第十四話 疲れた日に食べる、角兎肉と根菜の煮込み
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
翌朝。
厨房の裏口が開くよりも早く、レスティナはその前で待っていた。
腕には、母から遺された料理本を抱えている。
「おはようございます」
「……早いな」
裏口を開けたガルドは、外に立っていたレスティナを見て目を丸くした。
普段からレスティナは早起きだ。
しかし、今日の空にはまだ星が残っている。
「眠れなかったのか?」
「はい。読み終わったら、朝になっていました」
「まさか、一晩中その本を読んでいたのか」
「知らない料理がたくさんありました」
レスティナは嬉しそうに料理本を掲げた。
「それはよかったな。だが、本を読む前に時間の見方を覚えろ」
「次から気をつけます」
「それで?」
ガルドは厨房へ入りながら尋ねる。
「そんな時間から待っていたってことは、何か作るつもりなんだろう」
「はい」
レスティナは料理本を開いた。
何度も読んだのか、目的の頁はすぐに見つかった。
『疲れた日に食べる、角兎肉と根菜の煮込み』
料理名の下には、必要な食材だけでなく、下処理や火加減まで細かく記されている。
文字だけでは分かりにくい部分には、鍋の中の食材の並べ方まで絵で描かれていた。
「最初は、こちらを作ります」
「角兎か。倉庫に昨日仕入れたものがある」
「使わせていただけますか?」
「お前が一羽分を食べるのか?」
「皆さんにも食べていただきたいです」
「なら二羽使え。食う人数を考えろ」
「はい」
厨房の冷蔵庫から、処理を終えた角兎が二羽運ばれてきた。
皮と内臓は取り除かれている。
血抜きも済んでいた。
肉の色は淡い桃色。
鼻を近づけても、嫌な臭いはしない。
レスティナは料理本を、厨房の汚れが届かない棚へ置いた。
開いたままにして、最初の手順を確認する。
「最初に関節ごとに切り分けます」
「丸ごと煮込むんじゃないのか?」
「骨からも出汁を取りたいですが、部位によって火の通り方が違います。切り分けたほうが、焼き色も均等につけられます」
角兎を仰向けに置く。
最初に前脚を持ち上げ、胴体との間へ包丁を入れた。
角兎の前脚は骨で直接胴体と繋がっていない。
肩の筋肉に沿って刃を滑らせれば、骨を断たずに外せる。
次は後ろ脚。
脚を外側へ開くと、付け根に関節が浮かび上がる。
その位置を指先で確かめ、軟骨の隙間へ包丁を入れた。
無理に骨を叩き切れば、細かな骨片が肉へ混ざる。
関節を正しく見つければ、大きな力は必要ない。
前脚と後ろ脚を外したあと、胴体を三つに切り分ける。
肋骨のある部分。
背肉の厚い部分。
骨盤に近い部分。
包丁だけで断ち切ろうとせず、骨の継ぎ目へ厚刃包丁を当て、上から木槌で軽く叩いた。
「背肉だけを外さないのか?」
ガルドが尋ねる。
「今回は骨ごと煮込みます。骨の周りの肉は、煮込むと美味しいですから」
「分かっているじゃないか」
切り分けた肉を、水を張った器へ入れる。
表面に残った血と、小さな骨片を洗い流す。
長時間水へ浸してはいけない。
旨味まで流れ出してしまう。
一切れずつ取り出し、清潔な布で挟んで水分を拭き取った。
料理本を確認する。
『肉の重さに対して、塩は百に一つ。多すぎれば出汁の味を奪い、少なすぎれば肉の中へ味が残らない』
「百に一つ……」
レスティナは角兎肉の重さを量る。
必要な塩を別の皿へ取り分けた。
一度に振らず、高い位置から指先で散らす。
肉を裏返し、骨の近くにも擦り込んだ。
香りを嗅ぎ、料理本へ視線を戻す。
「塩をしてから、四半刻休ませるそうです」
「すぐ焼かないのか」
「塩味を肉の中へ入れるためだと思います」
「だろうな。お前ならどうする?」
ガルドの問いに、レスティナは肉の表面を指で触った。
「角兎は大きな肉ではありません。もっと長く置くと、水分が抜けすぎます。私も四半刻でよいと思います」
ただ本へ書かれているから従うのではない。
なぜ、その手順が必要なのか。
自分が知っている方法と何が違うのか。
レスティナは一つずつ考えながら、母の料理を追っていた。
肉を休ませる間に、根菜の準備をする。
使うのは、土人参、白蕪、芋、鱗茎。
