第二十八話 食べ比べと料理の考え方
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
エリオットが魔力を使い切って倒れた日の、二日後。
レスティナは学園長室へ呼ばれた。
室内にいたのは、学園長だけではない。
魔法実技を担当していた教師。
医務室の教師。
そして、白髪の老教師。
机の上には、魔力量を測定するための水晶と、一枚の記録用紙が置かれていた。
「失礼いたします」
「よく来たね、レスティナ・ファレル」
学園長が、向かい側の椅子を示した。
「座りなさい」
「はい」
レスティナは椅子へ座る。
なぜ呼ばれたのかは、すでに聞いていた。
エリオットへ飲ませた、岩牛骨の濃厚スープ。
昨日の朝に行われた魔力量の測定で、通常では考えにくい結果が出たらしい。
「エリオットさんの体調は、もうよいのでしょうか?」
「ああ。本日は通常どおり授業を受けている」
「よかったです」
「問題は、その回復の早さだ」
医務室の教師が、記録用紙をレスティナの前へ置いた。
「エリオット様が魔力を使い切った直後の測定値は、ほぼ零でした」
「はい」
「その日の夜、レスティナ様のスープを飲んでいただきました。そして、昨日の朝に再び測定したところ、最大量の八割近くまで回復していました」
「八割ですか」
「魔力を完全に使い切った場合、一晩で戻るのは多くても三割ほどです」
「エリオットさんは、回復が早い方なのではないでしょうか?」
「以前にも測定した記録があります」
エリオットは入学前、伯爵家で魔力枯渇を起こしたことがある。
そのときは、翌朝になっても四分の一ほどしか回復していなかった。
八割へ戻るまでには、三日近くかかったという。
「今回は、以前の三倍近い速さで回復しています」
「岩牛の骨が、よいものだったからではないでしょうか?」
「同じ産地の岩牛骨を使ったスープは、以前から学園でも提供されています。しかし、ここまでの効果が確認された例はありません」
「月白茸も使いました」
「それも調べました。月白茸には、身体の疲れを和らげる働きがあります。ですが、魔力を急速に回復させる薬効はありません」
「では、なぜでしょう?」
レスティナが尋ねる。
教師たちは、誰もすぐには答えなかった。
その答えを調べるために、レスティナを呼んだのだろう。
「ファレル嬢」
白髪の老教師が口を開いた。
「スープを作った際、食材へ魔力を注ぎましたか?」
「いいえ」
「魔法を使用したのは?」
「骨を焼く火を調整するときだけです」
「煮込んでいる間は?」
「火が強くなりすぎたときに、少し弱めました」
「鍋へ直接、魔力を流したことは?」
「ありません」
「何か、特別な呪文を唱えましたか?」
「唱えていません」
「では、母君の料理本に、魔力を込める方法が書かれていたのですか?」
「いいえ。普通の作り方だけです」
「普通の作り方……」
老教師が、考え込むように目を伏せる。
学園長が、机の上で両手を組んだ。
「口頭で確認するだけでは、原因を特定できそうにない。そこで、君に頼みたいことがある」
「何でしょう?」
「同じ料理を、二人の料理人に作ってもらいたい」
「二人?」
「一人は君だ。もう一人は、寮の料理長に頼む」
「バルガスさんですか?」
「同じ材料を使い、同じ手順で料理する。完成した二つの料理を比較すれば、何か分かるかもしれない」
「岩牛骨の濃厚スープを、もう一度作るのでしょうか?」
「できれば、もっと短時間で完成する料理がよい」
「岩牛骨は、長く煮込まなければなりません」
「だから、別の料理で構わない。特殊な食材も使わず、君が普段から作っている物を選んでほしい」
レスティナは考えた。
特別な食材を使わない。
調理時間が短い。
手順を揃えやすく、完成後の違いも確認しやすい料理。
「野菜のスープにします」
「それでよいのか?」
「はい。ただし、昼食の残りを確認してから決めたいです」
「なぜ残り物を?」
「使える食材を捨てるのは、もったいないです」
学園長が老教師を見る。
「問題はあるか?」
「比較に使用する食材が同一であれば、問題ありません」
