第二十三話 初めての友人との温かい朝食
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
バルガスから渡されたのは、使い込まれた平鍋だった。
底には細かな傷があり、柄も少し黒ずんでいる。
だが、歪みはない。
毎日、丁寧に手入れされている道具だ。
「包丁もお借りしてよいですか?」
「そこにある」
「ありがとうございます」
レスティナは平鍋と包丁を受け取り、空いている作業台へ向かった。
厨房で働いていた料理人たちは、手を動かしながらも、何度もレスティナへ視線を向けている。
侯爵令嬢が厨房へ入ってきた。
それだけでも珍しい。
しかも、冷めた料理を美味しくすると言って、包丁を握っている。
バルガスが腕を組んだ。
「それで、何を作るつもりだ」
「新しい料理ではありません」
「何?」
「この料理が、本来持っていた美味しさを戻します」
レスティナは、自分の皿から家禽肉を取り上げた。
最初に、しんなりした皮を肉から剥がす。
包丁の刃先を皮と肉の間へ差し込み、身を削らないよう慎重に滑らせた。
肉だけになった胸肉を、繊維へ沿って大きめにほぐす。
「なぜ、切らない」
「このお肉は、すでに水分が抜け始めています。繊維を断つように細かく切ると、温めたときにさらに肉汁が流れます」
「だから、手で裂くのか」
「はい。食べやすい大きさにはしますが、小さくしすぎません」
厨房の端から、家禽の出汁が入った小鍋を運ぶ。
表面に浮いた脂を、匙で少しだけ掬い取った。
平鍋へ獣酪を一欠片。
弱火にかける。
獣酪が溶けきる前に、剥がした皮を広げて置いた。
じゅっ、と音が鳴る。
皮の表面に残っていた水分が飛び、獣酪の香りが立ち上った。
「強火ではないのか?」
若い料理人が尋ねる。
「最初から強い火にすると、表面だけが焦げます。今は、皮に残った水分を出しています」
木べらで皮を押さえ、反り返らないように焼く。
しばらくすると、柔らかかった皮が平らになり、表面へ小さな泡が浮かび始めた。
そこで火を強める。
ぱちぱちと軽い音が続き、皮が薄い黄金色へ変わった。
レスティナは皮を取り出し、網の上へ置く。
「焼けたのではないのか?」
「今すぐ皿へ置くと、下側に湯気が溜まって、また柔らかくなります」
次に、平鍋へ残った脂を確認する。
家禽の脂。
獣酪。
皮を焼いた香ばしい香り。
そこへ、細かく刻んだ香草を加えた。
すぐに火を弱める。
「香草を先に入れるのか」
「少しだけです。香りを脂へ移します」
「焦げるぞ」
「ですから、火を弱めました」
香草の色が変わる前に、家禽の出汁を注ぐ。
熱い脂へ出汁が触れ、平鍋から白い蒸気が上がった。
木べらで鍋底を擦り、皮を焼いたときについた焦げ目を溶かす。
そこには家禽の旨味が残っている。
捨てる理由はない。
出汁が温まったところで、ほぐした胸肉を入れた。
肉が完全に沈むほどの量ではない。
底の部分だけが出汁へ触れる程度。
レスティナは平鍋をゆっくり傾け、匙で温かい出汁を肉へかけていく。
「煮込まないのか?」
「煮込むと硬くなります。中まで熱くなれば十分です」
「それで温まるのか」
「小さくほぐしてありますから」
出汁をかけるたび、肉の表面へ薄い艶が戻っていく。
冷えて固まっていた脂が溶け、香草と獣酪の香りをまとい始めた。
レスティナは指先で肉へ触れる。
表面だけではない。
中心まで温かくなっている。
すぐに肉を皿へ取り出した。
平鍋には、肉を温めた出汁が残っている。
そこへ、皿に添えられていた赤実のソースを加えた。
固まりかけていたソースが、出汁の中でゆっくりと溶けていく。
果実酢を数滴。
塩を一つまみ。
新しい香草を、今度は火を止めてから加える。
