第二十四話 入学と半熟卵
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
翌朝。
空が白み始める前に、レスティナは目を覚ました。
森で暮らしていた頃から、日の出より先に起きる習慣がついている。
寝台から降り、制服へ着替える。
顔を洗い、髪を梳き、母の料理本と包丁が置かれていることを確認した。
「朝食まで、まだ時間がありますね」
窓の外は薄暗い。
中庭にも人の姿はなかった。
侯爵邸なら、今頃は厨房へ向かっている時間だ。
学園でも厨房は動き始めているはず。
昨夜、バルガスから厨房へ入るには許可が必要だと言われた。
ならば、許可をもらえばよい。
レスティナは部屋を出た。
◇
女子寮一階の管理室。
扉の前に立ち、軽く叩く。
返事はない。
もう一度叩く。
やはり返事はなかった。
「まだ眠っているのでしょうか」
学園へ来る前に、教師から教えられている。
許可なく部屋へ入ってはいけない。
相手が出てくるまで、静かに待たなければならない。
レスティナは扉の横へ立った。
しばらくすると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
白い寝間着の上へ外套を羽織った女性が、燭台を手に歩いてくる。
四十歳ほど。
後ろでまとめた黒髪には、僅かに白いものが混じっている。
女性は管理室の前に立つレスティナを見て、足を止めた。
「……こんな時間に、何をしているのです?」
「おはようございます」
「ええ。おはようございます」
女性は眠そうな目を擦り、管理室の扉を見る。
「私に用事ですか?」
「寮監の方でしょうか?」
「そうです。女子寮の寮監を務めるエルナ・ベルクです」
「初めまして。レスティナ・ファレルと申します」
「存じています」
エルナは小さく息を吐いた。
「昨夜、食堂で騒ぎを起こした生徒として報告を受けていますから」
「騒ぎを起こしたつもりはありません」
「厨房へ入り、夕食を作り直したのでしょう?」
「はい」
「それを騒ぎと言うのです」
「そうなのですね」
レスティナは素直に頷いた。
「次から気をつけます」
「分かってくれたなら結構です。では、部屋へ――」
「厨房を使う許可をいただけますか?」
エルナが黙った。
「今の話を聞いていましたか?」
「はい。許可なく入ったことが問題だと理解しました」
「なぜ、それで許可を求める話になるのです」
「許可をいただけば、厨房へ入っても問題ありません」
「……屁理屈を言っているのではありませんよね?」
「屁理屈とは何でしょう?」
エルナは、レスティナの顔を見つめた。
本当に分かっていない。
眠気とは別の理由で、頭が痛くなってきた。
「なぜ、あなたが厨房を使う必要があるのですか?」
「料理をするためです」
「それは分かっています」
「でしたら――」
「なぜ、侯爵令嬢であるあなたが、学園の厨房で料理をするのかと聞いているのです」
レスティナは考えた。
自分が料理をする理由。
森では、生きるためだった。
マレシアへ教わり、獲った命を無駄にしないために作った。
侯爵邸では、自分が食べるため。
厨房の皆と一緒に食べるため。
母親が遺した料理を知るため。
「料理が好きだからです」
結局、出てきた答えは一番単純なものだった。
「知らない食材を見つけると、どのような味なのか知りたくなります。美味しくない料理を食べると、どうすれば美味しくなるのか考えます」
「学園の料理が美味しくないと?」
「いいえ。昨日のお料理も、作ったときは美味しかったと思います」
「作ったときは?」
「食べるまでに冷めてしまっていました」
レスティナは昨夜の料理について説明した。
家禽肉の下処理。
香草の選び方。
火の入れ方。
食堂へ運ばれるまでの時間。
冷めた料理を、どのように温め直したか。
そして、バルガスと話した保温方法。
エルナは黙って聞いていた。
「それを、あなたが考えたのですか?」
「バルガス料理長も問題を教えてくださいました」
「なるほど」
侯爵家の娘が気まぐれで料理人の真似をしたわけではないらしい。
少なくとも、遊びではない。
それでも、簡単に許可は出せなかった。
「生徒が厨房へ入れば、事故が起きる可能性があります」
「気をつけます」