「では、放課後に厨房で行おう」
「分かりました」
レスティナは席を立った。
「あの」
「何かね?」
「作ったスープは、皆さんで飲みますか?」
「検査を終えたあとなら構わない」
「分かりました。人数分作ります」
必要な量を考えながら、レスティナは学園長室を出た。
◇
放課後。
学園の厨房には、二組の調理台が用意されていた。
同じ大きさの鍋。
同じ形の包丁。
同じ木べら。
竈へ入れられた薪も、同じ種類と量に揃えられている。
食材も、二等分されていた。
鱗茎。
赤根菜。
白根菜。
葉野菜の芯。
家禽の出汁。
塩。
獣酪。
どれも、昼食の仕込みで余ったものだった。
「俺まで巻き込まれるとはな」
バルガスが腕を組み、二つの調理台を見比べる。
「お願いいたします」
「断っても、嬢ちゃんは一人で二つ作るつもりだっただろう」
「はい」
「それでは比較にならん」
厨房の端では、学園長たちが見守っている。
老教師は、二つの鍋の間に測定用の水晶を置いていた。
「手順は、ファレル嬢が口頭で説明してください。バルガス料理長は、その説明どおりに調理をお願いします」
「分かった」
「はい」
「調理中、互いの鍋や食材へ触れないでください」
二人が同時に手を洗う。
布で水気を拭き取り、包丁を手に取った。
「始めてください」
最初は、鱗茎。
「根元を残したまま、縦へ半分に切ります」
二人の包丁が、ほぼ同時に動く。
皮を剥く。
根元へ包丁を入れる。
繊維に沿って、薄く切る。
完全に同じ厚さではない。
レスティナのほうが僅かに薄く、バルガスのほうが幅は揃っている。
「そこまで同じにしなくてもよいのでしょうか?」
医務室の教師が尋ねる。
「人が違えば、まったく同じにはできません」
老教師が答える。
「重要なのは、材料と手順です。技術の差で味が変わることはあっても、魔力の有無まで変わるとは考えにくい」
鍋を弱火へかける。
獣酪を入れる。
すぐに鱗茎を加えた。
「焦がさないよう、塩を一摘み入れます」
塩を加えることで、鱗茎から水分が出やすくなる。
木べらで、ゆっくりと混ぜる。
獣酪を吸った鱗茎が、透明に変わっていく。
「色はつけないのか?」
バルガスが尋ねる。
「今日は野菜の甘味を残したいので、焦がしません」
「分かった」
火が強くなれば、鍋を少し竈から遠ざける。
弱くなれば薪を寄せる。
二人はそれぞれの方法で、同じ程度の火加減を保った。
次は、根菜。
赤根菜は皮を薄く剥き、同じ大きさへ切る。
白根菜も同様。
角の大きさを揃えるのは、見た目のためだけではない。
火の通り方を揃えるためだ。
「葉野菜の芯は、根菜より小さく切ります」
「柔らかくなるのが遅いからか?」
「いいえ。葉の部分よりは硬いですが、根菜より早く火が通ります。大きく切ると、食べたときに芯だけが口へ残ります」
切った野菜を鍋へ加える。
獣酪が全体へ回るよう、木べらで混ぜる。
表面へ薄く艶が出たところで、家禽の出汁を注いだ。
二つの鍋から、ほぼ同じ音が上がる。
最初は中火。
小さな泡が出始めたら、弱火へ。
表面へ浮いた泡を、匙で丁寧に掬い取る。
「蓋は完全に閉じません」
「理由は?」
「煮立ちすぎたときに、すぐ気づけるようにします。それに、野菜の香りが籠もりすぎません」
バルガスも同じように、蓋を僅かにずらした。
しばらく煮込む。
二つの鍋から、野菜と出汁の香りが漂い始めた。
レスティナは、自分の鍋の様子を確認する。
赤根菜へ串を刺す。
まだ中心が硬い。
火を弱めたまま、さらに待つ。
「同じ時間で止めるのですか?」
老教師が尋ねる。
「時間では決めません」
「ですが、比較するのであれば――」
「野菜の火の通り方が、少し違います」
「同じ大きさに切ったはずだ」
学園長が二つの鍋を見る。
「私の鍋は、左側の火が少し強いです。バルガスさんの鍋は、中央へ熱が集まっています」
「竈の違いか?」
「薪の形が同じではありませんから、燃え方も完全には揃いません」
「そこまで見るのか……」
レスティナは自分の鍋を僅かに回した。
火が強く当たっていた部分をずらし、鍋全体の温度を揃える。
バルガスも中身を大きく混ぜた。
