなります」


「その通りだ。柔らかくするために叩き潰すんじゃない。厚みを揃え、火の通りを均一にするためだ」


 肉の両面へ塩を振る。


 潰した黒い香辛料。


 細かく刻んだ香草。


 指先で軽く押さえ、表面へ馴染ませる。


 塩をしてから長く置きすぎると水分が出る。


 衣をつける準備が終わるまでの短い時間だけ、肉を休ませた。


「衣を作るよ」


 三つの浅い器を並べる。


 一つ目には、小麦粉。


 二つ目には、よく溶いた卵。


 三つ目には、乾燥させたパンを細かく砕いたパン粉。


 パン粉には、乾燥香草も少量混ぜた。


「三つもつけるのですか?」


「小麦粉だけでは、揚げたときに薄い衣になる。卵だけでは、肉へ均等につきにくい。小麦粉、卵、パン粉の順で重ねるんだ」


 マレシアは、下味をつけた肉の表面を確認した。


 塩によって水分が出ている部分を、布で軽く押さえる。


「水分を拭くのですか?」


「表面が濡れすぎていると、小麦粉がだまになる。衣も剥がれやすい」


 レスティナは肉を小麦粉の器へ置いた。


 上からも粉をかけ、側面と脂身の部分へもむらなくつける。


「粉は多いほうが、卵がよくつきますか?」


「厚く残った粉は、卵を吸って重い衣になる。余分な粉は落としな」


 肉を持ち上げ、軽く叩く。


 薄く白い膜が残る程度。


 次に、溶き卵へ潜らせる。


 表。


 裏。


 側面。


 卵がついていない部分がないよう、器の中で返す。


 持ち上げ、余分な卵が落ちるのを少し待つ。


 最後にパン粉。


 肉を置き、上からもたっぷりかける。


「強く押さえつけるんじゃないよ」


「剥がれませんか?」


「軽く手を添える程度でいい。強く押し固めれば、パン粉の間に油が入りにくくなり、重く硬い衣になる」


 レスティナは両手でパン粉を寄せ、肉の表面へふんわりとまとわせた。


 側面にもパン粉をつける。


 衣をつけ終えた肉は、すぐに油へ入れず、少しだけ置く。


「なぜ待つのですか?」


「小麦粉と卵とパン粉を馴染ませる。衣が肉へ落ち着けば、油の中で剥がれにくくなる」


 次は赤実ソース。


 赤実を洗い、半分へ切る。


 硬い種を取り除き、果肉を細かく刻む。


 鍋へ赤実の果肉、豆醤、木の実蜜、少量の果実酒、甲殻猪の骨から取った出汁を入れた。


 弱火へかけ、木べらで果肉を潰しながら煮る。


「お肉を揚げてから作らないのですか?」


「揚げ物は、揚げたてが一番だ。先にソースを作り、食べる直前に温め直す」


 赤実が崩れ、調味料と一つになる。


 木べらで鍋底を通ると、跡が少し残るまで煮詰めた。


 味を見る。


 酸味。


 甘味。


 豆醤の塩気と旨味。


「お肉と一緒に食べるので、少し濃く感じるくらいでよいのですか?」


「よく分かったね。ソースだけでちょうどよくすれば、肉へかけたときに味が薄く感じることもある」


 完成したソースを火から下ろす。


 いよいよ肉を揚げる。


 深い鉄鍋へ、たっぷりの油を注ぐ。


「油が多いです」


「肉が鍋底へ触れない量が必要だ。少なければ、衣が底へ張りつき、火の当たり方も偏る」


 火魔法で、鍋の底と側面を包むように温める。


 強火で一気に熱するのではない。


 油全体が同じ温度になるよう、ゆっくりと。


「温度は、どうやって確かめますか?」


「パン粉を少し落としてごらん」


 レスティナは指先で、一つまみのパン粉を油へ落とした。


 パン粉は鍋底近くまで沈み、ゆっくり浮かび上がる。


「まだ低い」


 火を少し強める。


 もう一度パン粉を落とす。


 今度は油の中ほどまで沈んだあと、細かな泡をまとって浮かんできた。


「最初はこのくらいだ」


「もっと熱い油で、一気に揚げないのですか?」


「厚い肉だ。最初から高温へ入れれば、衣だけ焦げて中心が生のままになる。やや低い温度で、中までゆっくり熱を入れる」


 レスティナは衣をつけた肉を、鍋の手前から奥へ向け、静かに油へ入れた。


 油が跳ねても、自分の手へ向かいにくいように。


 肉が沈む。


 すぐに、細かな泡が衣全体から立ち上った。


 じゅわああああっ!