「あなた一人が気をつければよい話ではありません。料理人の動線を塞ぎ、仕事を遅らせるかもしれません」
「邪魔にならない場所を使います」
「食材にも費用がかかっています。好きなだけ使わせるわけにはいきません」
「自分で獲ってきます」
「それも駄目です」
「なぜでしょう?」
「生徒が朝食のために魔獣を狩りに行く学園が、どこにあるのですか!」
早朝の女子寮へ、エルナの声が響いた。
近くの部屋で、誰かが寝返りを打つ音がした。
エルナは慌てて声を落とす。
「とにかく、自由に使うことは認められません」
「そうですか」
レスティナの肩が、僅かに下がった。
叱られても、表情はほとんど変わらなかった。
それでも、料理ができないことだけは残念らしい。
エルナは眉間を押さえた。
「ただし」
レスティナが顔を上げる。
「バルガス料理長が認め、授業時間外であり、厨房の仕事を妨げず、使用した食材を記録すること。その条件を守れるのであれば、見習いとして厨房へ入ることを許可します」
「見習いですか?」
「学園の料理人から指示を受ける立場です。侯爵令嬢であることを理由に、勝手な命令をしてはいけません」
「分かりました」
「刃物と火は、料理長の監督下で使用すること」
「はい」
「自分や特定の生徒のためだけに、学園の食材を使わないこと」
「はい」
「厨房へ入る前に、必ず授業と課題を終えること」
「分かりました」
「それから、魔獣を獲るために学園を抜け出さないこと」
レスティナは少し考えた。
「外出許可があれば、狩りへ行ってもよいですか?」
「その話は、担任の教師と相談してください」
「では、相談します」
「行く気なのですね……」
エルナは深いため息をついた。
「まだ正式な許可証を書いていません。今すぐ厨房へ行ってはいけませんよ」
「朝食のあとでは、遅いでしょうか?」
「何がです?」
「今日の朝食を作る時間です」
「あなたは作りません」
「見学も駄目ですか?」
「朝食を食べたあと、授業へ行きなさい」
「はい」
今度こそ、レスティナは引き下がった。
丁寧に頭を下げ、自室へ戻っていく。
その背中を見送り、エルナは管理室の鍵を開けた。
「入学初日から、何という生徒でしょう……」
机へ向かい、厨房使用に関する仮許可証を書き始める。
侯爵令嬢を厨房の見習いにする許可証など、これまで一度も作ったことがなかった。
◇
朝食の鐘が鳴る。
食堂へ入ると、昨夜と同じ席にミレーヌが座っていた。
レスティナを見つけ、表情を明るくする。
「おはようございます、レスティナ様」
「おはようございます、ミレーヌさん」
「本当に来てくださったのですね」
「昨日、同じ席で食べると約束しました」
レスティナは正面へ座った。
今日の朝食は、丸いパン。
穀物と豆を煮た粥。
薄切りの燻製肉。
殻つきの茹で卵。
香りのよい茶。
粥からは、まだ湯気が立っている。
レスティナは匙で底から混ぜ、温度を均等にしてから口へ運んだ。
穀物は柔らかい。
豆には僅かに形が残っている。
燻製肉の切れ端を一緒に煮込み、出汁の代わりにしていた。
「温かいです」
「今日は、ご満足いただけましたか?」
声をかけたのは、昨夜の金髪の令嬢だった。
取り巻きの少女を二人連れ、隣の卓へ座っている。
「はい。美味しいです」
「それは結構ですわね」
金髪の令嬢は、自分の茹で卵を匙で割った。
黄身まで完全に固まっている。
それを見たレスティナも、自分の卵の殻を剥いた。
白身へナイフを入れる。
中から、柔らかな黄身がゆっくりと流れ出した。
濃い黄色。
完全な液体ではなく、縁だけが僅かに固まっている。
「半熟ですわ」
金髪の令嬢が、自分の卵と見比べた。
「私のものは固まっていますのに」
「茹で時間が違うのでしょうか?」
ミレーヌも自分の卵を割る。
こちらも黄身まで固い。
他の生徒たちも次々に確かめるが、レスティナの卵だけが半熟だった。
「何か細工をしたのではなくて?」
「今、殻を剥いたばかりです」
「では、なぜですの?」
レスティナは卵が入っていた籠を見る。
大きさが僅かに違う。
自分の卵は、他のものより一回り大きかった。
「大きかったので、同じ時間茹でても中心へ火が通りきらなかったのだと思います」
「偶然ということですの?」
「はい。ですが、私はこのくらいが好きです」
半熟の黄身へ塩を少し。