しばらくして、もう一度串を刺す。
今度は、僅かな抵抗を残して中心まで通った。
「塩を加えます」
二人が同じ量の塩を入れる。
「味見をしてください」
レスティナに言われ、バルガスも匙へスープを取った。
二人が同時に口へ運ぶ。
「俺のほうは、もう少し塩が欲しいな」
「私のほうもです」
「同じだな」
塩を少量。
もう一度味を見る。
出汁の旨味。
鱗茎と根菜の甘味。
葉野菜の芯が持つ、僅かな青い香り。
「火を止めます」
二つの鍋を、同時に竈から外した。
すぐには器へ移さない。
表面が静まるまで待つ。
「最後に、獣酪を一欠片加えます」
「最初にも入れただろう」
「最初の獣酪は、野菜を炒めるためです。最後に入れるものは、香りと口当たりを整えるためです」
冷たい獣酪を鍋へ入れ、余熱で溶かす。
激しく混ぜず、木べらでゆっくりと一周。
表面へ、柔らかな艶が生まれた。
「完成です」
二つの野菜スープ。
見た目は、ほとんど同じだった。
香りにも、大きな違いはない。
「まず、味を確認しよう」
学園長が言った。
二つの器へ、それぞれのスープを注ぐ。
どちらが誰の料理か分からないよう、厨房の若い料理人が器を入れ替えた。
学園長。
医務室の教師。
魔法実技の教師。
老教師。
四人が順番に味を見る。
「こちらのほうが、僅かに甘味が強い」
「私は、もう一方のほうが香りはよいと思います」
「ですが、どちらも十分に美味しいです」
最後に、バルガスも二つを飲み比べた。
「味は違うな」
「はい」
「だが、料理人が違えば、この程度の差は出る」
「そうですね」
材料と手順が同じでも、切り方や火加減まですべて同じにはならない。
味に僅かな違いが出るのは当然だった。
「次は、魔力を確認します」
老教師が、測定用の水晶を取り出す。
最初の器へ近づける。
水晶は反応しない。
光も、熱もない。
「こちらは?」
「バルガス料理長のスープです」
次の器へ近づける。
水晶の奥に、淡い光が灯った。
「反応しました」
青とも緑ともつかない、柔らかな光。
水晶の中心から広がり、ゆっくりと明滅している。
「こちらが、ファレル嬢のスープですね」
「はい」
レスティナは、二つの器を見比べた。
「なぜでしょう?」
「もう一度、確認します」
老教師は別の水晶を用意した。
結果は変わらない。
バルガスのスープには反応しない。
レスティナのスープだけが、僅かな魔力を帯びている。
「嬢ちゃん、本当に魔力を入れていないんだな?」
「はい」
「無意識に流している可能性は?」
「それを調べるため、調理中の魔力も測定していました」
老教師が、記録用の紙を示す。
「ファレル嬢が使用した魔力は、竈の火を調整したときだけです。鍋や食材へ魔力が流れた形跡はありません」
「では、この魔力はどこから出た?」
誰も答えられない。
レスティナは、自分のスープを一口飲んだ。
いつも作っている野菜スープ。
身体が温まり、胃へ負担をかけないように考えた料理。
特別な味ではない。
だが、バルガスのものと飲み比べると、僅かな違いがあった。
「味が、一つにまとまっています」
「俺のは、まとまっていないのか?」
「いいえ。バルガスさんのスープも美味しいです」
「なら、何が違う」
「野菜の味が、それぞれ分かります」
バルガスのスープからは、赤根菜の甘味、白根菜の香り、葉野菜の僅かな苦味を、一つずつ感じ取れる。
レスティナのスープにも、同じ味がある。
しかし、それぞれが離れていない。
出汁の中で重なり、一つの味になっている。
「私のスープは、食材同士が馴染んでいます」
「煮込み時間は同じだぞ」
「はい」
「切り方の違いか?」
「分かりません」
老教師が、レスティナのスープをもう一口飲む。
目を閉じ、ゆっくりと味を確かめた。
「食材の魔力が、均等に混ざっている」
「食材にも、魔力があるのですか?」
「僅かですが、あります。土から育った野菜にも、魔獣の肉にも、命あるものには魔力が宿っています」
「では、この光は野菜の魔力でしょうか?」
「おそらくは」
老教師は、二つの器を見比べる。
「通常、食材が持つ僅かな魔力は、切られ、熱を加えられるうちに散っていきます」
