第一話 初めての手料理は香草スープ
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
「はぁっ……はぁっ……!」
八歳の少女、レスティナは森の中を必死に走っていた。
細い枝が頬を切る。
剥き出しになった木の根を飛び越え、深く積もった落ち葉を蹴散らしながら、ひたすら前へ進む。
息を吸うたびに胸が痛い。
足も、もうほとんど動かない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
「グルルルルッ!」
背後から、獣の唸り声が迫る。
レスティナを追いかけているのは、三匹の魔獣だった。
牙狼。
姿は狼に似ているが、身体は普通の狼よりも大きい。額から短い角が生え、口からは幼い少女の腕など簡単に噛み千切れるほど鋭い牙が覗いている。
三匹とも、まだ子供だった。
だからこそ、レスティナはすぐには殺されなかった。
三匹から少し離れた場所を、二回りほど大きな親の牙狼が走っている。
親はレスティナを直接襲おうとしない。
子供たちが彼女を追い、回り込み、逃げ道を塞ごうとする様子を静かに見守っていた。
狩りを教えているのだ。
レスティナは一人の人間ではなく、子供たちに狩りを覚えさせるための獲物として選ばれていた。
「嫌っ……!」
背後から伸びてきた爪が、レスティナの服を切り裂いた。
背中に焼けるような痛みが走る。
それでも振り返らない。
手にしていた山菜の籠は、逃げ始めたときに落としてしまった。
今日の食事。
うまく見つけられれば、明日の分にもなるはずだった大切な食料。
けれど、拾いに戻ることなどできない。
戻れば、今度こそ捕まってしまう。
「誰か……!」
助けを求めても、応える者はいない。
この森で暮らしている人間は、レスティナ一人だけだった。
一月前。
八歳になったばかりのレスティナは、ファレル侯爵家の屋敷から連れ出された。
何も知らされないまま馬車へ乗せられ、連れてこられたのは、領内の森に建つ古びた小屋だった。
『今日から、こちらでお暮らしください』
屋敷から同行した使用人は、それだけを告げた。
水の入った壺と、僅かな食料。
古びた毛布を一枚残し、使用人は馬車に乗って帰っていった。
どうして自分だけが森で暮らさなければならないのか、レスティナには分からなかった。
家族から好かれていないことだけは、幼い彼女にも分かっていた。
父親とまともに話した記憶はない。
義母はレスティナを見るたび、露骨に顔をしかめた。
兄や姉妹から家族として扱われたこともない。
使用人たちは陰で、レスティナを妾の子と呼んでいた。
それでも最初の数日は、誰かが迎えに来てくれると思っていた。
きっと何かの罰なのだ。
大人しく待っていれば、屋敷へ戻してもらえる。
そう信じ、毎日小屋の前に座って、馬車がやって来るのを待った。
一日が過ぎた。
三日が過ぎた。
十日が過ぎた。
森の入り口へ続く道をどれだけ眺めても、誰も来なかった。
小屋に残されていた食料も、すぐになくなった。
空になった袋を何度確かめても、パンや豆が増えることはない。
お腹が空いて、眠ることさえできなくなった。
だからレスティナは、自分で食べられるものを探した。
最初は、どの草が食べられるのかも分からなかった。
虫が食べている葉を少しだけ口に入れ、長い時間待つ。
苦すぎるものは吐き出した。
舌が痺れるものにも手を出さなかった。
それでも何度か腹を壊した。
吐き気と痛みに耐えながら毛布へくるまり、もう目を覚ませないかもしれないと思った夜もある。
翌朝になると、なぜか身体は少し楽になっていた。
そうやって少しずつ、食べられる山菜を覚えた。
川の水で土を洗い、そのまま口へ入れる。