細かくした燻製肉を絡め、パンへ載せて食べる。
黄身の濃厚さ。
燻製肉の塩気。
焼かれた小麦の香り。
「次は、最初から半熟になるように茹でたいです」
「厨房へ入れるようになったのですか?」
ミレーヌが尋ねる。
「条件つきで許可をいただきました」
「本当に許可を取りに行ったのですね」
「はい。朝食前に寮監の方へお願いしました」
「朝食前……?」
「まだ暗かったです」
「レスティナ様」
ミレーヌは真剣な顔になった。
「普通は、日の出前に寮監を起こして厨房の使用許可を取りません」
「そうなのですか?」
「そうだと思います」
「なぜでしょう?」
「眠いからです」
「起きればよいのでは?」
「それができない人もいるのです」
「難しいですね」
侯爵邸で礼儀作法を教わったときにも、似たことを言った。
貴族の常識も、学園の常識も、レスティナには分からないことが多い。
金髪の令嬢が、二人の会話を聞きながら肩を震わせていた。
「何か、おかしいですか?」
「いいえ。失礼」
口元を布で押さえ、笑いを隠す。
「ファレル侯爵家には、ずいぶんと面白い方がいらしたのね」
「面白いでしょうか?」
「ええ。少なくとも、退屈はしなさそうですわ」
金髪の令嬢は席を立った。
去り際に、レスティナの皿へ視線を向ける。
「昨日の約束、忘れてはいませんわよね?」
「冷めた料理を温めることですか?」
「違います。あなたの料理を食べさせるという約束ですわ」
「食材があり、許可をいただければ作ります」
「楽しみにしていますわ」
「お名前を伺ってもよいですか?」
金髪の令嬢の足が止まった。
昨夜から何度も会話をしている。
それでも、名乗ってはいなかった。
「私をご存じありませんの?」
「はい」
「……あなた、本当に貴族社会から離れて暮らしていたのね」
金髪の令嬢はレスティナへ向き直り、制服のスカートを軽く摘まんだ。
「セレナ・アークライト。アークライト公爵家の次女ですわ」
「レスティナ・ファレルです」
「それは存じています」
「よろしくお願いします、セレナさん」
「公爵令嬢を、いきなり名前で呼びますの?」
「同級生ですから」
昨日、ミレーヌへ言ったのと同じ言葉だった。
セレナは目を瞬いたあと、今度こそ声を上げて笑った。
「ええ。よろしくてよ、レスティナさん」
セレナが食堂を出る。
ミレーヌは、呆然とその背中を見送っていた。
「レスティナ様」
「何でしょう?」
「公爵令嬢と、お友達になりましたね」
「今のが、お友達になるということですか?」
「おそらく……」
「では、ミレーヌさんともお友達ですか?」
突然尋ねられ、ミレーヌは固まった。
「私、ですか?」
「昨日から、一緒に食事をしています」
「身分が違います」
「セレナさんとも違います」
「それは、そうですが」
「嫌でしたか?」
「嫌ではありません!」
ミレーヌは慌てて答えた。
周囲の生徒が振り返るほど、大きな声だった。
顔を赤くして座り直す。
「嫌では、ありません」
「では、お友達ですね」
「……はい」
ミレーヌが、小さく笑った。
「よろしくお願いします、レスティナ様」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
初めての学園生活。
まだ授業さえ始まっていない。
それでもレスティナには、すでに一緒に食事をする友人が二人できていた。
◇
入学式を終えた一年生は、広い訓練場へ集められた。
学園では、入学直後に魔法の基礎能力を確認する。
属性。
魔力量。
魔力操作。
その結果によって、実技授業の組み分けを行うためだ。
訓練場には、属性を調べる透明な水晶と、魔法を当てるための的が並んでいた。
「次、ミレーヌ・オルカ」
「はい!」
名前を呼ばれたミレーヌが、水晶へ両手を触れる。
透明だった水晶の中へ、青と緑の光が浮かんだ。
「水と風。魔力量は平均。操作を確認する」
教師の指示に従い、水球を作る。
ミレーヌの手のひらの上へ、拳ほどの水の球が浮かんだ。
僅かに形は揺れているが、崩れてはいない。
「合格。次、レスティナ・ファレル」
「はい」
レスティナが前へ出る。
水晶へ手を触れた。
透明な内部へ、最初に赤い光が生まれた。
次に青。
緑。
茶。
白。
そして、黒。
六色の光が水晶の中を満たす。
教師の手から、記録用の板が落ちた。
「……全属性?」