「なくなるのですか?」
「完全になくなるわけではありません。しかし、まとまりを失い、測定できないほど薄くなる」
「私のスープには残っている?」
「残っているだけではありません。それぞれの食材が持つ魔力が、互いに結びついています」
「だから、一つにまとまった味がするのでしょうか?」
「魔力が味へ影響したのか、調理によって味と魔力の両方がまとまったのか。現時点では分かりません」
老教師は水晶を置き、レスティナへ向き直った。
「岩牛骨の濃厚スープでは、さらに強い反応が出た可能性があります」
「もう残っていません」
「同じ物を作れば確認できる」
「骨から出汁を取るには時間がかかります」
「時間なら――」
「それに、今は魔力を使い切っている方がいません」
「効果の確認ではなく、魔力の測定です」
「必要としている方がいないのに、作るのですか?」
老教師が言葉を止める。
レスティナにとって料理は、研究のために作るものではない。
食べる者のために作るものだ。
同じ料理であっても、誰が食べるのかによって塩の量も、脂の量も、柔らかさも変わる。
「食べる方が決まっていなければ、同じ料理にはなりません」
「料理本の手順どおりに作るだけでは?」
「エリオットさんは、魔力を使い切って食欲もありませんでした。だから具を入れず、脂を減らし、塩も薄くしました」
「料理本には、そこまで書かれていなかったのですか?」
「食べる方の状態を見て調整するように書かれていました」
老教師の表情が変わった。
「その料理本を、見せていただくことはできますか?」
レスティナは、鞄から母の料理本を取り出した。
「私が持ったままでもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
表紙に刻まれた、包丁とフライパンの紋章。
老教師は、それを見た瞬間に動きを止めた。
「この紋章を、どこで?」
「母の料理本です」
「母君のお名前は?」
「ティファーナ・ファレルです」
「旧家名は?」
「分かりません」
老教師は紋章へ手を伸ばしかけた。
だが、触れる直前で止める。
「中を、少しだけ拝見しても?」
「はい」
レスティナは自分で表紙を開いた。
最初の頁。
『料理とは、いただいた命を、明日を生きる命へ変えること』
その下に描かれた、小さな紋章。
老教師が、息を呑む。
「まさか、本当に残っていたとは……」
「この紋章を知っているのですか?」
レスティナが尋ねる。
学園長たちも、老教師を見る。
長い沈黙のあと。
老教師は、料理本から目を離さないまま答えた。
「これは、古い料理人の一族が使用していた紋章です」
「料理人の一族?」
「ただの料理人ではありません」
老教師は、水晶の中で揺れる淡い光を見る。
「食材に宿る命の力を、一皿の料理へ変える者たち」
「それは、何という方々ですか?」
「聖膳師」
初めて聞く言葉だった。
「聖なる食膳と書いて、聖膳師と読みます」
レスティナは、母の料理本を見下ろした。
「お母様が、聖膳師……」
「まだ断定はできません。ですが、この紋章が本物であれば、その可能性は高いでしょう」
「私も、そうなのでしょうか?」
老教師は、魔力を帯びた野菜スープへ視線を移す。
「少なくとも、普通の料理人が作った料理ではありません」
同じ材料。
同じ手順。
同じ厨房。
それでも、レスティナが作った料理にだけ、食材の命が残った。
母から遺された料理本。
食べた者の身体を癒やす料理。
森で採った食材を食べ続けた自分が、異常な速さで強くなった理由。
それまで別々だったものが、少しずつ繋がり始める。
だが、レスティナには、まだ一つ分からないことがあった。
「聖膳師であれば、料理が美味しくなるのでしょうか?」
「最初に気にするのが、そこなのですか?」
「大切なことです」
老教師が返答に困る。
代わりに、バルガスが笑った。
「その答えなら簡単だ。力があろうとなかろうと、不味い料理は不味い」
「では、技術も必要なのですね」
「当然だ」
「分かりました。もっと練習します」
「今の話を聞いて、そうなるのか……」
学園長が額へ手を当てた。
