第十二話 できた居場所でチーズピカタ
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの時刻に、レスティナは厨房の裏口を開けた。
「おはようございます」
「……本当に来たのか」
野菜の入った木箱を運んでいた若い料理人が、目を丸くした。
侯爵家の令嬢が厨房を訪れる。
しかも、使用人たちより早い時間に。
昨日の出来事を知らなければ、追い返していたかもしれない。
「料理長から、裏口を使うように言われました」
「ああ。聞いてるよ」
「空いている竈はありますか?」
「奥の小さいやつなら使っていい。ただし、昼食の仕込みが始まるまでだぞ」
「ありがとうございます」
レスティナは自分の包丁を作業台へ置いた。
今日も食事は運ばれてこなかった。
ならば、自分で作ればいい。
森の小屋で暮らしていた頃と、何も変わらない。
「今朝は何を作るんだ?」
「先に、食材を見てもよいですか?」
「料理長が来るまで、勝手に持ち出すなよ」
「はい」
厨房の隅では、大きな鍋から湯気が上がっていた。
使用人たちの朝食用らしく、刻んだ根菜と豆が煮込まれている。
昨日の夕食で余った硬いパンも、籠へ集められていた。
肉は入っていないが、豆と根菜があれば十分に腹は膨れる。
「皆さんの朝ご飯ですか?」
「ああ。俺たちは貴族様みたいに、朝から肉なんて食えないからな」
「美味しそうです」
「……食うか?」
「よいのですか?」
「一人増えたくらいで変わらねえよ。自分で食器を持ってこい」
「はい」
レスティナは木の器へ煮込みをよそった。
硬いパンを小さく千切り、スープへ浸す。
すぐには食べず、パンが汁を吸って柔らかくなるまで少し待った。
「いただきます」
豆の甘みと、根菜の旨味。
塩気は控えめだが、朝に食べるにはちょうどいい。
「美味しいです」
「貴族の嬢ちゃんが、こんなものでいいのか?」
「はい。温かいですから」
若い料理人が、何とも言えない顔をする。
レスティナは気づかず、器の中身を綺麗に食べ切った。
「ごちそうさまでした」
食べ終えた器を自分で洗っていると、裏口が開いた。
昨日の大柄な男が入ってくる。
侯爵家の料理長、ガルドだった。
「来ていたか」
「おはようございます、料理長」
「ガルドでいい。厨房で料理長と呼ばれると、何人も振り返る」
「料理長は一人ではないのですか?」
「部門ごとに責任者がいる。俺は厨房全体を預かっている料理長だ」
「では、ガルド料理長ですね」
「……好きにしろ」
ガルドは調理服へ着替えながら、レスティナの手元を見る。
「何を食った」
「豆と根菜の煮込みです」
「お前の分は?」
「今日もありませんでした」
「そうか」
ガルドは短く答えた。
前日にレスティナの食事について確認していた。
だが、家令から返ってきた答えは「旦那様から正式な指示を受けていない」だった。
侯爵の実子である。
それでも、誰も自分から扱いを決めようとはしない。
森へ送られる前、この屋敷でどのような扱いを受けていたのか。
ガルドも知らなかったわけではない。
知っていて、厨房の外のことだと口を閉ざしていた。
「朝は、ここで食え」
「よいのですか?」
「使用人用の煮込みなら、一人分くらい増えても問題ない」
「お金は――」
「いらん」
「ですが、食材を使っています」
「昨日の卵と米の代金も必要ない。侯爵令嬢から食費を取ったと知られたら、俺が叱られる」
「そうなのですね」
レスティナは硬貨をしまった。
「では、お料理を手伝います」
「客に手伝わせるわけにはいかん」
「何もしないで食べるのは落ち着きません」
「お前は客じゃなくて侯爵家の娘だろう」
「同じではないのですか?」
ガルドは言葉に詰まった。
しばらくレスティナを見つめたあと、野菜の入った籠を作業台へ置く。
「……この根菜を洗え。皮は剥くなよ。土だけ落とせ」
「はい」
こうして、レスティナは厨房へ通うようになった。
◇
朝は、使用人たちと一緒に食事を取る。
食べ終えたら、できる範囲で仕込みを手伝う。
日が昇れば部屋へ戻り、教師から礼儀作法や歴史を学ぶ。
昼食は、相変わらず用意されない。
夕方に授業が終わると、レスティナは厨房を借り、自分の食事を作った。
三日目。
レスティナは、硬くなったパンを卵と乳へ浸し、表面を獣酪で焼いた。
