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最強美食家令嬢は世界を味わい尽くす  作者: 涙目
第二章 ガルドの料理

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第十一話 貴族教育と残り物丼

この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。

 小屋を出発してから、三日目の夕方。


 馬車はファレル侯爵家の領都へ入った。


「わあ……」


 レスティナは窓へ顔を寄せた。


 石を敷き詰めた大通り。


 道の両側に並ぶ店。


 行き交う馬車と、荷物を抱えた人々。


 冒険者として訪れた町よりも遥かに大きく、人の数も多い。


 軒先に吊るされた腸詰め肉。


 籠いっぱいに積まれた赤や黄色の果実。


 鉄板の上で焼かれている薄切り肉。


 大鍋から立ち上る白い湯気。


 レスティナの視線は、自然と食べ物ばかりを追いかけた。


「あれは何でしょう?」


「どちらでございますか?」


「あの、平たいパンのようなものです。上に緑色のものを塗っています」


「あちらは、この地方で食べられている焼き菓子かと」


「甘いのですか?」


「いえ。香草と塩を練り込んだものだったと記憶しております」


「食べてみたいです」


 レスティナは窓の外を眺めながら、目を輝かせる。


 自分が生まれ育った領都だということよりも、見たことのない食べ物があることのほうが嬉しいらしい。


「侯爵邸へ戻られたあと、料理人へ作らせましょう」


「作り方を見せてもらうことはできますか?」


「それは料理長とご相談ください」


「はい」


 レスティナは素直に頷いた。


 執事は向かいの席から、その横顔を見つめていた。


 侯爵邸へ近づいているというのに、レスティナに緊張した様子はない。


 家族と再会することに期待しているわけでも、恐れているわけでもなかった。


 領都の食材と料理へ向けている関心を、侯爵邸には一切向けていない。


 やがて馬車は、大きな鉄門の前へ到着した。


 門番がファレル侯爵家の紋章を確認すると、重い門が左右へ開いていく。


 その先には、よく手入れされた庭園と白い石造りの屋敷があった。


 四年前までレスティナが暮らしていた場所だ。


「大きいですね」


「……覚えておられませんか?」


「少しだけ。けれど、森のほうが広いです」


 屋敷と森を比べる者は、そう多くない。


 馬車が玄関前で止まり、執事が先に降りた。


 続いて、レスティナへ手を差し出す。


「到着いたしました」


「ありがとうございます」


 レスティナは籠と背負い袋を持ち、馬車を降りた。


 大きな扉の前には、使用人たちが並んでいる。


 しかし、主家の娘を迎えるにしては、その数は少なかった。


 頭を下げている者。


 横目で様子を窺っている者。


 あからさまに顔を顰めている者。


 反応は様々だった。


「あれが……」


「生きていたのね」


「旦那様は、なぜ今さら……」


 小さな囁き声が聞こえてくる。


 魔力で強化されたレスティナの耳には、すべて届いていた。


 だが、特に反応はしなかった。


 自分が生きていることを不思議に思われる理由も、迎えを喜ばれない理由も、よく分からない。


 分からないことを考え続けても仕方がない。


 それよりも、厨房がどこにあるのかが気になった。


「レスティナ様。お荷物を」


 若い侍女が手を伸ばす。


「ありがとうございます。でも、こちらは自分で持ちます」


「いえ、そのような粗末な袋を、レスティナ様ご自身がお持ちになる必要は……」


「包丁が入っていますから、落とすと危ないです」


「包丁……?」