レスティナは、二つの野菜スープを人数分の器へ注ぎ始める。
「冷める前に食べてください」
「調査は?」
「食べ終わってからでもできます」
「……そうだな」
聖膳師が何者なのか。
母がどこから来たのか。
その答えは、まだ分からない。
だが、せっかく作った料理を冷ます理由にはならない。
レスティナは全員へスープを配り、自分も席についた。
◇
二つの野菜スープを食べ終えたあと。
レスティナは使った器を重ね、厨房の流し場へ運ぼうとした。
「待ちなさい、ファレル嬢」
白髪の老教師に呼び止められる。
「まだ話は終わっていません」
「ですが、スープが乾く前に洗ったほうがよいです」
「それは料理人たちへ任せればよい」
「私が使った器です」
「嬢ちゃん、こっちは俺がやる」
バルガスが、重ねた器をレスティナから受け取った。
「大人しく話を聞いていろ」
「ありがとうございます」
レスティナは、母の料理本を胸へ抱えたまま席へ戻った。
机の上には、測定用の水晶が置かれている。
レスティナの野菜スープを測ったときに灯った光は、すでに消えていた。
「改めて、自己紹介をしておきましょう」
老教師が椅子へ座る。
「私はオルフェン・ラッセル。王立学園で古代史と魔法史を教えています」
「レスティナ・ファレルです」
「それは知っています」
「そうでした」
オルフェンは、母の料理本の表紙を見る。
一振りの包丁。
その刃を受け止めるように置かれた、丸いフライパン。
「ファレル嬢。先ほど申し上げた聖膳師について、私が知っている範囲で説明します」
「お願いいたします」
「聖膳師とは、食材が持つ生命力と魔力を、料理によって食べる者へ届けた料理人たちです」
「生命力?」
「人も、動物も、植物も、生きている間は身体に魔力を宿しています」
魔法を使えない者であっても、魔力をまったく持たないわけではない。
呼吸する。
食べる。
眠る。
傷を治す。
生きるために、身体の中では僅かな魔力が巡っている。
野菜や獣にも、それは同じように存在する。
「普通に料理すると、なくなるのでしょうか?」
「すべて失われるわけではありません。しかし、切られ、加熱され、ほかの食材と混ぜられるうちに、その大部分が散ってしまいます」
「私のスープには残っていました」
「残っていただけではありません。異なる食材の魔力が、一つの流れとして結びついていました」
「なぜでしょう?」
「それを可能にした者が、聖膳師です」
「どのようにしていたのですか?」
「分かりません」
オルフェンは、はっきりと答えた。
「記録が残っていないのですか?」
「記録はあります。しかし、完成した料理の効果や、使用した材料について書かれたものばかりです。肝心の技術については、ほとんど残されていません」
「秘密にしていたのでしょうか?」
「聖膳師の技は、一族の中でのみ受け継がれていたと考えられています」
「一族……」
レスティナは、料理本の表紙を撫でた。
「では、お母様の家族も聖膳師だったのでしょうか?」
「その可能性はあります」
「聖膳師は、今もいるのですか?」
「公に名乗る者はいません」
最後に聖膳師の存在が王国の正式な記録へ残されたのは、百年以上前。
その後も、食べた者の傷を癒やす料理や、兵士の疲労を一晩で取り除く料理の話は各地に残っている。
だが、それを作った者の名や出身地は記録されていない。
「なぜ、いなくなったのでしょう?」
「分かっていません」
「それもですか?」
「歴史とは、分からないことのほうが多いものです」
聖膳師の料理には、大きな価値があった。
負傷した兵士を早く戦場へ戻せる。
魔力を失った魔術師を回復させられる。
病に苦しむ貴族を癒やせる。
食べ続ければ、身体そのものを強くできると信じられていた時代さえある。
「欲しがる者は多かったでしょう」
オルフェンの声が僅かに低くなる。
「その技術を手に入れるため、聖膳師を囲い込もうとした貴族や王族もいたと記録されています」
「囲い込む?」
「自由に外へ出られない場所で、命じられた料理だけを作らせるのです」
「それは、料理人ではありません」
「ええ。道具として扱われたのでしょう」
