第二話 生きるための教えと燻製
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
「ごちそうさまでした」
レスティナは空になった器を両手で持ち、深く頭を下げた。
器の中には、牙狼肉と森山菜の香草スープが一滴も残っていない。
肉も、白い根も、山菜も、すべてきれいに食べていた。
「足りたかい?」
「はい。お腹いっぱいです」
そう答えた直後、レスティナのお腹が小さく鳴った。
「……」
「……」
レスティナは恥ずかしそうに俯いた。
この一月、満腹になるまで食べたことがない。
突然入ってきた温かい料理に、身体がもっと欲しいと訴えている。
マレシアは何も言わず、鍋に残っていた香草スープを器へ盛りつけた。
最初の一杯より汁を少なめにして、牙狼肉と白い根を多く入れる。
「おかわりだ」
「ですが……」
「私の分なら別に取ってある。それとも、もう食べられないかい?」
湯気を上げる肉と山菜を見つめ、レスティナはごくりと喉を鳴らした。
「……いただきます」
「今度はゆっくり食べるんだよ」
「はい」
二杯目は、一杯目よりも時間をかけて食べた。
肉を噛み締め、山菜に染み込んだスープを味わう。
口の中からなくなるたびに名残惜しそうな顔をしながら、それでも今度は喉へ詰まらせないよう、よく噛んでから飲み込んだ。
途中で何度も手を止め、幸せそうに頬を緩めるレスティナを、マレシアは黙って見つめていた。
細い腕。
痩せた頬。
手足には、森を歩き回った際についた小さな傷がいくつもある。
服も、貴族の娘が身につけるものとは思えないほど汚れていた。
もっとも、今のマレシアはまだ、レスティナが貴族の娘であることを知らない。
「レスティナ」
「はい?」
「あんたをここへ連れてきたのは誰だい?」
レスティナの手が止まった。
「お屋敷の方です」
「屋敷?」
「はい」
「この近くに、どこかの貴族の屋敷でもあるのかい?」
「ファレル侯爵家です」
マレシアの眉が動いた。
「ファレル侯爵家の使用人が、あんたをここへ連れてきたのか?」
「はい」
「なぜだい?」
「分かりません」
レスティナは小さく首を横へ振る。
「今日からこちらで暮らすようにと言われました」
「親は?」
「お父様は、ファレル侯爵様です」
マレシアの目が細くなった。
「……あんたは、ファレル侯爵の娘なのか?」
「はい。妾の子だそうです」
「そう呼ばれていたのかい?」
「皆様が、そうおっしゃっていました」
「母親は?」
「私を産んだときに亡くなったと聞いています」
「侯爵は、実の娘をこんな場所へ送ったのか」
「お父様は、私がお嫌いなのだと思います」
レスティナは悲しむでもなく、当たり前のことを話すように答えた。
その言葉が、かえってマレシアの怒りを強くした。
「食料は最初から、一月分しかなかったのかい?」
「分かりません。少しだけ置いてありました」
「どのくらいでなくなった?」
「少しずつ食べたので、十日ほどです」
「残りの二十日は?」
「森で山菜を採りました。木の実も見つけたことがあります」
「火は?」
「ありません」
「なら、全部生で?」
「川でよく洗っています」
マレシアは空を仰いだ。
食料は僅か。
火を起こす道具もない。
小屋の近くには、幼い子供でも採取できる食材しかない。
それなのに森には、人間を襲う魔獣が生息している。
これは娘を自立させるための教育ではない。
生きられるはずのない環境へ放り込み、死ぬのを待っているだけだ。
「迎えが来る予定は?」
「聞いていません」
「屋敷へ帰りたいかい?」
レスティナは答えなかった。
匙を持ったまま、器の中に残っている最後の肉を見つめている。
「怒らないから、思ったことを言ってごらん」
「……分かりません」
「分からない?」
「最初は、帰りたいと思っていました」
レスティナは小屋の扉へ顔を向けた。
「毎日、馬車が来るのを待っていました。でも、誰も来ませんでした」
声に責めるような響きはない。
ただ、起きた事実を話しているだけだった。