土人参と白蕪は、皮を薄く剥く。
硬い端を切り落とし、角兎肉と同じくらいの大きさに切り分けた。
小さく切りすぎれば、肉が柔らかくなる前に煮崩れる。
芋はさらに大きく。
煮込みの最後に加えるため、水へさらして表面の澱粉だけを洗い流す。
鱗茎は縦半分に切り、繊維を断つ方向へ薄く切った。
「葉野菜は入れないのか?」
「本には、根菜だけと書かれています」
「そのまま作るつもりか」
「最初ですから、お母様が書いたとおりに作ってみます。そのあと、変えたいところがあれば試します」
野菜の準備が終わる頃には、肉の表面へ水分が浮かんでいた。
布で押さえ、丁寧に拭き取る。
平たい器へ麦粉を広げ、肉へ薄くまぶした。
余分な粉は手で叩いて落とす。
「粉をつけるとは書かれていません」
レスティナは料理本の余白を指差した。
『薄く麦粉をまとわせる。肉の旨味を閉じ込め、煮汁へ僅かな濃度を与える』
本文とは違う、少し小さな文字だった。
あとからティファーナが書き加えたのだろう。
「お母様も、何度も作りながら変えていったのでしょうか」
「料理人なら、同じ料理を作るたびに何か見つけるものだ」
「はい」
厚手の煮込み鍋へ、角兎から取った脂と少量の植物油を入れる。
脂だけでは焦げやすい。
植物油を加えれば、温度を安定させながら角兎の香りも残せる。
鍋を中火で温める。
肉の端を僅かにつけると、すぐに細かな泡が出た。
「もう入れてもよさそうです」
一度にすべては入れない。
鍋底に隙間が残る量だけ、角兎肉を並べる。
ジュウウウッ。
肉が焼ける音が響いた。
すぐには動かさない。
表面の麦粉が固まり、鍋底から自然に剥がれるまで待つ。
持ち上げた肉の片面には、濃いきつね色の焼き目がついていた。
「煮込むのに、そこまで焼くのか?」
若い料理人が覗き込む。
「焼き色も味になります。ただし、中まで火を通す必要はありません」
両面へ焼き色をつけたら、肉を一度取り出す。
次の肉を入れる前に、鍋の温度が戻るのを待つ。
冷たい肉を続けて入れれば温度が下がり、焼くのではなく肉の水分で蒸すことになってしまう。
二羽分の肉を焼き終えると、鍋底には茶色い焼き跡が残っていた。
「焦げています」
下働きの少女が心配そうに言う。
「黒くないので大丈夫です。これは肉と麦粉の旨味です」
鍋へ鱗茎を入れる。
火を少し弱め、鍋底の脂を絡めながら炒める。
塩を一つまみ加えると、鱗茎から水分が出始めた。
木べらで鍋底を擦る。
焼きついていた茶色い旨味が少しずつ剥がれ、鱗茎へ絡みつく。
透き通るまで炒めたところで、香味根を加えた。
香味根は焦げやすい。
最初から入れず、鱗茎へ火が通ってから短時間だけ炒める。
香りが立った瞬間、赤い果実酒を注いだ。
ジュワアッ!
白い蒸気が一気に立ち上る。
鍋底に残っていた旨味を木べらで丁寧に剥がし、果実酒へ溶かしていく。
「果実酒を半分まで煮詰める……」
レスティナは料理本を確認しながら呟いた。
「なぜ半分なんだ?」
「酒の尖った香りを飛ばし、果実の甘みと酸味を濃くするためだと思います」
湯気へ鼻を近づける。
最初に感じていた酒精の強い匂いが薄れ、熟した赤実の香りへ変わっていく。
液体の量が半分ほどになったところで、透明な家禽の出汁を注いだ。
本には角兎の骨から取った出汁を使うと書かれている。
しかし、今回は肉を骨ごと煮込む。
そのため、味の強すぎない家禽の出汁を土台にすることにした。
焼いた角兎肉を鍋へ戻す。
肉がすべて煮汁へ沈む量にはしない。
表面が僅かに出る程度。
煮立ったところで、浮いてきた泡と脂を取り除く。
脂をすべて取れば味が薄くなるため、灰色の泡と濁った脂だけを掬った。
土人参と白蕪を加える。
香草を糸で束ね、鍋へ沈めた。
細かな葉をそのまま入れれば、煮崩れて取り除けなくなる。束ねておけば、香りだけを移し、最後に引き上げられる。
蓋を少しずらして置く。
完全に閉じれば蒸気が逃げず、鍋の中が強く沸騰してしまう。
大きな泡が上がらず、煮汁の表面が静かに揺れる火加減まで落とした。
「ここから一刻です」
「その間に授業じゃなかったか?」
「はい」
レスティナはガルドを見上げた。
「申し訳ありません。火を見ていただけますか?」