周囲の生徒たちが、ざわめき始める。
レスティナは水晶を見つめた。
「何か問題でしょうか?」
「問題というより……全属性を持つ者は、極めて珍しい」
「そうなのですか?」
「自分の属性を知らなかったのか?」
「マレシア様から、すべて使えるように教わりました」
「マレシア?」
「料理と狩りを教えてくださった方です」
教師は聞き覚えのない名前を記録し、水晶を見る。
六色の光は、まだ薄れていない。
「魔力量を測る。今度は、水晶へ魔力を流せ」
「どのくらいでしょうか?」
「まずは少しずつだ。水晶の光が上まで満ちたら止めろ」
「分かりました」
レスティナは水晶へ魔力を流した。
次の瞬間。
六色の光が、透明な水晶の最下部から最上部まで一気に満ちた。
「止めろ!」
教師の声に、レスティナはすぐ魔力を止める。
水晶の表面へ、細い亀裂が一本走った。
訓練場が静まり返る。
「申し訳ありません」
レスティナは水晶から手を離した。
「少しずつのつもりでした」
「今ので、少しなのか?」
「はい」
教師は亀裂の入った水晶を見る。
魔力量を測る道具は、王宮魔術師の選抜にも使われる物だ。
入学したばかりの生徒が壊せるようには作られていない。
「魔力操作を確認する」
教師の声が、僅かに硬くなった。
「火を使えるか?」
「はい」
「あの的へ向け、小さな火球を作れ。撃つ必要はない。手の上へ維持するだけでよい」
「小さな火球ですね」
レスティナは右手を前へ出した。
掌の上に火が灯る。
最初は、親指の先ほど。
赤い炎は揺れることなく、一定の大きさを保っている。
「もっと大きくできるか?」
炎が卵ほどになる。
「さらに」
拳ほど。
「まだ大きく」
人の頭ほど。
レスティナは教師を見る。
「まだ大きくしますか?」
「……いや。元の大きさへ戻せ」
炎が、拳、卵、親指の先と順番に小さくなる。
「形を変えられるか?」
「どのような形でしょう?」
「そうだな……輪にできるか?」
小さな炎が伸び、端と端が繋がる。
レスティナの掌の上で、赤い火の輪が回り始めた。
「二つに分けろ」
二つ。
「四つ」
四つ。
「十個」
十個の小さな炎が、レスティナの周囲へ浮かぶ。
すべて同じ大きさ。
同じ温度。
同じ間隔。
教師は言葉を失った。
魔力量が多い者は珍しいが、存在する。
すべての属性を持つ者も、過去にはいた。
だが、これほどの魔力を持ちながら、十の火を同時に同じ状態で維持できる者はいない。
「どこで、このような操作を覚えた?」
「料理です」
「料理?」
「鍋によって、必要な火の強さが違います。煮込み料理を作りながら、別の鍋でソースも作ります」
レスティナは周囲の炎を見た。
「三つ以上の料理を同時に作るとき、火を一つずつ見ていると間に合いません」
「そのために、魔力操作を鍛えたのか?」
「はい」
十の炎が一斉に消える。
「氷魔法は、お肉を冷やすために覚えました。風魔法は燻製と、揚げ物の温度を下げるときに使います。土魔法は竈を作るためです」
「では、攻撃魔法は?」
「狩りで使います」
「何を狩っていた?」
「最初は角兎です」
「最初は?」
「最後に狩ったのは、灰岩竜です」
教師の顔から、表情が消えた。
昨日、学園へ入学したばかりの十一歳。
病気療養のため、長く社交界を離れていた侯爵令嬢。
書類には、そう記されていた。
「灰岩竜は、どのように倒した」
「殴りました」
「魔法は?」
「身体強化に使いました」
「……そうか」
教師は、それ以上尋ねることを諦めた。
記録板へ、レスティナの結果を書き込む。
属性。
全属性。
魔力量。
測定不能。
魔力操作。
最高評価。
実戦経験。
灰岩竜討伐。
最後の欄まで書いたところで、教師の手が止まる。
「レスティナ・ファレル」
「はい」
「お前は、何を学ぶためにこの学園へ来た?」
レスティナは、少し考えた。
貴族としての知識。
魔法。
歴史。
侯爵邸の教師から、学園では様々なことを学べると聞いている。
けれど、一番楽しみにしているものは決まっていた。
「まだ食べたことのない料理と、知らない食材です」
教師は、記録板を持ったまま空を見上げた。
王立グランフェル学園へ、とんでもない生徒が入学してきた。
その事実を理解しているのは、今のところ教師だけだった。
お読み頂き、ありがとうございます。