「お屋敷にいたときも、お父様とはほとんどお会いしませんでした。お義母様も、私を見ると不愉快そうなお顔をされます」
「兄弟は?」
「兄と姉と妹がいます。でも、あまりお話ししたことはありません」
「食事はどうしていた?」
「皆様が食べ終わったあとに、残ったものをいただいていました」
「残らなかった日は?」
「お水を飲んで、眠りました」
マレシアの中で、何かが切れかけた。
今すぐファレル侯爵家へ乗り込み、父親を殴り飛ばしたい。
だが、それをしてもレスティナの立場がよくなるとは限らない。
侯爵家へ無理に連れ帰せば、今度は人目につかない場所で、より酷い目に遭わされる可能性もある。
マレシアは冒険者だ。
貴族社会の面倒さも、権力者がどれほど簡単に事実を捻じ曲げられるかも知っていた。
「レスティナ」
「はい」
「今夜は、私もここに泊まる」
「ここに、ですか?」
「ああ。寝台はあんたが使いな。私は外でも眠れる」
「ですが、お客様を外で眠らせるわけには……」
「八歳の子供が気にすることじゃないよ」
マレシアは立ち上がり、残った牙狼へ目を向けた。
「それに、まだ処理が残っている。このまま置いておけば、肉が腐ってしまう」
「腐る……」
「食べ物には、食べられる時間がある。肉は特に短い」
マレシアが倒した牙狼は四匹。
先ほど香草スープへ使ったのは、若い牙狼一匹の腰肉だけだ。
そのほかの部位は、まだほとんど手つかずで残っている。
「全部、食べられるのですか?」
「毒のある内臓と、臭いの強い部分は避けたほうがいい。だが、きちんと処理すれば大半は食べられる」
「今日中に、すべて食べるのですか?」
「そんなことをしたら、腹が破裂するよ」
マレシアは解体用の包丁を手に取る。
「食べ切れない肉は、保存できる形へ加工する」
「保存?」
「塩漬け、干し肉、燻製。方法はいくつもある。今日は――」
若い牙狼の後ろ脚を持ち上げ、肉づきを確かめる。
「牙狼肉の香草燻製を作ろう」
「牙狼肉の香草燻製……」
「時間はかかるが、きちんと作れば、そのまま焼いた肉より長く保存できる」
マレシアは、残る牙狼すべての血抜きを行った。
首の血管を切り、後ろ脚を縛って木から吊るす。
血が落ちている間に、小屋の近くへ新しい作業台を作る。
平らな板を水で洗い、火魔法で表面を軽く炙る。
「どうして板を焼くのですか?」
「目に見えない汚れを減らすためだ。焦がす必要はない。表面が乾く程度でいい」
血抜きを終えた牙狼を一匹ずつ台へ載せる。
皮を剥ぎ、内臓を傷つけないよう腹を開く。
食用に向く部分。
薬や素材として売れる部分。
使えない部分。
マレシアは、それらを迷うことなく分けていった。
親の牙狼は筋肉が発達し、若い個体より肉が硬い。
しかし、硬いから食べられないわけではない。
長時間煮込むか、薄く切るか、細かく叩けば料理に使える。
「柔らかいお肉のほうが、おいしいのではないのですか?」
「料理次第だね。柔らかさだけがおいしさじゃない。よく動いた成体の肉は硬いが、味が濃い。煮込みや挽き肉には向いている」
「お肉に合わせて、料理を変えるのですか?」
「食材には、それぞれ得意な料理がある。何でも同じように焼けばいいってものじゃないよ」
マレシアは牙狼の後ろ脚から、厚い肉を切り出した。
腿肉。
よく動かす部位なので筋が多いが、脂肪が少なく、保存食へ加工しやすい。
骨に沿って包丁を滑らせ、肉を大きな塊のまま外す。
表面についた余分な脂、硬い筋、薄い膜を取り除く。
次に、肉を指二本分ほどの厚さへ切り分けた。
「薄く切らないのですか?」
「干し肉なら、もっと薄くする。だが今日は、火を通しながら煙を当てる温燻にする。薄すぎれば水分が抜けすぎて、硬くなるからね」
切り分けた肉の重さを、一つずつ手で確かめる。
マレシアは荷物から塩の袋を取り出した。
木の器へ塩を入れ、乾燥させた香草、潰した黒い香辛料、細かく刻んだ野蒜を加える。
さらに、小さな袋から茶色い粉を一つまみ。
「こちらは何でしょう?」
「木の実を乾かし、粉にしたものだ。少し甘い」
「甘いものを、お肉へ?」