「はい。それと調味料です」


 侍女の手が止まった。


 令嬢が侯爵邸へ戻るための荷物に、包丁と調味料を詰めてくるとは思わなかったらしい。


 レスティナは背負い袋を抱え直した。


「それに、この籠には道中の残りがあります。あとで温め直して食べます」


 執事と同行した騎士たちは、その言葉を聞いて籠へ視線を向けた。


 中身がハイガルーダの唐揚げだと知っている。


 若い騎士などは、もう一つ食べたそうな顔をしていた。


「レスティナ様」


 執事が屋敷の中を示す。


「旦那様がお待ちです。お荷物は、ひとまず玄関ホールで預からせましょう」


「分かりました」


 包丁の扱いにだけ注意するよう侍女へ伝え、レスティナは執事のあとに続いた。


 広い玄関ホール。


 赤い絨毯。


 磨かれた大理石の床。


 壁には、歴代当主らしい者たちの肖像画が並んでいる。


 どれも覚えがなかった。


 廊下を進む途中、レスティナは何人もの使用人とすれ違った。


 そのたびに、相手は道を空ける。


 けれど、礼をする者は少ない。


 レスティナは気にせず、執事の背中を追いかけた。


 階段を上り、屋敷の奥へ。


 やがて執事は、一枚の重厚な扉の前で足を止めた。


「旦那様。レスティナ様をお連れいたしました」


「入れ」


 低い声が、扉の向こうから返ってくる。


 執事が扉を開けた。


 室内には、壁一面の本棚と、大きな執務机が置かれていた。


 机の向こうに、一人の男が座っている。


 レスティナは男の顔を見た。


 どこかで見た顔だと思った。


 馬車の中で父親の存在を思い出していなければ、誰なのか分からなかったかもしれない。


「レスティナ様。中へ」


「はい」


 部屋へ入る。


 執事が扉を閉めると、室内は静かになった。


 レスティナは机の前まで進み、父親を見つめた。


 四年ぶりに会う娘を前にしても、ファレル侯爵は立ち上がらない。


 喜びも、驚きも、安堵も見せなかった。


 書類から目を上げ、値踏みするようにレスティナを見る。


 森へ送ったときよりも背が伸びている。


 痩せ細ってもいない。


 粗末な服を着ているが、顔立ちは整っていた。


 成長すれば、亡き母親に似た美貌を持つだろう。


 侯爵の目がわずかに細くなる。


「ずいぶんと、みすぼらしい格好だな」


 それが、四年ぶりに会った父親の最初の言葉だった。


 レスティナは自分の服を見下ろした。


 何度か繕ってはいるが、動きやすく、狩りにも料理にも使える。


 洗濯もしている。


「汚れてはいません」


「そういう意味ではない」


「では、どういう意味でしょう?」


「もういい」


 侯爵は不快そうに視線を逸らした。


 以前のレスティナであれば、強い声を向けられただけで身体を震わせていた。


 今は違う。


 怒鳴られてもいないのに怯える理由が分からなかった。


 侯爵は机の上で指を組んだ。


「お前を呼び戻した理由を話す」


「はい」


「お前には、十三になったら学園へ行ってもらう」


「そうですか」


 レスティナは頷いた。


 しかし、学園が何をする場所なのか分からない。


 冒険者ギルドのように仕事を受ける場所だろうか。


 それとも、師匠が話していた料理人の修業場だろうか。


「学園とは何でしょう?」


 侯爵の眉間に深い皺が刻まれた。


「はあ……やはり下賤な娼婦の子は無知か」


 娼婦。


 誰のことを言っているのか、レスティナには分からなかった。


 だが、父親が説明を続けたため、尋ねる機会を失う。


「レグニシア魔法学園は、王国の貴族子女が魔法と教養を学ぶ場所だ。王国法により、王家の血統台帳へ登録された貴族の子は、十三歳になる年に本人確認を受け、学園へ入らなければならない」