味はほとんどない。
少し苦くて、硬くて、お腹もいっぱいにはならない。
それでも、食べなければ死んでしまう。
レスティナにとって食事とは、おいしさを楽しむものではなかった。
次の日まで生き延びるため、口へ入れるものだった。
「きゃっ!」
足が木の根に引っかかった。
レスティナの小さな身体が宙へ浮き、硬い地面へ投げ出される。
「うっ……」
胸を強く打ち、息が詰まった。
立たなければならない。
早く逃げなければならない。
頭では分かっているのに、足に力が入らない。
顔を上げると、三匹の牙狼がレスティナを取り囲んでいた。
口元から涎を垂らしながら、遊ぶようにゆっくりと距離を詰めてくる。
その後ろでは、親の牙狼が子供たちを見守っていた。
逃げ道はない。
「……嫌」
死にたくない。
まだ、死にたくない。
けれど、助けてくれる人はどこにもいない。
一匹の牙狼が地面を蹴った。
大きく口を開き、レスティナへ飛びかかってくる。
レスティナは目を閉じ、両腕で頭を庇った。
風を切る鋭い音がした。
次の瞬間。
「ギャンッ!」
牙狼の悲鳴が森に響き渡った。
いつまで待っても、その牙はレスティナへ届かなかった。
恐る恐る目を開ける。
飛びかかってきた牙狼が、近くの木の幹へ叩きつけられていた。
その胴体には、一本の短剣が深々と突き刺さっている。
「子供に狩りを教えるのは結構だがね」
知らない女の声がした。
「人間の子供を教材にするんじゃないよ」
木々の間から、一人の女性が歩いてくる。
旅人用の丈夫そうな外套。
腰には剣と、いくつもの小さな鞄。
背中には弓だけでなく、鍋や包丁などの調理器具まで括りつけられている。
女性が軽く手を振った。
倒れた牙狼に突き刺さっていた短剣が抜け、空中を飛んで女性の手元へ戻る。
残る二匹が、唸り声を上げて女性へ襲いかかった。
「遅いね」
女性の姿が消えた。
レスティナには、そう見えた。
次に姿を捉えたときには、二匹の牙狼が地面へ倒れていた。
それぞれの首には、細い傷が一本だけ走っている。
親の牙狼が咆哮した。
我が子を殺された怒りから、女性へ飛びかかる。
女性は腰の剣を抜こうともしなかった。
迫ってきた牙狼の顎を片手で掴む。
「お前は肉が硬そうだね」
そのまま、地面へ叩きつけた。
轟音とともに土が舞い上がる。
地面が僅かに揺れ、親の牙狼は何度か身体を痙攣させたあと、動かなくなった。
レスティナは呆然と女性を見上げていた。
あれほど恐ろしかった魔獣たちを、女性は瞬く間に倒してしまった。
女性は牙狼の生死を確認してから、レスティナの前へしゃがみ込む。
「怪我を見せてごらん」
「え……」
「背中を切られただろう?」
女性は腰の鞄から小瓶を取り出した。
レスティナが怯えながら背中を向けると、傷口へ液体をかける。
「少し染みるよ」
「っ……」
冷たさの直後、鋭い痛みが走った。
けれど、焼けるようだった痛みは急速に引いていく。
「浅い傷でよかった。ほかに痛むところは?」
「……ありません」
「そうか」
女性は安堵したように息を吐き、周囲を見回した。
「ところで、なぜこんな場所に子供がいるんだい?」
レスティナは首を傾げた。
「貴女こそ、なぜここに?」
「私かい?」
女性は立ち上がると、倒した牙狼を指差した。
「食材を採りに来ただけだ」
「食材?」
「ああ。牙狼はきちんと血を抜いて、臭みを取れば食べられる。若い個体なら肉も比較的柔らかい」
レスティナは倒れている牙狼と、女性の顔を交互に見た。
先ほどまで自分を食べようとしていた牙狼を、今度はこの女性が食べるらしい。
「それより、あんたの家はどこだい?」
「こちらです」
レスティナは女性を森の小屋へ案内した。
扉を開けると、狭い部屋が一つだけある。