「甘くするためだけじゃない。塩の尖った味を和らげて、焼いたときの香りもよくなる」
塩と香草を、指先でむらなく混ぜる。
完成したものを、マレシアは少量だけレスティナの掌へ載せた。
「舐めてごらん」
レスティナは、ほんの少しだけ舌を触れさせた。
「しょっぱいです……。でも、少し辛くて、よい匂いがします」
「これを肉へ擦り込む」
マレシアは肉の表面へ調味塩を振り、手のひらで押しつけるように馴染ませた。
表面だけでなく、切り口や凹んだ部分にも丁寧に擦り込む。
「塩は多すぎても少なすぎても駄目だ。多すぎれば食べられないほどしょっぱくなる。少なすぎれば、中まで味が入らず、傷みやすい」
「どうやって量を決めるのですか?」
「本当なら、肉の重さを量って決めるのが確実だ。だが、今は秤がない。肉の厚さと大きさを見て覚えるしかないね」
調味塩を擦り込んだ肉を、清潔な布の上へ並べていく。
そのままでは肉から出た水へ浸かってしまうため、底へ細い枝を組み、肉が浮くようにした木箱へ移す。
マレシアは手をかざし、箱の周囲へ冷気を集めた。
空気中の水分が白く凍り、薄い氷となって木箱を覆う。
「氷……」
「塩が馴染むまで、このまま冷やしておく。温かい場所へ置けば、塩が入る前に傷むかもしれないからね」
「どのくらい待つのですか?」
「この厚さなら、一晩だ」
「一晩も?」
「保存食は、すぐにはできないよ」
レスティナは氷で冷やされた肉を、名残惜しそうに見つめた。
「今夜は、何を食べるのでしょう?」
「さっきのスープが残っている。それに、燻製へ使わない肉を少し焼こう」
「まだ食べられるのですね」
「……あんた、本当にさっき二杯食べたのかい?」
「はい」
「そうかい」
マレシアは呆れながらも、僅かに笑った。
二人は残った牙狼の処理を続けた。
骨は、出汁を取るために使う。
肉が残っている骨を、そのまま捨てたりはしない。
関節から切り分け、血や汚れを冷たい水で洗い流す。
すぐに使わない分は、マレシアが氷魔法で凍らせた。
心臓や肝臓など、傷みやすい内臓は別に分ける。
毛皮と角、牙は、町へ持っていけば売れる。
すべての処理を終える頃には、太陽が傾き始めていた。
レスティナは最初から最後まで、ほとんど目を逸らさなかった。
「疲れたかい?」
「少しだけ」
「水を飲みな」
レスティナは差し出された水を飲む。
冷たい水が、乾いた喉へ染み込んだ。
「マレシアさん」
「何だい?」
「どうして、そんなにたくさん知っているのですか?」
「何年も旅をしてきたからだよ」
「料理をするために?」
「料理だけじゃない。食材を手に入れるためには、狩りも必要だ。採ったものを持ち帰るには、保存方法も知らなきゃならない」
マレシアは、処理を終えた牙狼肉を見た。
「私は美食家だからね。おいしいものを食べるためなら、必要なことは何でも覚える」
「美食家……」
「おいしいものを探し、食べ、料理する者だ」
レスティナは、その言葉を心の中で繰り返した。
美食家。
おいしいものを食べるために、世界を巡る人。
「世界には、今日の料理よりもおいしいものがありますか?」
「もちろん」
「たくさん?」
「私が一生かけても、全部は食べられないくらいにね」
レスティナは目を見開いた。
今日食べた牙狼肉と森山菜の香草スープよりも、おいしいものがある。
それも、一生かけても食べ切れないほど。
「食べてみたいです」
「なら、まずは生きなきゃね」
「……はい」
マレシアは小屋の中へ視線を向けた。
寝台は一つしかない。
八歳のレスティナを一人で残すつもりはなかった。
だが、いつまでここにいるのか。
侯爵家とどう話をつけるのか。
それは、これから考えればいい。
「今夜は寝台を使いな。私は外で寝る」
「ですが、お客様を外で眠らせるわけには……」
「私は野宿に慣れている」
「私も、床で眠れます」
「子供が遠慮するんじゃないよ」
「でも……」
「なら、明日は寝台をもう一つ作ろう」
「明日も、いてくださるのですか?」
レスティナが顔を上げた。