「そのつもりで、朝から作り始めたんだろう」
「一人でしたら、氷魔法で一度止めていました」
「煮込みの途中で急に冷やすな。肉が締まる」
「分かりました。お願いします」
「任せろ。煮立たせなければいいんだな」
「はい。半刻ほど経ったら、芋を入れてください。肉と根菜が柔らかくなったら火を止めて、そのまま冷ましてください」
「冷ますのか?」
「本に書いてあります」
レスティナは料理本の一文を示した。
『煮込みは、火を止めてから味を含む。朝に作り、夜に食べること』
「では、授業へ行ってきます」
「ああ。勉強してこい」
レスティナが厨房を出たあと、若い料理人が鍋を覗き込んだ。
「料理長。本当に冷ますんですか?」
「本人がそう言っただろう」
「けど、せっかく煮込んだのに」
「冷めるときに、煮汁が肉と野菜へ戻る。温度が下がれば表面に脂も浮いて、余分な分を取りやすくなる」
「料理長は知ってたんですか?」
「……今、思い出した」
「知らなかったんですね」
「うるさい。鍋を見ろ」
◇
夕方。
授業を終えたレスティナは、真っ先に厨房へ戻った。
「お帰り」
「ただいま戻りました」
「鍋なら、言われたとおりにしてある」
「ありがとうございます」
煮込み鍋は、竈から下ろされていた。
蓋を開ける。
冷めた煮汁の表面には、白く固まった脂が浮いている。
レスティナは固まった脂のうち、厚い部分だけを匙で取り除いた。
すべては取らない。
薄く残った脂は、温め直したときに溶け、煮込みへ艶と旨味を戻してくれる。
鍋底から木べらを差し入れ、焦げついていないことを確認する。
角兎肉は骨から外れる直前の柔らかさ。
土人参と白蕪には、赤い煮汁が染み込んでいる。
芋も形を保ったまま、中まで火が通っていた。
肉を一切れ取り出し、半分に切る。
切り口の中心まで、薄く煮汁の色が入っていた。
「本当に、冷ましている間に味が入っています」
レスティナは嬉しそうに料理本へ目を向けた。
書かれていたとおりだった。
鍋を弱火へ戻す。
強火で温め直せば、柔らかくなった肉と根菜が鍋の中で踊り、崩れてしまう。
鍋底だけが焦げないよう、ときどき鍋そのものを静かに揺する。
木べらで何度も混ぜない。
煮汁を少量取り、味を確かめる。
「少しだけ、塩を足します」
「朝は入れなかったのか?」
「煮詰まる前に味を決めると、濃くなるかもしれません。最後に整えたほうが失敗しません」
塩を直接鍋へ入れず、小さな器へ煮汁を取って溶かす。
それを全体へ回し入れた。
束ねていた香草を取り出す。
長く入れたままにすれば、苦みが出る。
最後に新しい香草を細かく刻み、火を止めてから散らした。
煮込み用の香草は、深い香りを出すため。
仕上げの香草は、鮮やかな香りを残すため。
「できました」
料理本に記された最初の一品。
『疲れた日に食べる、角兎肉と根菜の煮込み』
深い器へ、骨つきの角兎肉を盛る。
その周囲へ土人参、白蕪、芋を並べる。
最後に、赤褐色の煮汁をたっぷりとかけた。
肉と果実酒、香草の匂いが、厨房いっぱいに広がった。
「まずは、レスティナが食え」
ガルドが言った。
「よいのですか?」
「お前の母親の料理なんだろう」
レスティナは器を受け取った。
匙ではなく、最初にナイフとフォークを使う。
後ろ脚の肉へナイフを当てると、力を入れなくても簡単に骨から外れた。
煮汁を絡め、口へ運ぶ。
「……」
柔らかな肉が、舌の上でほどける。
赤い果実酒の酸味は、煮詰めたことで丸くなっていた。
鱗茎と根菜の甘み。
骨から出た旨味。
香草の深い香り。
表面へ薄くまとわせた麦粉が、煮汁へ自然な濃度をつけ、肉へしっかりと絡んでいる。
派手な味ではない。
強い香辛料も使っていない。
けれど、温かい煮汁が喉を通るたび、身体の奥へ染み込んでいく。
「美味しいです」
もう一口。
次は白蕪と肉を一緒に食べる。
白蕪が吸い込んだ煮汁と肉汁が、噛んだ瞬間に溢れた。
「これが、お母様の味……」
レスティナは母親の顔を知らない。
声も知らない。
抱きしめられた記憶もない。
それでも今、母親が何度も作り、書き残した料理を食べている。
同じ手順で。
同じ火加減で。
同じ味を目指して。
それだけで、自分と母親の間に一本の細い道ができたような気がした。