古い寝台。
壊れかけた椅子と机。
水を入れておくための壺。
調理器具はなく、火を起こすための道具すらない。
部屋の隅に置かれた小さな籠には、昨日採った山菜が僅かに残っていた。
女性は室内を見回した。
「ほかの者は?」
「いません」
「狩りにでも出ているのかい?」
「いいえ。私一人です」
女性の表情から笑みが消えた。
「一人?」
「はい」
「いつから?」
「一月ほど前からです」
「……今、いくつだい?」
「八歳です」
女性は何かを言おうとして、口を閉じた。
それから、もう一度小屋の中を見る。
大人が暮らしていた形跡など、どこにもない。
「食事はどうしている?」
「森で採っています」
「誰かが運んでくるんじゃないのか?」
「最初に置いてあった分は、もうなくなりました」
「一月の間、誰も来ていないのかい?」
「はい」
女性の手が、ゆっくりと握られた。
レスティナはそれに気づかず、命を救ってもらったお礼をしなければならないと考えていた。
籠から山菜を取り出す。
明日まで残しておきたかったが、命の恩人へ何も出さないわけにはいかない。
「少しお待ちください」
山菜を壺の水で丁寧に洗う。
土を落とし、傷んでいる部分を指で取り除く。
残った中で最も形のよいものを、木の皿へ並べた。
「どうぞ」
女性は、皿に盛られた山菜を見つめた。
「これは?」
「お食事です」
「……いつも、こんなものを食べているのか?」
低い声だった。
顔を上げると、女性がレスティナを睨んでいる。
レスティナの肩が震えた。
怒らせてしまった。
命を救ってもらったのに、自分は洗っただけの山菜しか用意できなかった。
「申し訳ありません」
レスティナは慌てて頭を下げる。
「私が持っている中では、それが一番きれいなもので……。でも、お口に合いませんでしたら、無理に食べていただかなくても……」
「違う」
「え?」
「あんたに怒っているんじゃない」
女性は、強く握っていた拳を開いた。
八歳の子供が一人で暮らしている。
魔獣の出る森で、誰にも守られずに。
食事と呼べるものすら与えられず、山菜を水で洗っただけのものを食べて、どうにか一月を生き延びた。
それなのに、この少女は自分の境遇を嘆くよりも、命の恩人へ粗末なものしか出せないことを気にしている。
「名前は?」
「レスティナです」
「そうか。私はマレシアだ」
女性――マレシアは、レスティナの頭へ一度だけ手を置いた。
「少し待っていな」
マレシアは立ち上がり、小屋の外へ出ていった。
レスティナも慌てて後を追う。
怒って帰ってしまうのかと思ったが、マレシアは倒した牙狼の処理を始めていた。
まず、一番若い牙狼を選ぶ。
「親のほうではないのですか?」
「大きいからといって、うまいとは限らない。よく動いた成体の肉は筋が発達して硬い。今日は、こっちを使う」
マレシアは牙狼の後ろ足を縄で縛り、近くの太い枝へ逆さに吊るした。
首の太い血管へ刃を入れる。
暗い赤色の血が地面へ流れ落ちた。
レスティナは思わず一歩下がる。
「怖いなら、見なくてもいいよ」
「……食べるのですよね?」
「ああ」
「なら、見ます」
レスティナは自分を食べようとした牙狼を見つめた。
怖くないわけではない。
けれど、これが食材になるということを、なぜか知りたいと思った。
「血を残すと、肉の臭みが強くなる。それに傷むのも早い。獲物を仕留めたら、できるだけ早く血を抜くんだ」
血がほとんど落ちなくなるまで待ち、マレシアは腹を上にして牙狼を寝かせた。
足首の周りへ浅く刃を入れ、皮と肉の間へ指を差し込む。
包丁の刃先だけを使い、肉を削らないよう少しずつ皮を剥がしていく。
「ずいぶん、きれいに剥がれるのですね」
「無理に引けば肉が皮へつく。刃は深く入れず、薄い膜だけを切る」