「先ほども香草を入れなかったか?」
「先ほどの香草は、ソース全体へ香りを移すためです。今の香草は、口へ入れたときに香りを立たせるためです」
「同じ香草でも、入れる時期を変えるのか」
「はい。長く火を通した香りと、生に近い香りは違います」
最後に、冷たい獣酪を少しずつ加える。
平鍋を揺らしながら溶かすと、赤かったソースが僅かに明るくなり、表面に艶が生まれた。
レスティナは匙の先へソースを取り、味を見る。
「少し酸味が強いですね」
皿に残っていた蒸し根菜を一つ取る。
柔らかくなるまで火が通っている。
それを木べらで潰し、ソースへ混ぜた。
「根菜を入れるのか?」
「甘味を足します。それに、捨てる必要もありません」
潰した根菜がソースへ溶け、自然なとろみがつく。
もう一度味を見る。
「これで大丈夫です」
皿の中央へ、温めた胸肉を重ねる。
その周囲へ香草獣酪ソースを流す。
最後に、網の上で休ませていた皮を細く割り、肉の上へ立てるように添えた。
しんなりしていた皮は、触れただけで軽い音を立てた。
「できました」
先ほどまで食堂に並んでいた料理と、使われている食材は同じだった。
家禽肉。
赤実のソース。
蒸した根菜。
香草。
新しく加えたのは、少量の出汁と獣酪と果実酢だけ。
それでも、皿から立ち上る香りはまったく違う。
「味見をお願いします」
レスティナは、皿をバルガスへ差し出した。
「俺が食うのか」
「この料理を作ったのは、バルガス料理長ですから」
「作り直したのは、お前だろう」
「いいえ」
レスティナは首を横へ振った。
「私は、少し温め直しただけです。お肉へ味をつけたのも、最初に火を入れたのも、バルガス料理長たちです」
バルガスは、しばらく皿を見つめていた。
やがて、近くに置かれていたフォークを取る。
最初に、皮を口へ運んだ。
かりっ、と小気味よい音が鳴る。
しんなりしていた皮に、香ばしさが戻っている。
次に胸肉を切り、ソースを絡めて食べた。
「……柔らかい」
完全に焼きたてへ戻ったわけではない。
失われた肉汁は戻らない。
それでも、出汁と獣酪をまとった肉は、冷めたときに感じた乾きを失っていた。
赤実の酸味。
根菜の甘味。
二度に分けて加えられた香草の香り。
噛むたびに味が広がる。
「温め直しただけで、ここまで変わるのか」
「焼き直してはいませんから」
「だが、これは一皿だけだ」
バルガスは厨房を見渡した。
残っている家禽肉は、まだ多い。
食堂では、何十人もの生徒が同じ料理を食べている。
「全員分を一皿ずつ温めていたら、最後の生徒が食べる頃には夜中になる」
「はい」
「なら、学園の食事には使えん」
レスティナは素直に頷いた。
バルガスの言葉は正しい。
侯爵邸の晩餐とは人数が違う。
一人ずつ食べる時間も違う。
どれほど美味しい方法でも、厨房で再現できなければ意味がない。
「最初から、この形で出す必要はありません」
「何?」
「お肉とソースを、別々にしておきます」
レスティナは、残っている家禽肉を見る。
「焼いたお肉は、切らずに大きなまま休ませます。冷め始める前に、温かい出汁を薄く張った鍋へ移します」
「火を入れ続ければ、結局硬くなる」
「鍋を直接火へ置きません」
レスティナは大鍋を指差した。
「大きな鍋へ湯を張り、その中へ小さな鍋を置きます。お湯の熱で保温すれば、直接火へかけるより温度が上がりにくくなります」
料理人たちが、互いの顔を見る。
「食べる直前に切り分け、温めておいたソースをかけます。皮だけは別に焼いて、乾いた場所へ置きます」
「だが、それでも手間は増える」
「はい」
「今の人数では難しい」
「では、すべてを変えなくてもよいと思います」
バルガスが眉を寄せる。
「諦めるのか?」