「触らない」


 マレシアが言う。


「衣が固まる前に動かせば、剥がれる」


 レスティナは油の様子を見つめる。


 最初は大きく激しかった泡が、少しずつ細かくなる。


 肉から出る水分が減っている証拠。


 衣の色は、白から薄いきつね色へ変わっていく。


「裏返しますか?」


「もう少し」


 肉の縁が固まり、鍋底へついていないことを確認する。


 鉄の鋏を使い、衣を傷つけないよう、ゆっくり裏返した。


 反対側からも泡が立ち上る。


「油の温度が下がっています」


「肉を入れたからだ。火を少し強くする。ただし、入れた直後の温度へ戻ったら、また弱めな」


 レスティナは炎を細かく調整した。


 油の音。


 泡の大きさ。


 衣の色。


 鍋から立ち上る香り。


 すべてを見ながら火を動かす。


「一度、上げるよ」


「まだ色が薄いです」


「一回目は、中へ火を通すためだ」


 肉を油から引き上げる。


 すぐには皿へ寝かせない。


 金網の上へ立てるように置き、余分な油を落とす。


「寝かせると駄目なのですか?」


「下になった面へ油が溜まり、蒸気で衣が湿りやすい」


 肉を休ませている間にも、余熱で中心へ火が入る。


 マレシアは厚い部分へ金串を刺した。


 数秒後に抜き、手首へ当てる。


「中心まで温かいが、まだ足りない」


「もう一度揚げるのですね」


「ああ。今度は油の温度を上げる」


 レスティナは火魔法を強めた。


 油へパン粉を落とす。


 今度は鍋底へ沈まず、表面近くで勢いよく泡を立てる。


「この温度なら、衣を仕上げられる」


 二度目の揚げ。


 肉を油へ戻す。


 一度目より、泡は細かく激しい。


 薄いきつね色だった衣が、短い時間で濃い黄金色へ変わっていく。


「長く入れすぎるんじゃない。二度目は衣を香ばしくするためだ」


「はい」


 表。


 裏。


 色を確認し、すぐに引き上げる。


 再び金網へ立て、油を切る。


 揚げたてをすぐ切らず、僅かに休ませる。


「揚げ物も休ませるのですか?」


「厚切りだからね。余熱で中心まで火を通し、肉汁を落ち着かせる」


 待っている間に、赤実ソースを温め直す。


 焦げないよう弱火。


 煮詰まりすぎていれば、少量の出汁で伸ばす。


 付け合わせには、細く切った森菜と、酸味のある黄色い果実。


 森菜は冷たい水へ晒し、しゃきっとさせてから、しっかり水気を切った。


「衣へ水がつけば、柔らかくなります」


「ああ。付け合わせの水気も、きちんと切る」


 いよいよ、厚切りカツへ包丁を入れる。


 さくっ。


 衣の砕ける軽い音。


 中の肉は、端までしっかり火が通っている。


 それでも白く乾いてはおらず、切り口から透明な肉汁が僅かに滲んだ。


「火が通っています」


「揚げすぎてもいない。成功だ」


 食べやすい幅へ切り分け、衣が見えるよう少しずつずらして皿へ並べる。


 赤実ソースは、すべてへかけない。


 半分だけに細く垂らし、残りは香ばしい衣をそのまま味わえるようにする。


 隣へ森菜と黄色い果実。


 完成した料理は、


 甲殻猪の厚切り香草カツ・赤実ソース。


「いただきます」


「いただこう」


 レスティナは、まずソースのかかっていない一切れを手に取った。


 口へ運ぶ。


 さくっ。


 衣が軽い音を立てて砕ける。


「んっ……!」


 香ばしいパン粉。


 その内側から現れる、柔らかな甲殻猪の肉。


 厚切りなのに硬くない。


 噛むと濃い肉汁が溢れ、赤身の力強い旨味と、脂身の甘さが広がる。


 黒い香辛料と香草の香りが、あとから鼻へ抜けた。


「お肉の味が濃いです」


「よく動く魔獣だからね。家畜の豚より筋肉が発達している分、味も強い」


 次は、赤実ソースのかかった部分。


 果実の酸味が、脂の重さを消す。


 木の実蜜の甘味。


 豆醤の旨味。


 甲殻猪の骨出汁。


 濃い肉の味に負けず、しかし覆い隠さない。


「ソースをつけると、また違います」


「脂の多い肉は、酸味と合わせると食べやすくなる」


 レスティナは黄色い果実を、カツへ直接絞った。


 赤実ソースよりも鋭く、爽やかな酸味。


「こちらもおいしいです」


「一皿の途中で味を変えれば、最後まで飽きずに食べられる」


 森菜も一緒に口へ入れる。


 冷たく、しゃきしゃきとした食感。


 熱く、香ばしいカツとの対比が心地よい。


 レスティナは一切れずつ、味を変えながら食べた。


 その姿を眺めながら、マレシアもカツを口へ運ぶ。


 うまい。


 衣の状態。


 肉への火入れ。


 塩加減。


 どれも、もはや十一歳の子供が初めて扱った食材とは思えない。


 戦えば、自分より強い。


 狩れば、食材をほとんど傷つけない。


 料理も、一度教えれば自分のものにする。


 三年前。


 山菜を水で洗うことしかできなかった少女は、もうどこにもいなかった。


「師匠?」


「何だい?」


「冷めてしまいます」


「ああ、そうだね」


 マレシアはもう一切れ、カツを食べた。


 レスティナは、一人でも生きていける。


 いや。


 今の彼女を害せる者が、この王国に何人いるだろう。


 自分が教えられることは、もうほとんど残っていない。


「おいしいですね、師匠」


「ああ」


 マレシアは笑った。


「本当に、うまいよ」


 その夜。


 レスティナが眠ったあとも、マレシアは一人、焚き火の前へ座っていた。


 炎の向こうに、世界へ続く森を見る。


 美食家として、まだ見ぬ食材と料理を探したい。


 その思いは、三年前から変わっていない。


 ただ一人、残していけない少女がいた。


 だから、ここに留まった。


 その少女は今、自分よりも強くなった。


 一人で狩りができる。


 料理ができる。


 冒険者として金を稼げる。


 小屋も食料庫も、自分の魔法で維持できる。


「そろそろ、かねえ」


 マレシアは小さく呟いた。


 別れの日が近づいていた。

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