第二十一話 行ってきますの朝に食べる、角兎肉と根菜の煮込み
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
レスティナが侯爵邸を出るのは、昼の鐘が鳴る頃だった。
荷造りは前日のうちに終えている。
学園指定の制服に、教本や筆記具。日用品も侯爵家の使用人が用意してくれた。
レスティナが自分で荷物へ加えたのは、愛用の包丁と最低限の調理器具、いくつかの調味料。それから、母の形見である料理本だった。
だから出立の朝、彼女がまだ暗いうちから起き出したのは、忘れ物を確かめるためではない。
誰よりも早く厨房へ入り、一人で料理をするためだった。
◇
朝日が侯爵邸の窓を白く染め始めた頃。
料理長のガルドが厨房の扉を開けると、馴染み深い香りが鼻をくすぐった。
「ん?」
肉と根菜をじっくり煮込んだ、優しく濃厚な香り。
厨房の中央にある大鍋から、白い湯気がゆったりと立ち昇っている。
その傍らには、すでに人数分の器が並べられていた。
「おはようございます、ガルド料理長」
鍋の前に立っていたレスティナが振り返る。
「レスティナ? 何をしてるんだ。今日は学園へ行く日だろう」
「はい。出立はお昼ですので、その前に朝食を作ろうと思いまして」
「だからって、こんな朝早くから……」
ガルドは呆れたように頭を掻いた。
やがて、ほかの料理人たちも次々と厨房へ入ってくる。
「なんだ、この匂い」
「角兎の煮込みか?」
「ああ、お嬢様が前に作ってくれたやつだ」
鍋の中を覗き込んだ料理人が、並べられた器の数に気づく。
「これ、俺たちの分ですか?」
「はい。厨房の皆さんと、執事さんの分です」
「最後の朝だってのに、俺たちが作ってもらうんですか」
「朝から働くのでしょう? でしたら、食べたほうがよいです」
レスティナにとって、それはごく当然の答えだった。
彼女は鍋を軽く混ぜてから、料理の名を告げる。
「今日の料理は――『疲れた日に食べる、角兎肉と根菜の煮込み』です」
「やっぱり、あれか」
ガルドは小さく笑った。
それは、レスティナが母の料理本を受け取った日に作った煮込み料理だった。
料理本に記された手順を忠実になぞり、母の味を再現した一皿。
以前にも味わっている。
そう思いながら、ガルドは器を手に取った。
だが、ひと口食べた瞬間。
「……ん?」
その手が止まった。
柔らかく煮込まれた角兎肉は、舌で押すだけでほろりと崩れる。肉の旨味を吸った根菜には、穏やかな甘味が染み渡っていた。
味の根幹は、以前食べたものと同じだ。
けれど、明らかに違う。
深みが増している。それでいて、以前よりも軽い。
朝から食べても胃に重さを残さないのに、物足りなさはまるでない。
噛むたびに肉の部位ごとの食感が変わり、煮込まれた根菜の甘さの中へ、焼いた根菜の香ばしさが顔を出す。
最後に鼻を抜けた、爽やかな香り。
ガルドは、もうひと口食べた。
今度は、確かめるようにゆっくりと咀嚼する。
「レスティナ」
「はい」
「どうやって作った」
ガルドはそこで首を横に振った。
「いや、違うな。何を変えた?」
ほかの料理人たちも、何事かと二人を見る。
レスティナは少し考えてから、鍋へ目を落とした。
「まず、角兎のお肉を部位ごとに分けました。よく動かす前脚と腿肉は、最初から時間をかけて煮込んでいます。柔らかい背肉は一度表面を焼き、固くならないよう仕上げの少し前に加えました」
「部位ごとに、火を入れる時間を変えたのか」
「はい。骨も捨てずに、一度焼いてから出汁を取りました。沸騰させると濁りと臭みが出ると料理長に教わりましたので、灰汁を取りながら、静かに煮出しています」
厨房の若い料理人が、慌てて自分の器を覗き込む。
「だから、こんなに澄んだ味なのか……」
「根菜は半分に分けました。片方は早めに入れて、煮崩れるまで火を通しています。もう片方は焼いてから後で加えました。溶けた根菜で甘味ととろみをつけて、後から加えたものには香りと食感を残しています」