「いいえ。できる範囲から始めます」
レスティナは食堂へ続く扉を見る。
「最初に食堂へ来る方の分は、今までどおり焼きたてを出せます。遅れて来る方の分だけ、保温する方法を変えます」
「……全員へ同じ時刻に出そうとするから、最初の料理まで早く作っていたのか」
「はい。食べる時間が違うのであれば、料理を仕上げる時間も分ければよいと思います」
バルガスは黙った。
厨房には、長年続けられてきた手順がある。
決められた時刻までに、すべての料理を完成させる。
配膳係へ渡した時点で、厨房の仕事は終わる。
大勢へ確実に食事を出すために作られた手順だった。
間違ってはいない。
だが、その手順では、料理が生徒の口へ入る時刻まで考えられていなかった。
「料理は、食べる人の口へ入ったときに完成する、か」
食堂でのレスティナの言葉は、厨房まで聞こえていたらしい。
「はい」
「簡単に言ってくれる」
「難しいですか?」
「難しいに決まっているだろう」
「では、一緒に考えます」
レスティナは迷わず答えた。
「お前は生徒だ」
「はい」
「厨房の人間ではない」
「お料理をすることはできます」
「侯爵令嬢だろう」
「それは、料理ができない理由になりますか?」
バルガスは口を閉じた。
近くにいた若い料理人が、堪えきれずに吹き出す。
「料理長、一本取られましたね」
「うるさい。手を動かせ」
「はいはい」
先ほどまで張り詰めていた厨房の空気が、少しだけ緩んだ。
バルガスは、残っていた肉をもう一切れ口へ入れる。
「今日はもう遅い」
「はい」
「それに、厨房へ生徒を入れる許可を出すのは俺じゃない。寮監と学園長だ」
「では、許可をいただいてきます」
「待て」
皿を持って食堂へ戻ろうとしたレスティナを、バルガスが止めた。
「今から行くつもりか?」
「はい」
「就寝まで、そう時間はない」
「明日の朝食までに許可が必要です」
「なぜそうなる」
「朝食も冷めてしまうかもしれません」
「毎食、厨房へ来るつもりなのか!」
「駄目でしょうか?」
「駄目に決まっている!」
バルガスの声が厨房へ響いた。
料理人たちが声を上げて笑う。
レスティナは、なぜ笑われているのか分からず、首を傾げた。
◇
食堂へ戻ると、生徒たちのほとんどが食事を終えていた。
それでも、何人かは席に残っている。
全員が、厨房から戻ってきたレスティナへ視線を向けた。
ミレーヌも、先ほどと同じ席で待っていた。
「戻ってきた……」
「お待たせしました」
「本当に厨房へ入れてもらえたのですか?」
「はい」
レスティナは、作り直した料理を机へ置いた。
「温め直しました」
ミレーヌが目を瞬く。
「先ほどの料理と、同じものなのですか?」
「同じ食材を使っています」
レスティナは料理を半分に分け、空いている皿へ取り分けた。
「よろしければ、食べますか?」
「私が?」
「一人では、違いが分かりません」
「作ったご本人には分かるのでは……」
「私が美味しいと思うだけでは、足りません」
ミレーヌは戸惑いながらも、フォークを取った。
まず、黄金色に焼かれた皮を口へ入れる。
軽い音。
目が僅かに見開かれた。
続いて、香草獣酪ソースを絡めた肉を食べる。
「……美味しい」
「よかったです」
「さっきのお肉は、少し硬くて……でも、これは柔らかいです。それに、温かい」
ミレーヌは、もう一口食べる。
食事を始めたときには、周囲を気にしながら小さく切っていた。
今は、目の前の料理だけを見ている。
「同じお料理だったのですよね?」
「はい」
「冷めただけで、あれほど味が変わってしまうのですか?」
「料理によります。冷めたほうが美味しいものもあります」
「そのような料理もあるのですか?」
「はい。肉汁を固めた料理や、果実を使ったお菓子。それから――」