皮を剥いだあとは、腹を開く。
内臓を傷つければ中身が肉へ付着し、味も衛生も悪くなる。
マレシアは腹の中央を避け、刃先を上へ向けたまま慎重に切り進めた。
内臓を取り出し、食べられるものと、処理に手間のかかるものを分ける。
その後、腰骨に沿って包丁を入れ、背中から細長い肉の塊を切り出した。
「これは腰肉だ。牙狼の中では柔らかい部位だよ」
赤身が中心で、脂は少ない。
肉の表面には、白く薄い膜が残っている。
マレシアは包丁の先で膜を持ち上げ、刃を寝かせながら取り除いた。
「この白いものは食べられないのですか?」
「食べられるが、加熱すると硬く縮む。口当たりも悪いから、煮込む前に取っておく」
表面の膜と余分な筋を取り除き、腰肉を繊維に逆らう方向へ薄く切る。
「お肉にも向きがあるのですか?」
「よく見てごらん。細い線が、同じ方向へ走っているだろう?」
レスティナは肉へ顔を近づけた。
確かに、赤い肉の中へ細い線が何本も走っている。
「こちらから、こちらへ伸びています」
「それが肉の繊維だ。繊維と同じ向きに切ると、口の中へ長い筋が残る。横から断ち切れば、噛み切りやすくなる」
「切り方だけで、柔らかさが変わるのですね」
「ああ。いい肉を手に入れても、切り方を間違えれば台無しだ」
薄く切った腰肉を木の器へ入れる。
そこへ塩、潰した香草、乾燥させた野蒜、僅かな果実酒を加えた。
マレシアは指先で肉をほぐしながら、調味料を揉み込んでいく。
「果実酒には香りをつけるだけでなく、肉の臭みを和らげる働きもある。牙狼みたいに匂いの強い肉には特に合う」
「どれくらい置いておくのですか?」
「薄切りだから、長くなくていい。火の準備と野菜を切る間で十分だよ。塩を入れて長く置きすぎれば、水が抜けて硬くなる」
マレシアは小屋の周囲から乾いた枝を集め、太さごとに分けた。
最初に燃えやすい枯れ草と細い枝。
その上へ、指ほどの太さの枝を重ねる。
火打ち石は使わず、指先に小さな炎を灯して枯れ草へ移した。
炎が安定してから、少しずつ太い薪を足していく。
「いきなり太い薪へ火をつけないのですか?」
「火は育てるものだ。最初から太い薪ばかり入れれば、空気が通らず消えてしまう」
火の上に鉄の五徳を置き、深い鍋を載せる。
次に、レスティナが採ってきた山菜を一つずつ確かめた。
広い葉を持つもの。
細長い茎。
小さな白い根。
マレシアは、その中から食べられるものだけを選び出した。
「これは生で食べると腹を壊す」
「……昨日も食べました」
「よく生きていたね、あんたは」
「少しお腹が痛くなっただけです」
「火を通せば毒性は弱くなる。だが、先に水へ晒したほうがいい」
山菜を流水で洗い、根元に残った土を指で擦り落とす。
苦味と弱い毒を持つ葉は、冷たい水を張った器へ入れた。
「水につけるだけでよいのですか?」
「細かく切ってから水へ晒せば、苦味は早く抜ける。だが、長く晒しすぎると香りや味まで抜けてしまう。今日は肉の匂いに負けないよう、少し苦味を残すよ」
太い茎は、表面の硬い筋を包丁で引っかけ、端から引いて取り除く。
白い根は皮を薄く剥き、火が通りやすいよう小さな乱切りにする。
「同じ大きさには切らないのですか?」
「葉、茎、根では、火の通る速さが違う。全部同時に煮上がるよう、大きさと入れる時間を変えるんだ」
根は小さく。
茎は斜めに薄く。
葉は食感がなくならない程度に、少し大きく。
切り終えた頃、肉にも塩と香草が馴染んでいた。
マレシアは荷物から、小さな壺を取り出す。
蓋を開けると、中には白く固まった脂が入っていた。
「それは何ですか?」
「以前狩った角猪の脂だ。きちんと加熱して、不純物を濾してある」
匙ですくった脂を鍋へ落とす。