「それだけじゃねえだろ」
ガルドは、器の中の肉を匙で崩した。
「この香ばしさと、微かな酸味はなんだ?」
「お肉を焼いた鍋に残った旨味を、赤い果実酒で溶かして煮汁へ戻しました。冒険者の仕事でいろいろな魔獣を料理しているうちに、焼いた後の鍋には美味しいものが残っていると気づいたんです」
「……それで?」
「母の本に書かれていたとおり、一度冷まして、味が染み込むまで置きました。冷えて固まった余分な脂を取り除いて、今朝、弱火で温め直しています。煮込み用の香草は途中で取り出して、仕上げには新しい香草を少しだけ。最後に、灰岩竜を料理したときに使った黄色い果実の皮を削って加えました」
「塩も前より少ねえな」
「はい。皆さんはこれからお仕事ですし、執事さんも朝からお忙しいので、脂と塩を少し控えました。身体が重たくならないようにしたかったんです」
料理人たちは、一斉に煮込みを口へ運んだ。
ひと口、もうひと口。
誰も喋らない。
厨房にはしばらく、匙が器へ触れる音だけが響いた。
レスティナはそんな彼らを見渡し、最後にガルドを見つめた。
「母の本に書かれていた料理へ、ガルド料理長と皆さんから教わったことを加えました」
ガルドの太い眉が、ぴくりと動いた。
「お肉の扱い方も、出汁の取り方も、香草の使い分けも、味を食べる人に合わせることも。全部、この厨房で教えていただいたことです」
「……そうか」
「半年間、ありがとうございました」
ガルドは俯いた。
大きな手で目元を押さえ、鼻をすすり上げる。
それに最初に気づいた若い料理人が、にやにやと笑った。
「あれ、料理長。何泣いてるんですか?」
「泣いてねえ。香草が目に染みただけだ」
「もう鍋に入ってるじゃないですか」
「煙も出てませんよ」
「うるせえ! 朝の仕込みを始めろ!」
怒鳴るガルドの声は、いつもよりわずかに震えていた。
料理人たちが笑う。
けれど、レスティナだけは笑わなかった。
目元を押さえたままのガルドと、笑っている料理人たちを交互に見て、不安そうに眉を下げる。
「あの……」
「あん?」
「失敗でしたでしょうか?」
厨房から、音が消えた。
料理人たちは目を丸くしてレスティナを見つめた。
ガルドも、目元を拭った手を止めている。
「皆さん、笑っていますし、料理長は涙が出るほど香草が辛かったようですので……。黄色い果実の皮を入れすぎたのでしょうか」
一拍の沈黙。
次の瞬間、厨房が爆笑に包まれた。
「はははははっ!」
「お嬢様、そこで失敗したと思うんですか!」
「料理長、ちゃんと言わないからですよ!」
「俺のせいか!?」
何が起きているのかわからず、レスティナは困惑したまま立ち尽くす。
ガルドはしばらく肩を震わせていたが、やがて大きく息を吐き、正面からレスティナを見た。
「失敗なわけがあるか」
「では、どうして……」
「悔しいが、これは俺には作れねえ味だ」
母親が遺した料理。
マレシアから教わった技術。
森で一人、食材と向き合い続けた日々。
冒険者として出会った魔獣と、この厨房で料理人たちから学んだ知識。
それらすべてが、この一皿の中にあった。
同じ材料と手順を知ったところで、まったく同じものは作れない。
これはもう、誰かの料理を再現しただけの一皿ではなかった。
「めちゃくちゃ美味い」
ガルドが言う。
料理人たちも、口々に続いた。
「ああ。すごく美味いです」
「朝から鍋ごと食えそうですよ」
「学園の連中に食わせるのがもったいないくらいだ」
レスティナの表情から、不安が消えていく。
「よかったです」
ほっと胸を撫で下ろした彼女を見て、厨房には再び笑い声が響いた。
「朝から随分と楽しそうですね」
扉から声がした。
執事が厨房へ入ってくる。
料理人たちは慌てて姿勢を正したが、レスティナは蓋をかぶせておいた器を両手で持ち上げた。
「執事さん。こちらは執事さんの分です」
「私にも、ですか」