料理の名は、『古パンの蜜焼き』。
前夜から卵液へ浸したことで、硬かったパンの中心まで水分が入り、焼けば外側は香ばしく、中はプリンのように柔らかくなった。
四日目。
余った根菜と肉の切れ端を細かく刻み、小麦粉と獣酪を炒めて作った白いソースで包んだ。
冷やして形を整え、衣をつけて油で揚げる。
料理の名は、『根菜と燻製肉の白衣揚げ』。
噛めば硬い衣が砕け、中から熱い白いソースが流れ出した。
五日目。
前日に残った魚の煮つけから骨と皮を取り除き、潰した芋と混ぜた。
小さく丸めて焼き、酸味のある香草ソースを添える。
料理の名は、『白身魚と芋の香草焼き』。
その頃には、レスティナが厨房へ入っても、誰も追い返さなくなっていた。
「レスティナ、そっちの鍋を見てくれ!」
「はい。少し煮詰まりすぎています。出汁を足しますか?」
「頼む!」
「嬢ちゃん、今日の余りはこれだ。何か作れるか?」
「果実が傷み始めていますね。砂糖で煮て保存しましょう」
「また変な料理を作ってるのか?」
「変ではありません。まだ見たことがないだけです」
「同じだろ」
「違います」
呼び方から「様」が消え始めていた。
レスティナも、それを気にしなかった。
料理をするとき、身分は関係ない。
美味しいか。
美味しくないか。
失敗したなら、何が原因だったのか。
考えるべきことは、それだけだった。
◇
レスティナが侯爵邸へ戻ってから、二週間。
その日の午後、厨房の裏口へ荷馬車が到着した。
「レスティナ様。森の小屋から、ご指定の物を運んでまいりました」
執事に命じられた騎士たちが、木箱を次々と下ろしていく。
レスティナが地下室へ残していた食材だ。
燻製肉。
塩漬け肉。
乾燥させた山菜と茸。
森で採れた香草。
町で買い集めた調味料。
そして、低温で保存されていたハイガルーダの肉と骨。
「で、でかい……」
料理人たちが、木箱からはみ出す翼を見上げた。
「本当にハイガルーダじゃねえか」
「だから、そう言いました」
「これを一人で?」
「はい」
「殴って?」
「頭を」
ガルドはハイガルーダの肉を確認した。
肉の切断面は滑らかで、血も丁寧に抜かれている。
冷やし方も適切だ。
氷へ直接触れさせず、清潔な布と葉で包んでいるため、肉が水を吸っていない。
「解体も、お前がやったのか」
「はい。師匠に教えていただきました」
「ずいぶん腕のいい師匠だな」
「はい。私の自慢の師匠です」
レスティナが嬉しそうに笑う。
ガルドは少し考え、ハイガルーダの胸肉を指差した。
「これはどうするつもりだ」
「胸肉は脂が少なく、火を通すと硬くなりやすいです。薄く切って焼こうと思います」
「厨房へ持っていけ。状態を確認する」
「はい」
胸肉だけでも、普通の家禽が何羽も買えるほどの量がある。
調理台へ置くと、料理人たちが周囲に集まってきた。
「ガルド料理長」
「何だ」
「皆さんの分も作ってよいですか?」
「失敗したら、どうする」
「なぜ失敗したのかを調べて、別の料理にします」
「食えなくなったら?」
レスティナの表情が真剣になる。
「食材を無駄にしたことを反省します」
失敗すること自体を恐れてはいない。
笑われることも、叱られることも、レスティナには大きな問題ではなかった。
ただ、食材を無駄にすることだけは嫌だった。
「なら、やってみろ」
「はい」
レスティナは胸肉へ包丁を入れた。
まず、皮を外す。
胸肉は腿肉よりも脂が少ない。皮をつけたまま焼けば脂を補えるが、今回の調理法では卵の衣が剥がれやすくなる。
外した皮は捨てない。
細切りにして、別の料理に使うため取っておく。
胸肉の表面を指で撫で、筋の向きを確かめる。
ハイガルーダの胸は、巨大な翼を動かすために発達している。
繊維に沿って切れば、焼いたあとに硬さが残る。
レスティナは繊維を断つように包丁を入れ、厚さが指一本分ほどの薄切りにした。
だが、ただ薄く切るだけでは、肉の厚みが均一にならない。
片側だけに火が入りすぎれば、硬くなる。
切った肉を二枚の油紙で挟み、木槌の平らな面で軽く叩いた。
ドン、ドン、ドン。
強く叩き潰すのではない。
中心から外へ向かい、肉の厚みを伸ばす。
同じ場所ばかり叩けば肉が破れるため、木槌を少しずつ動かしていく。
「薄くするなら、最初からもっと薄く切ればいいだろ」
若い料理人が尋ねた。