その目には期待と、期待して裏切られることへの恐れが浮かんでいた。
最初の十日間。
レスティナは毎日、誰かが迎えに来るのを待っていた。
もう誰かを待つのは嫌だった。
「しばらくはね」
マレシアは、できるだけ軽い口調で答えた。
「さっき言っただろう? 牙狼肉の香草燻製は、一晩では完成しない。塩を馴染ませたあと、表面を乾かして、煙へ当てる必要がある」
「では、燻製が完成したら、行ってしまうのですか?」
「……どうだろうね」
マレシアは答えを濁した。
この子が一人でも生きられる方法を見つけるまでは、旅立つ気になれなかった。
レスティナは俯いたあと、小さく頷いた。
「分かりました」
その声があまりに寂しそうで、マレシアはレスティナの頭を撫でた。
「少なくとも、明日突然いなくなったりはしないよ」
「本当ですか?」
「ああ。約束する」
その言葉を聞き、レスティナの表情が少しだけ明るくなった。
翌朝。
冷やしておいた牙狼肉を木箱から取り出す。
塩の作用で肉から水分が出て、表面が濡れていた。
「このまま煙へ当てるのですか?」
「いや。まず、余分な塩と水分を取る」
マレシアは肉の表面を冷たい水でさっと洗った。
水へ長く浸すと、必要な塩まで抜けてしまう。
表面についた香草と余分な塩だけを落とし、清潔な布で押さえる。
擦らず、上から何度も押し当て、肉の水分を布へ移す。
次に、肉へ紐を通し、小屋の軒下へ吊るした。
「すぐに燻さないのですか?」
「表面を乾かす。濡れたまま煙へ当てると、煙がつきすぎて苦くなる。それに、色もまだらになる」
「乾けば分かりますか?」
「触ればね。表面がべたべたせず、少しだけしっとりしているくらいがいい」
朝食を食べ、しばらく待つ。
風に当てられた牙狼肉の表面から、水気が少しずつ消えていく。
マレシアは指先で触れ、状態を確かめた。
「これならいい」
小屋から少し離れた場所に、石を組んだ小さな燻製炉を作る。
下で煙を起こし、上へ肉を吊るすためのもの。
使う木も、何でもよいわけではない。
樹脂の多い木を使えば、煤と強い匂いが肉へつく。
マレシアが選んだのは、甘い実をつける広葉樹の乾いた枝だった。
「木で味が変わるのですか?」
「正確には、香りが変わる。これは煙が柔らかく、肉へ甘い香りがつく」
枝を細かく砕き、水へ浸す。
すべてを濡らすのではなく、一部だけ。
「火をつけるのに、水へ濡らすのですか?」
「燃やしたいんじゃない。煙を出したいんだ。乾いた枝だけでは、すぐ炎が上がってしまう」
炉の下で炭を起こし、その上へ濡らした木片を載せる。
白い煙が立ち上り始めた。
炎が出れば火を弱め、煙が止まれば乾いた木片を少し足す。
肉は火へ直接当たらない高さへ吊るす。
「肉を焼くのではないのですか?」
「今日は温燻だから、中へ火を通す程度の熱は加える。だが、直火で焼く料理じゃない。低い温度で時間をかけ、煙の香りを移しながら水分を抜く」
燻製炉へ蓋をする。
完全には塞がず、細い隙間を残す。
「煙を閉じ込めたほうが、早く香りがつくのでは?」
「煙が濃すぎれば、苦くなる。古い煙を逃がしながら、新しい煙を送り続けるんだ」
レスティナは煙が途切れないよう、火の状態を見守った。
強すぎれば炭を離す。
弱ければ、乾いた木片を加える。
煙が黒くなれば、木が燃えすぎている証拠。
白く細い煙が、途切れず流れる状態を保つ。
時間が経つにつれ、牙狼肉の色が変わっていった。
赤かった表面が、少しずつ濃い茶色へ染まる。
香草と煙が混ざった、食欲を刺激する匂いが漂い始めた。
「いい匂いです」
「まだ食べるんじゃないよ」
「触ってもいません」
「目が食べようとしている」
何度か肉の上下を入れ替え、煙が均等に当たるようにする。
厚い部分へ細い金串を刺し、少し待ってから抜く。
串の先を手首の内側へ当て、中心まで熱が入っているか確かめる。
「これで完成ですか?」
「火は通った。だが、すぐ食べるより、少し休ませたほうが煙の香りが落ち着く」
「まだ待つのですか……」
「料理は待つことも大切だよ」
燻製を炉から出し、風通しのよい場所へ吊るす。