「はい。冷める前にどうぞ」
執事は一瞬だけ目を細め、恭しく器を受け取った。
匙ですくい、煮込みを口へ運ぶ。
ゆっくりと味わってから、もうひと口。
その間、レスティナは黙って返事を待った。
「以前いただいたものは、ティファーナ様の味でございました」
「はい」
「あの日、私は確かに、もう一度あの方の料理をいただいたように感じました」
執事は器の中へ視線を落とす。
「ですが、これは――レスティナ様の料理ですね」
母の料理と違う。
その言葉は、失敗を意味するものではなかった。
教えられた味を忘れず、そこへ自分が得たものを重ねていく。
そうして生まれた料理は、もう母のものでも、師匠のものでも、ガルドたちのものでもない。
レスティナは胸の前で、そっと手を握った。
「はい」
そして、まっすぐに執事を見つめる。
「私の料理です」
執事は穏やかに微笑み、深く頭を下げた。
「大変、美味しゅうございます」
◇
昼の鐘が鳴る。
侯爵邸の正門前には、学園へ向かう馬車が用意されていた。
レスティナの荷物はすでに積み込まれている。
父であるファレル侯爵が見送りのために口にしたのは、たったひと言だけだった。
「くれぐれも、侯爵家の名に傷をつけるな」
「はい」
正妻バレシアの姿はない。
ドルアとレメシアは別の馬車で学園へ戻るため、レスティナより先に屋敷を出ていた。セシアも見送りには来なかった。
レスティナは特に気にすることなく、馬車へ乗り込もうとする。
「お嬢様!」
背後から、いくつもの声が響いた。
振り返る。
料理人たちが侯爵邸から駆けてきていた。
全員が仕事着のまま。粉のついた前掛けを叩く者もいれば、布巾を肩にかけたままの者もいる。
その先頭を走ってきたガルドが、息を切らしながら包みを差し出した。
「料理長?」
「馬車の中で食え」
受け取った包みは、まだほんのりと温かい。
小麦と焼いた肉の香りがした。
「ありがとうございます」
「学園の飯が不味くても、勝手に寮で火を使うんじゃねえぞ」
レスティナは真剣な顔で考え込む。
「火を使わなければよいでしょうか?」
「そういう意味じゃない!」
料理人たちの笑い声が、正門前に広がった。
「お嬢様なら、魔法でどうにかしそうですけどね」
「厨房を借りればいいんです」
「借りられなかったら、いつでも帰ってきてください!」
「馬鹿野郎。学園を抜け出させる気か!」
「料理長だって、寂しいくせに」
「うるせえ!」
笑い合う料理人たちの少し後ろで、執事が静かに佇んでいた。
レスティナと目が合うと、彼は胸へ片手を添え、腰を折る。
「お帰りを、お待ちしております」
帰りを待っている。
その言葉を聞いたレスティナは、しばらく動かなかった。
八歳のあの日。
森の小屋へ追いやられたとき、彼女を見送る者はいなかった。
別れを惜しむ声もなければ、帰りを待つ者もいなかった。
生きて戻ることなど、最初から望まれていなかった。
けれど今は違う。
自分のために料理を包んでくれる人がいる。
自分の料理を食べて、笑ってくれる人がいる。
帰りを待っていると言ってくれる人がいる。
胸の奥に生まれた温かさへ、レスティナはまだ名前をつけられなかった。
だから、今の自分が知っている言葉の中から、もっとも相応しいものを選んだ。
包みを大切に抱え、レスティナは笑う。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
料理人たちの声が、ひとつになった。
馬車が動き出す。
レスティナは窓から身を乗り出し、見送る彼らへ何度も手を振った。
屋敷が遠ざかっても。
厨房の白い壁が見えなくなっても。
彼女はしばらく、手を振り続けていた。
捨てられた森へ向かった日、レスティナを見送る者はいなかった。
けれど今は、帰りを待ってくれる人たちがいる。
その温かさを胸に、最強の美食家令嬢は、まだ見ぬ料理と出会うための一歩を踏み出した。
お読み頂き、ありがとうございます。