「切っただけでは、厚いところと薄いところが残ります。それに、叩くと繊維がほぐれるので、柔らかくなります」
「なるほどな」
すべてを同じ厚みに揃えたところで、両面へ薄く塩を振る。
すぐには焼かない。
網の上へ並べ、しばらく置く。
塩が表面の水分を引き出すと、肉の上に細かな水滴が浮かんだ。
それを清潔な布で、押さえるように拭き取る。
「水分を取ってしまうのですか?」
下働きの少女が不思議そうに尋ねた。
「この水分には、少し臭みがあります。それに、表面が濡れていると粉と卵が剥がれやすくなります」
次に卵を割る。
一つずつ器へ割り、鮮度を確認してから大きな鉢へ。
塩を少量。
香りの強い緑の香草を細かく刻み、加える。
さらに、硬い熟成チーズを削った。
「チーズまで卵へ入れるのか?」
「はい。焼いたときに香ばしくなります。それに、脂の少ない胸肉へ濃い味を足せます」
泡立てないよう、卵を静かに混ぜる。
強く混ぜて空気を含ませると、焼いたときに膨らみ、肉から剥がれやすくなる。
平たい器には、小麦粉を広げた。
肉の両面へ薄く粉をまぶす。
余分な粉は手で軽く叩いて落とす。
「たくさんつけたほうが、卵もつくんじゃないか?」
「粉が厚すぎると、濡れた粘土のようになって剥がれます。表面の水分を押さえる分だけで十分です」
粉をまとわせた胸肉を、香草とチーズの入った卵液へくぐらせる。
鉄の平鍋へ獣酪と少量の植物油を入れ、中火よりも少し弱い火にかけた。
獣酪だけでは焦げやすい。
植物油を加えることで、香りを残しながら焦げるまでの時間を延ばす。
獣酪の泡が大きなものから細かくなり、甘い香りが立ち始める。
煙が出る前に、卵液をまとわせた肉を置いた。
ジュウッ。
静かな音が上がる。
火が強すぎれば、チーズと卵だけが焦げて肉の中心へ熱が届かない。
逆に弱すぎれば、卵が油を吸って重くなる。
レスティナは鍋の音を聞きながら、火魔法で火力を僅かに調整した。
縁の卵が固まり、底に焼き色がついたところで裏返す。
焼けた卵とチーズの香りが、一気に立ち上った。
「まだ触らないでください」
料理人の一人が焼き色を確かめようと手を伸ばし、レスティナが止めた。
「何でだ?」
「裏返したばかりで、こちら側の卵が固まっていません。動かすと剥がれます」
「分かったよ」
両面を焼いた肉へ細い串を刺す。
透明な肉汁が出る。
串を下唇へ当てると、中まで熱が届いていた。
焼き上がった肉は、すぐに切らず、網の上で休ませる。
火から下ろしても、表面の熱は中心へ移動する。
肉汁も繊維の中へ落ち着く。
「焼きたてを食べたほうが美味いんじゃないのか?」
「今切ると、肉汁がお皿へ流れてしまいます」
「昨日から思っていたが、お前は待つ料理が多いな」
「美味しくなるまで待つのも、料理です」
肉を休ませている間に、ソースを作る。
同じ平鍋に残った油を、すべては捨てない。
焦げた粉だけを布で軽く取り除き、獣酪と肉から出た旨味は残す。
そこへ、酸味の強い赤実を潰して加えた。
果実酒を注ぐ。
鍋底へ焼きついた旨味を木べらで擦り取り、ソースへ溶かし込む。
赤実の酸味が強いため、蜜を少量。
塩を一つまみ。
弱火で煮詰める。
木べらで鍋底へ線を引き、その跡が一瞬残る程度まで濃度がついたところで、火を止める。
最後に冷たい獣酪を小さく切って加え、鍋を揺すりながら溶かした。
火にかけたまま入れれば、脂が分離する。
余熱でゆっくり溶かすことで、艶のある滑らかなソースになる。
休ませた肉を斜めに切る。
断面から肉汁はほとんど流れ出さない。
皿へ重ねるように並べ、赤実のソースを肉へ直接かけず、横へ細く流した。
すべてへかけてしまえば、香ばしい卵の衣が柔らかくなってしまう。
料理の名は――。
『ハイガルーダ胸肉の香草チーズピカタ・赤実ソース』
「できました」
完成した皿が、厨房の長い卓へ並べられた。
人数分を作ったため、十皿以上ある。
「これは、お前が仕留めた肉だろう」
ガルドが言う。
「はい」
「俺たちが食っていいのか」
「食べていただくために作りました」
レスティナは当然のように答えた。
「温かいうちに食べてください」
料理人たちは互いの顔を見た。
最初に手を伸ばしたのは、ガルドだった。
ナイフで一口分を切り、赤実のソースを少しつける。
口へ運び、噛む。
「……柔らかい」