説明を続けようとしたレスティナは、ミレーヌのフォークが止まったことに気づいた。
「どうしましたか?」
「いえ……」
ミレーヌは、自分の腹部へ手を当てていた。
「先ほどまで、少し気分が悪かったのです」
「お腹が痛いのですか?」
「朝から馬車に揺られていたので、疲れただけだと思います。でも、今は……」
肩へ入っていた力が抜けている。
顔色も、食事を始める前よりよい。
「身体が温かくなった気がします」
「温かい料理を食べたからではないでしょうか」
「そう、なのでしょうか」
レスティナは、自分の分を食べる。
香草の香り。
赤実の酸味。
家禽肉の旨味。
思ったとおりの味になっている。
特別なことはしていない。
食材に合わせ、失われたものを補っただけだ。
「食べられそうでしたら、全部どうぞ」
「ですが、レスティナ様の分が……」
「私は、馬車の中でパンをいただきました」
「それでも、半分はレスティナ様の夕食ではありませんか?」
「また作ればよいです」
「簡単に仰いますね」
ミレーヌが、小さく笑った。
先ほどまで周囲へ怯えていた表情とは違う。
初めて見る、自然な笑顔だった。
「では、いただきます」
「はい。温かいうちにどうぞ」
ミレーヌは、残っていた料理を一口ずつ味わって食べた。
その様子を、近くに残っていた令嬢たちが見ている。
食堂でレスティナへ声をかけた金髪の令嬢も、その中にいた。
彼女の皿には、半分以上の家禽肉が残されている。
「本当に、それほど違いますの?」
金髪の令嬢が尋ねた。
「はい」
答えたのは、ミレーヌだった。
「同じお料理とは思えないほどです」
「大袈裟ではなくて?」
「でしたら、ご自分で召し上がってみればよろしいのでは?」
言い返したあと、ミレーヌ自身が驚いたように口を押さえた。
男爵令嬢である自分が、格上らしい相手へ反論してしまった。
だが、金髪の令嬢は怒らなかった。
代わりに、レスティナを見る。
「私の料理も、温め直せますの?」
「できます」
「では――」
「今日は、できません」
「なぜですの?」
「厨房を使う許可をいただいていないからです」
「先ほどは使っていたではありませんか」
「一皿だけ、特別に貸していただきました」
「でしたら、もう一皿くらい」
「料理人の方々は、片づけをしています。お仕事の邪魔になります」
金髪の令嬢は不満そうに唇を尖らせた。
それでも、レスティナは譲らない。
料理を美味しくするために、誰かへ無理をさせるつもりはなかった。
「明日、許可をいただけたら作ります」
「本当ですの?」
「食材があれば」
「約束ですわよ」
「はい」
金髪の令嬢は、残っていた肉を名残惜しそうに見つめながら席を立った。
そのあとを、取り巻きらしい令嬢たちが追っていく。
食堂に残ったのは、レスティナとミレーヌだけになった。
「レスティナ様」
「何でしょう?」
「明日も、こちらへ座ってよろしいですか?」
レスティナは、ミレーヌの顔を見た。
自分と一緒に食べたい。
そう言われたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「もちろんです」
「ありがとうございます」
ミレーヌが、嬉しそうに笑う。
学園へ来て、初めて一緒に食事をした人。
それが友人と呼べるものなのか、レスティナにはまだ分からない。
けれど、明日も誰かと食事ができる。
そのことを、嬉しいと思った。
「明日の朝食は、何でしょう」
「普通は、お友達との会話で最初に献立を気にするものでしょうか」
「違うのですか?」
「私にも、よく分かりません」
二人は顔を見合わせた。
そして今度は、一緒に笑った。
お読み頂き、ありがとうございます。