レスティナは、料理本を抱く腕へ力を込めた。
料理は、食べてもらうために作る。
誰が食べるのか。
どのような状態なのか。
何を必要としているのか。
それを考えず、命じられた効果だけを求めて料理を作る。
そのような行為を、レスティナは料理だと思えなかった。
「聖膳師たちは、逃げたのでしょうか?」
「そう考えている研究者もいます。技術を隠し、身分を偽り、各地へ散ったのではないかと」
「お母様も?」
「今は何とも言えません」
ティファーナ・ファレル。
旧家名の分からない母。
どこから侯爵家へ来たのか、執事も知らなかった。
もし母が、身分を隠していた聖膳師の一族だったなら。
何も語らなかった理由も、そこにあるのかもしれない。
「この料理本を、ほかの方へ見せてはいけないのでしょうか?」
「少なくとも、聖膳師について詳しく調べるまでは、存在を広めないほうがよいでしょう」
学園長も頷く。
「十三歳のB級冒険者である君を、力ずくでどうにかしようと考える者は少ないだろう」
「少ないだけで、いないとは限りません」
「そのとおりだ」
レスティナは強い。
だが、学園や侯爵家で生活する以上、一日中料理本を抱えているわけにはいかない。
眠る時間もある。
授業を受ける時間もある。
料理本だけを狙われれば、守り切れるとは限らない。
「寮の部屋へ置いてきても大丈夫でしょうか?」
「保管用の魔道具を用意しよう。持ち主以外が開ければ、警報が鳴るものだ」
「料理をするときは、持ち出せますか?」
「当然だ」
「でしたら、お願いいたします」
学園長は、すぐに職員へ手配する内容を紙へ書き始めた。
「もう一つ、確認したいことがあります」
オルフェンが言った。
「ファレル嬢は、森で五年間暮らしていたそうですね」
「はい」
「その間、自分で作った料理を食べ続けたのですか?」
「師匠と交代で作っていました。ですが、途中からは私が作ることのほうが多くなりました」
「どのような食材を?」
「森で採った野草や茸、木の実。あとは、狩った魔獣です」
「魔獣の肉を、どの程度の頻度で食べましたか?」
「ほぼ毎日です」
教師たちが黙る。
「何か、おかしいでしょうか?」
「一般的な家庭では、魔獣の肉を毎日食べません」
「美味しいのに」
「流通する量が少なく、高価なのです」
「森には、たくさんいました」
「自分で狩れば、代金はかからないでしょうね……」
オルフェンは額へ指を当てながら、話を戻した。
「魔獣の肉には、普通の獣よりも多くの魔力が含まれています」
「はい」
「聖膳師が、その魔力を失わずに料理できるのだとすれば……」
「どうなるのですか?」
「その料理を五年間食べ続けた君の身体には、通常より多くの生命力と魔力が取り込まれていた可能性があります」
森へ送られたばかりの頃。
レスティナは、弱かった。
走ればすぐに息が切れた。
小さな荷物を持つだけで、腕が痛くなった。
魔獣の気配にも気づけず、師匠がいなければ初日で死んでいただろう。
それから、森の食材を料理して食べた。
走った。
木へ登った。
魔法を覚えた。
身体強化を覚えた。
戦い方を教わった。
何度も怪我をした。
そのたびに食べ、眠り、また森へ入った。
「私が強くなったのは、師匠に鍛えていただいたからです」
「もちろん、それが最も大きな理由でしょう」
オルフェンは否定しなかった。
「食べるだけで、戦い方は身につきません。料理だけでB級冒険者になれるとも思いません」
「はい」
「ですが、本来なら身体を壊すほどの訓練を続けられた理由や、十三歳でB級へ到達できた成長の早さには、聖膳師の料理が関係しているかもしれない」
「料理を食べると、強くなれるのですか?」
「一度食べただけで、急に強くなるわけではないでしょう。毎日の食事によって疲れが取れ、傷が早く治り、身体がよりよい状態で育った。その積み重ねだと考えるべきです」
レスティナには、よく分からなかった。
食べなければ、身体は動かない。
疲れたときは温かい料理を食べ、怪我をしたときは肉と野菜を多く食べる。
それは、師匠と暮らす中で当たり前に行ってきたことだった。
「皆さんも、毎日料理を食べています」