鍋底の上で白い塊が溶け、透明な油へ変わっていく。
そこへ潰した野蒜を加えた。
じゅっ、と小さな音がする。
すぐに、食欲を刺激する強い香りが立ち上った。
「よい匂い……」
「火を強くしすぎると焦げて苦くなる。香りを油へ移すだけだから、今は弱火だ」
野蒜の縁が僅かに色づいたところで、一度取り出す。
火を少し強め、下味をつけた牙狼の腰肉を、重ならないよう鍋底へ並べていく。
「全部一度に入れないのですか?」
「一気に入れれば鍋の温度が下がる。肉から出た水で、焼くのではなく煮たようになるんだ」
肉を入れた瞬間、鍋から激しい音が上がった。
じゅううううっ。
肉の表面が熱で締まり、赤色から薄い茶色へ変わっていく。
マレシアはすぐに動かさない。
片面へ焼き色がつくまで待ち、それから一枚ずつ裏返した。
「煮込むのに、先に焼くのですか?」
「焼かなくても作れる。だが、表面へ焼き色をつければ、香ばしさが加わる。鍋底についた焦げも、焦がしすぎなければ旨味になる」
両面へ軽く焼き色をつけた肉を、一度木の皿へ取り出す。
次の肉を入れ、同じように焼く。
すべての肉を焼き終えると、鍋底には茶色い焼き跡が残っていた。
そこへ少量の果実酒を注ぐ。
しゅうっ、と白い蒸気が立ち上った。
「わっ」
「顔を近づけるんじゃないよ」
マレシアは木べらで鍋底を擦り、こびりついた焼き跡を果実酒へ溶かしていく。
「これも使うのですか?」
「ここに肉の旨味が残っている。焦げて黒くなったものは苦いが、このくらいの茶色なら捨てるのはもったいない」
水を加える。
鍋底に残っていた旨味が混ざり、薄い褐色の汁へ変わった。
最も火の通りにくい白い根を先に入れ、蓋をする。
炎を強め、沸騰するまで待つ。
しばらくすると、蓋の隙間から湯気が漏れ始めた。
マレシアは蓋を少しずらす。
鍋の表面に、白っぽい泡が集まっていた。
「これは何でしょう?」
「灰汁だよ。肉や野菜から出た蛋白質や細かな汚れが固まったものだ」
「毒ですか?」
「毒じゃない。全部取らなくても食べられる。ただ、牙狼のように癖のある肉は、丁寧に取ったほうが澄んだ味になる」
マレシアは匙を汁の表面へ滑らせ、灰汁だけをすくい取る。
一度に深く入れれば、汁まで大量に捨ててしまう。
匙を寝かせ、表面だけを撫でるように。
灰汁が減るまで何度か繰り返したあと、火を弱める。
汁の表面が激しく波打たず、小さな泡が静かに上がる程度。
「煮込むなら、火は強いほうがよいのでは?」
「強火で煮続ければ、肉は締まって硬くなる。汁も濁る。沸騰したあとは、静かに煮るんだ」
しばらく根を煮てから、焼いた腰肉と茎を入れる。
先ほど取り出した野蒜も鍋へ戻した。
最後に、糸で束ねた数種類の香草を沈める。
「香草は細かく切らないのですか?」
「香りだけを移したいものは束ねておく。そうすれば、最後に取り出せるだろう?」
鍋から漂う匂いが、少しずつ変わっていく。
牙狼肉の力強い香り。
野蒜の香ばしさ。
青い香草の爽やかな匂い。
それらが湯気と一緒に広がるたび、レスティナのお腹が鳴った。
「もう食べられますか?」
「まだだね」
しばらく待つ。
「今は?」
「根がまだ硬い」
さらに待つ。
「そろそろ……」
「蓋を開けすぎると、熱が逃げるよ」
「はい……」
レスティナは鍋から目を離せなかった。
ただ山菜を煮るだけだと思っていた。
けれど、肉を切る向きにも意味がある。
野菜によって切り方が違う。
火の強さを変える。
入れる順番を変える。
一つ一つに、おいしく食べるための理由があった。
マレシアは白い根を一つ取り出し、匙の背で押す。
力を入れなくても、ほろりと崩れた。
「根には火が通った。最後に葉を入れるよ」
水へ晒していた葉の水気を切り、鍋へ加える。