上位魔獣の胸肉とは思えない。
薄く均一に伸ばされた肉は、端まで同じように火が入っている。
卵の衣はふんわりとしているが、表面のチーズは香ばしい。
胸肉の淡泊な味を、卵とチーズの旨味が補っていた。
赤実の酸味は、獣酪とチーズの濃厚さを切ってくれる。
「この肉、ハイガルーダなんだよな?」
「言われなきゃ分からねえぞ」
「硬くない。臭みもない」
「赤いソースをつけると、また違うな」
料理人たちが次々に食べ始める。
朝から仕込みを続けていた疲れが、身体の内側から薄れていく。
重かった腕が軽くなる。
冷えから痛んでいた腰も、いつの間にか楽になっていた。
「なあ、何か入れたか?」
若い料理人が、自分の腕を動かしながら尋ねた。
「卵、チーズ、香草、小麦粉、塩です。ソースには赤実と果実酒と蜜と獣酪を使いました」
「そうじゃなくて……なんか、身体が軽いんだよ」
その言葉に、他の者たちも頷いた。
「確かに、いつもより調子がいいな」
「魔獣の肉だからじゃないか?」
「上位魔獣の肉には魔力が多いっていうしな」
レスティナは首を傾げた。
自分で作った料理を食べた者から、似たようなことを言われることがある。
マレシアも、レスティナのスープを食べたあと、身体が温まると言っていた。
「温かい料理を食べたからではないでしょうか」
「そうかもしれねえな」
料理人たちは深く考えなかった。
レスティナも、それ以上気にしない。
自分の料理を食べた者が元気になる。
それは、料理を作る者にとって嬉しいことだった。
「レスティナ」
ガルドが空になった皿を置いた。
「はい」
「肉を柔らかくする叩き方と、この卵の衣を、あとで詳しく教えろ」
「はい。では、ガルド料理長が作ってみますか?」
「俺が?」
「自分で作ったほうが覚えられます。師匠も、そう言っていました」
ガルドは黙り込んだ。
周囲の料理人たちが、にやにやしながら彼を見る。
「教えてもらったほうがいいんじゃないですか、料理長?」
「見たことのない調理法なんでしょう?」
「さっき、責任者は味を確認するものだと言っていましたよね」
「うるさい!」
ガルドは怒鳴り、もう一度レスティナを見る。
「……明日の仕込みが終わってからだ」
「分かりました」
「お前も、うちの出汁の取り方を覚えろ。森の小屋とは使える材料が違う。家禽だけでも、骨の焼き方と煮出す時間で何種類も作れる」
レスティナの目が輝いた。
「教えていただけるのですか?」
「教え合うんだろうが」
「はい!」
それから、料理人たちはレスティナへ料理を教えた。
澄んだ出汁の取り方。
濁らせた濃厚な出汁の取り方。
大量の肉を、すべて同じ焼き加減に仕上げる方法。
貴族の晩餐で使われる盛りつけ。
料理を冷まさず、離れた食堂まで運ぶ工夫。
レスティナも、自分が知る料理を教えた。
肉へ味を染み込ませてから揚げる方法。
卵を二度に分けて固める方法。
硬くなったパンを柔らかな菓子へ変える方法。
余った料理を、別の一皿へ作り替える方法。
二週間前。
レスティナを厨房から追い出そうとしていた料理人たちは、今では彼女が来るのを待つようになっていた。
「今日は何を作るんだ?」
「先に、昨日のスープの残りを見せてください」
「また残り物かよ」
「食べられるものを捨てるのは、もったいないです」
「そう言うと思って、取ってある」
厨房の隅には、レスティナ専用の小さな棚まで作られていた。
包丁。
調味料。
冒険者として各地で集めた乾燥香草。
町で見つけた珍しい種。
どれにも、他の者が勝手に使わないよう、レスティナの名前が書かれている。
ガルドがその棚を指差した。
「いちいち厨房を貸してくれと聞くな」
「よいのですか?」
「朝と夕方だけだ。晩餐の仕込み中は、俺の指示に従え」
「はい」
「それから、ここにいる間は、出されたものを食え。倒れられたら邪魔だからな」
「ありがとうございます」
レスティナは笑顔で頭を下げた。
家族の食卓には、彼女の席がない。
部屋へ食事が運ばれることもない。
それでも厨房には、レスティナの器が置かれるようになった。
彼女の包丁を置く棚ができた。
帰還から、わずか二週間。
侯爵邸でレスティナが最初に見つけた居場所は、家族のいる部屋ではなく、火と湯気と料理の匂いに満ちた厨房だった。
お読み頂き、ありがとうございます。