「その料理が、食材の生命力まで残したものではないのです」
「バルガスさんの料理にも、生命力を残せないのでしょうか?」
流し場で器を洗っていたバルガスが振り返る。
「なぜ俺を見る」
「バルガスさんも料理人です」
「俺のスープに反応は出なかっただろう」
「作り方を覚えれば、できるかもしれません」
「その作り方が分からないから、こうして話しているんだ」
「では、一緒に調べましょう」
「俺もか?」
「はい」
レスティナは迷いなく頷いた。
「美味しい料理を作る方法が増えるかもしれません」
「効果ではなく、味なのか」
「身体によくても、美味しくなければ食べ続けられません」
「それはそうだが……」
バルガスは、断る言葉を探すように黙った。
「ファレル嬢の考えは、聖膳師の記録と一致します」
オルフェンが言う。
「古い文献には、彼らが薬師ではなく、あくまで料理人であることへ強い誇りを持っていたと書かれています」
「料理人……」
「薬効だけを求め、味を損なった物を聖膳とは呼ばなかったそうです」
「正しいと思います」
レスティナは即座に答えた。
「食べる方が嫌がる味では、元気になれません」
「効けばよいというものではない、と?」
「はい。美味しく食べられることが大切です」
オルフェンは、僅かに笑った。
「君は、確かに聖膳師の考え方を受け継いでいるのかもしれませんね」
「お母様から、料理を教わったことはありません」
「技術ではなく、料理へ向き合う考え方です」
料理本の最初の頁。
『料理とは、いただいた命を、明日を生きる命へ変えること』
その言葉を読んだとき、レスティナは意味をすべて理解できたわけではない。
それでも、間違っているとは思わなかった。
自分が森で料理を作るときに考えていたことと、よく似ていたからだ。
「聖膳師について、もっと調べられますか?」
「王立図書館の禁書庫に、いくつか資料が残っています」
「禁書庫……」
「古代の魔法技術や、王家が管理する記録を保管している場所です。生徒が自由に入ることはできません」
「では、見ることはできないのですね」
「通常ならば、です」
学園長が、書き終えた紙を机へ置いた。
「私から閲覧許可を申請しよう」
「よろしいのですか?」
「聖膳師が実在し、その技術を受け継ぐ者が学園にいる可能性がある。調査しない理由はない」
「ありがとうございます」
「ただし、オルフェン先生か私が立ち会うこと。資料を外へ持ち出さないこと。母君の料理本も、必要なとき以外は人目へ晒さないこと」
「分かりました」
「許可が下りるまで、数日はかかる。その間、今までどおり授業を受けなさい」
「はい」
「厨房の使用も許可する。ただし、聖膳師の力を確かめるために、無理に誰かを負傷させたり、魔力を使い切らせたりしてはならない」
「そのようなことはしません」
「念のためだ」
「怪我をする前に止めます」
「そうしてくれ」
学園長が疲れたように息を吐いた。
話が終わり、レスティナは母の料理本を鞄へ戻した。
そのとき、バルガスが厨房の食材置き場を確認する。
「嬢ちゃん」
「はい」
「夕食用の家禽肉が少し余っている」
「使ってよいのですか?」
「聖膳師の話は終わったんだろう。今度は料理人の話だ」
レスティナの表情が明るくなる。
「何を作りましょうか?」
「それを考えるのは、嬢ちゃんだ」
残っている家禽肉。
野菜スープに使わなかった根菜。
昼食で余ったパン。
食堂へ来る生徒たちは、授業を終えて空腹になっている。
「家禽肉を焼いて、パンへ挟みます」
「味つけは?」
「香辛料と蜜を使います。野菜も一緒に挟めば、肉の脂が重くなりません」
「よし。夕食までに間に合わせろ」
「はい」
レスティナは調理台へ戻り、袖を捲った。
聖膳師。
母から受け継いだかもしれない力。
知らなかった自分の正体が、僅かに見え始めた。
けれど、それを知ったからといって、レスティナのすることは変わらない。
使える食材を確認し。
食べる者を考え。
美味しい料理を作る。
どれほど特別な力があったとしても。
レスティナはまず、料理人だった。
お読み頂き、ありがとうございます。