「ガルド料理長も、食べてください」
「ああ」
料理人たちの分を取り分ける。
皆が食べ始める中、レスティナは一皿を別に用意した。
「それは誰の分だ?」
「執事さんです」
「仕事中じゃないのか?」
「お母様の味を知っているかもしれません」
皿へ蓋を被せ、冷めないように布で包む。
レスティナはそれを持ち、厨房を出た。
◇
執事は、侯爵の執務室近くにある小部屋で書類を整理していた。
扉が叩かれる。
「どなたですか」
「レスティナです」
「どうぞ、お入りください」
レスティナは皿を持って部屋へ入った。
「お仕事中に申し訳ありません」
「いかがなさいましたか?」
「昨日いただいた本の料理を作りました」
執事の手が止まる。
「お母様の味を知っている方に、食べていただきたくて」
机の上へ皿を置き、蓋を取る。
温かな湯気が立ち上った。
赤い果実酒。
角兎肉。
根菜。
そして香草。
執事は、その香りを知っていた。
「これは……」
「『疲れた日に食べる、角兎肉と根菜の煮込み』です」
十二年前。
ティファーナも、同じ料理を作っていた。
侯爵家へ連れてこられたばかりの頃。
見張るよう命じられていた執事へ、彼女は完成した煮込みを差し出した。
『ずっと立っていたら、疲れるでしょう?』
そう言って、笑っていた。
執事は震える手で匙を取った。
煮汁を一口、口へ運ぶ。
「……同じです」
「本当ですか?」
「はい」
果実酒の酸味。
根菜の甘み。
舌へ残る香草の香り。
何より、食べた者を労わるような、優しい味。
「ティファーナ様が作られたものと、同じ味でございます」
執事は目を閉じた。
胸の奥に沈めていた記憶が、料理の香りとともに蘇る。
侯爵家へ連れてこられても、誰かを憎む言葉を口にしなかった女性。
自由を奪われても、食材を前にすると穏やかに笑っていた女性。
彼女を救うこともできず。
その娘が森へ送られるときも、命令へ逆らえなかった。
それでも今、母親と同じ味を作った娘から、再び料理を差し出されている。
「どうしましたか?」
「いいえ……」
執事は目元を指で拭った。
「少々、湯気が目に染みただけでございます」
「熱かったでしょうか」
「ちょうどよい温かさです」
「よかったです」
レスティナは、執事が涙を堪えていることに気づいていない。
ただ、母親と同じ味だと言われたことが嬉しかった。
「お母様は、この料理をよく作っていたのですか?」
「はい。特に、疲れている者を見つけると」
「本に書いてあるとおりですね」
「左様でございます」
執事はもう一口食べた。
朝から身体へ溜まっていた疲労が、温かな煮汁とともに消えていく。
肩の重さが薄れ、霞んでいた頭も冴えてきた。
十二年前に食べたときも、同じだった。
だが当時は、温かい料理を食べたからだと思っていた。
「レスティナ様」
「はい」
「この料理本を、他の者へお見せになりましたか?」
「ガルド料理長と、厨房の皆さんが見ています」
「そうでございますか」
「何か問題がありますか?」
「……いいえ。古い本ですので、どうか紛失なさいませんように」
「はい。大切にします」
レスティナは料理本の意味を知らない。
執事も、そこに書かれた料理が特別な力を持つとは知らなかった。
ただ、ファレル侯爵家の紋章ではない印が刻まれた、ティファーナの唯一の形見。
それだけで、慎重に扱うには十分だった。
「お皿は、あとで取りに来ます」
「私がお返しいたします」
「では、お願いします」
レスティナは一礼し、部屋を出た。
厨房へ戻る途中も、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「お母様と、同じ味……」
自分には、何もないと思っていた。
家族との思い出も。
母親から与えられたものも。
けれど、今は違う。
一冊の料理本がある。
母親の名前を知った。
母親も、自分と同じように料理をしていた。
「次は、どれを作ろうかな」
レスティナは厨房へ戻ると、母の料理本を開いた。
作ってみたい料理は、まだ数え切れないほどある。
一品作れば、母親のことを一つ知ることができる。
そう信じて。
レスティナは楽しそうに、次の頁をめくった。
お読み頂き、ありがとうございます。