表面の熱が取れるまで待ち、ようやく一つを切り分けた。
包丁を入れる。
外側は濃い茶色。
内側は火が通り、淡い桃色から白に近い色へ変わっている。
薄く切った一枚を、マレシアがレスティナへ渡した。
「これが、牙狼肉の香草燻製だ」
「いただきます」
レスティナは両手で受け取り、端から一口齧った。
最初に感じるのは、しっかりとした塩気。
噛むと、牙狼肉の濃い旨味が出てくる。
生の肉を煮込んだ昨日のスープとは、まったく違う。
水分が抜けている分、肉の味が凝縮されていた。
鼻から抜けるのは、香草と甘い木の煙。
表面は少し硬いが、内側には肉の水分が残り、噛むたびに味が増していく。
「おいしいです……」
「塩が強いから、一度に食べすぎるんじゃないよ」
「昨日のお肉と、同じ牙狼なのですよね?」
「ああ」
「切り方と、作り方を変えただけで、こんなに味が変わるのですか?」
「それが料理だ」
レスティナは、手の中に残った燻製を見つめた。
昨日まで、山菜は山菜でしかなかった。
今日まで、肉を食べたことすらなかった。
けれど、一つの牙狼から、温かい香草スープと、香りの強い燻製が作られた。
知識と手間をかければ、同じ食材がまったく違う味になる。
「マレシアさん」
「何だい?」
「昨日の香草スープも、この燻製も、私にも作れますか?」
「教わって練習すればね」
「では、教えてください」
レスティナは燻製を持ったまま、深く頭を下げた。
「私に、料理を教えてください」
「料理だけでいいのかい?」
マレシアは森の暗がりへ視線を向けた。
「食材を手に入れるには、森を歩く知識がいる。魔獣から逃げる足も、襲われたときに戦う力も必要になる」
「それも教えていただけるのですか?」
「簡単じゃないよ」
「頑張ります」
「怪我をするかもしれない」
「何も知らなくても、昨日、怪我をしました」
「逃げ出したくなるほど厳しくするかもしれないよ?」
「逃げても、行く場所がありません」
あまりにも真っ直ぐな答えに、マレシアは言葉を失った。
レスティナは顔を上げる。
「私も、自分でおいしい料理を作れるようになりたいです」
そこにあったのは、侯爵令嬢としての義務でも、捨てた家族を見返すための復讐心でもない。
初めて生まれた、レスティナ自身の願いだった。
マレシアはしばらく少女を見つめたあと、膝をついて目線を合わせた。
「あんたに、一つ約束してもらう」
「何でしょう?」
「危ないと思ったら逃げること。分からないものを勝手に食べないこと。そして、自分の命を粗末にしないこと」
「はい」
「返事だけじゃ駄目だよ」
マレシアは右手を差し出した。
「約束できるかい?」
レスティナは、その手を見つめた。
誰かから手を差し出されたことなど、これまで一度もなかった。
恐る恐る自分の手を重ねる。
マレシアの手は硬く、温かかった。
「約束します」
「よし」
マレシアはレスティナの手を握り返した。
「なら、私が教えてやる」
「本当ですか?」
「ああ。狩りも、魔法も、料理も。生きていくために必要なことを、全部ね」
レスティナの目が輝く。
「ありがとうございます!」
「ただし、私は厳しいよ」
「頑張ります!」
「まずは昼飯を作るところからだ」
「次は何を作るのですか?」
マレシアは、完成した燻製と、処理を終えた牙狼の骨を見る。
「牙狼の骨から出汁を取る。時間をかけて煮れば、肉とは違う旨味が出る」
「骨も食べられるのですか?」
「骨そのものは食べない。だが、骨の中と周りには、まだ味が残っている」
レスティナは期待に満ちた目で、大量の骨を見つめた。
「料理名は?」
「まだ決めていない。何を合わせるかで変わるからね」
「では、一緒に決めてもよいですか?」
「ああ。あんたが作る料理だからね」
レスティナは嬉しそうに笑った。
マレシアが初めて見る、年相応の笑顔だった。
その日。
森の小屋には、以前までなかった燻製の香りが漂い続けた。
八歳の少女と、一人の美食家。
二人の奇妙な共同生活が、静かに始まった。
お読み頂き、ありがとうございます。