大きく混ぜず、汁へ沈める程度。
葉の鮮やかな緑色が残っているうちに火を弱める。
マレシアは小さな匙で汁をすくい、息を吹きかけてから味を確かめた。
塩を一つまみ。
混ぜて、もう一度味を見る。
さらに、ほんの僅かだけ塩を足した。
「少しずつ入れるのですね」
「薄ければ足せる。入れすぎた塩を取り出すことはできないからね」
最後に香草の束を取り出し、火を止める。
「できたよ」
「これは、何という料理ですか?」
マレシアは木の器へ、肉、白い根、山菜を彩りよく盛りつける。
その上から、薄い褐色の汁をたっぷり注いだ。
「牙狼肉と森山菜の香草スープだ」
「牙狼肉と森山菜の、香草スープ……」
「料理の名前だよ。覚えておきな」
「はい」
湯気の上がる器が、レスティナの前へ置かれた。
これまで嗅いだことのない匂い。
肉と野菜と香草が混ざり合い、空腹だった身体を強く引き寄せる。
「お食べ」
「私が、ですか?」
「ほかに誰がいるんだい」
「でも、これはマレシアさんが採ってきた食材で……」
「山菜はあんたが採った。それに、一人で食べるより、二人で食べたほうがうまい」
マレシアから木の匙を渡される。
レスティナは、まず汁をすくった。
薄く息を吹きかけ、恐る恐る口へ運ぶ。
「――っ」
温かい汁が舌の上へ広がった。
最初に感じたのは、塩気だった。
しかし、ただしょっぱいだけではない。
肉から出た濃い旨味。
白い根の甘さ。
山菜の僅かな苦味。
最後に、香草の爽やかな香りが鼻へ抜けていく。
レスティナが今まで口にしてきた山菜と、同じものが入っているとは思えなかった。
「おい……しい……」
言葉が自然に零れた。
次は肉を匙へ載せる。
薄く切られた牙狼肉は、縁に残った焼き色が香ばしい。
噛む。
肉汁とスープが口の中で混ざった。
野性味のある力強い味。
僅かに残る獣肉特有の癖を、野蒜と香草の匂いが包み込んでいる。
硬いと思っていた肉は、繊維を断つように切られているため、八歳のレスティナでも簡単に噛み切れた。
「これが……お肉……」
レスティナが人生で初めて、肉を口にした瞬間だった。
もう一口。
今度は白い根と一緒に食べる。
根は匙で押すだけで崩れるほど柔らかい。
噛むと、スープを吸った中身から、優しい甘味が溢れた。
山菜の葉は、いつものような硬さがない。
火を通したことで柔らかくなり、肉の旨味を含んだ汁が絡んでいる。
「おいしい……おいしいです……!」
手が止まらない。
一口。
また一口。
もっと食べたい。
なくなる前に、全部食べたい。
レスティナは夢中で料理を口へ運んだ。
「んぐっ……!」
慌てて肉を飲み込もうとして、喉へ詰まらせる。
「ほら」
マレシアがすぐに水を差し出した。
レスティナは水を飲み、何度も咳き込んだ。
「料理は逃げたりしないよ」
マレシアはレスティナの背中を優しくさする。
「ゆっくりお食べ」
「……はい」
レスティナは小さく頷いた。
今度は言われた通り、肉を少しずつ噛む。
口の中からなくなってしまうのが惜しくて、先ほどよりも時間をかけて味わった。
温かい。
おいしい。
身体の奥へ、少しずつ力が戻ってくる。
一口食べるたび、冷え切っていた胸の中まで温かくなった。
「おいしいです……」
「ああ」
「こんなにおいしいもの、初めて食べました」
「そうかい」
「ありがとうございます……」
視界が滲んだ。
器の中へ、ぽたりと雫が落ちる。
レスティナは、自分が泣いていることに気づいていなかった。
マレシアは何も言わず、優しい顔で少女の頭を撫でた。
それがレスティナにとって、人生で初めて食べた肉だった。
そして――。
誰かが自分のために作ってくれた、初めての料理だった。
お読み頂き、ありがとうございます。