「血統台帳?」


「貴族の血筋を王家が管理するためのものだ。お前も、私の実子として出生時に登録されている」


「そうなのですね」


「一度登録した実子を、当主の都合だけで除籍することはできん。正当な理由もなく入学させなければ、王家の役人が調査に来る」


 そこで侯爵は、忌々しそうに舌打ちした。


「癪に障るが、十三になったら貴族子女は学園に通わせなければならないと、王国の法で決まっているのだ」


 侯爵がレスティナを呼び戻した最大の理由だった。


 このまま森へ放置し、学園へも入れなければ、役人が事情を調べる。


 レスティナが森の小屋で一人暮らしをさせられていたと分かれば、侯爵家の評判に傷がつく。


 食事も教育も与えられず、家令たちから虐げられていたことまで明らかになれば、ただの醜聞では済まない。


 当主としての資質を疑われ、政敵に付け入る隙を与えることになる。


 だから、一年前から屋敷へ戻す。


 衣服を整え、最低限の教育を施し、以前から侯爵令嬢として大切に育てていたように見せかける。


 それが侯爵の考えだった。


 そして、理由はもう一つある。


 今年、学園へ入学した第二王子が、レスティナと同じ年齢だった。


 入学する時期も同じになる。


 王子には、すでに有力な婚約者候補がいる。


 妾の子であるレスティナが正式な婚約者に選ばれる可能性など、ほとんどない。


 それでも、同じ学園へ通えば接点は生まれる。


 もしも王子がレスティナの容姿を気に入り、側近や寵姫としてでも近くへ置けば、侯爵家は王家との繋がりを得られる。


 使い道がなければ森で死んでも構わなかった娘。


 だが、使える可能性があるなら、利用しない理由はない。


 侯爵はその思惑を表情に出さず、レスティナへ告げた。


「十三になるまでの一年間で、侯爵家の令嬢に相応しい教養を身につけろ」


「教養とは、何を学べばよいのでしょう?」


「礼儀作法、歴史、算術、地理、貴族家の家系、社交、舞踏、その他すべてだ。教師はこちらで用意する」


「料理はありますか?」


「……何?」


「学園では、料理も学べるのでしょうか」


 侯爵の顔に、呆れと苛立ちが浮かぶ。


「令嬢が料理などする必要はない」


「そうですか」


 レスティナは少しだけ残念そうに答えた。


 初めて見せた明確な感情がそれだったため、侯爵の眉がさらに吊り上がる。


「この一年は遊びではない。森で好き勝手に暮らしていたお前に、貴族としての常識を叩き込むための期間だ」


「狩りや冒険者の仕事へ行く時間はありますか?」


「あるわけがなかろう!」


 侯爵が机を叩いた。


 大きな音が室内へ響く。


 レスティナは音に驚いて瞬きをしたが、怯えはしなかった。


「そうですか。では、なるべく早く覚えます」


「なるべくではない。必ずだ」


「はい」


「くれぐれも侯爵家の名に傷をつけることは許さん」


「分かりました」


 返事だけは素直だった。


 侯爵は苛立ちを押さえるように息を吐く。


「話は以上だ。下がれ」


「はい」


 レスティナは頭を下げた。


 それから扉へ向かおうとして、ふと足を止める。


「お父様」


「何だ」


「先ほど、娼婦の子とおっしゃいましたが、それは誰のことでしょう?」


 侯爵の顔から、一瞬だけ表情が消えた。


「お前の母親だ」


「お母様……」


 レスティナはその言葉を繰り返した。


 母親について、誰かから聞いた記憶はない。


 顔も知らない。


 名前すら教えられていなかった。


「お母様は、どのような人だったのでしょう?」


「お前が知る必要はない」


 侯爵は即座に切り捨てた。


「二度と、その女について私に尋ねるな」


「そうですか」


 レスティナは、それ以上聞かなかった。


 教えたくない者から、無理に聞き出そうとは思わない。


「失礼します」


 レスティナが部屋を出る。


 廊下では、先ほどの執事が待っていた。


「お話はお済みになりましたか?」


「はい。一年間、勉強をすることになりました」


「左様でございますか。では、お部屋へご案内いたします」


 執事のあとに続き、二階の奥へ向かう。


 案内されたのは、家族の居室が集まる場所から離れた、小さな部屋だった。


 森の小屋に比べれば立派だが、侯爵令嬢の部屋としては明らかに狭い。


 窓。


 寝台。


 机。


 衣装棚。


 必要最低限の物しか置かれていない。


 玄関で預けた背負い袋と籠は、すでに机の横へ運ばれていた。


「本日はこちらでお休みください。明日から、教師による授業が始まります」


「分かりました」


「何か必要な物がございましたら、使用人へお申しつけください」


「厨房を見せてもらいたいです」


「厨房でございますか?」


「持ってきた唐揚げを温め直したいので」


 執事が何かを言いかけた。


 そのとき、廊下の向こうから別の使用人が彼を呼んだ。


 屋敷へ戻ったばかりの執事には、報告しなければならないことが残っているらしい。


「申し訳ございません。厨房については、のちほど侍女に案内させます」


「はい」


「それでは、失礼いたします」


 扉が閉まる。


 部屋に一人残されたレスティナは、窓の外を眺めた。


 日はすでに傾いている。


 夕食の時間も近い。


 それでも、レスティナの世話をする侍女は現れなかった。


 日が沈み。


 窓の外が暗くなり。


 屋敷のどこかから食器の触れ合う音が聞こえてきても、誰も食事を運んでこない。


「忘れているのかな?」


 レスティナは机の上の籠を開けた。


 中に残っていたのは、三日前に作った唐揚げと握り飯。


 保存のために氷魔法で冷やしていたが、冷たいままでは味が落ちる。


 レスティナは唐揚げを一つ摘まみ、じっと見つめた。


「厨房は、どこだろう」


 食事が出ないのなら、自分で作ればいい。


 レスティナは包丁と調味料を背負い袋へ戻し、籠を持って部屋を出た。


◇


 部屋を出たレスティナは、廊下を歩いた。


 厨房の場所は知らない。


 案内すると言っていた侍女も、結局来なかった。


 けれど、探す方法はある。


「いい匂い」


 レスティナは鼻を動かした。


 空気の中に、焼いた肉と香草の匂いが残っている。


 夕食の時間は過ぎているため、香りはもう薄い。それでも、森で獲物を追い続けてきたレスティナには十分だった。


 匂いを辿って階段を下りる。


 途中ですれ違った使用人は、籠を抱えたレスティナを不審そうに見たが、誰も声をかけなかった。


 家族用の食堂を通り過ぎ、使用人たちの食堂も越える。


 さらに屋敷の裏手へ進んだところで、食器の触れ合う音が聞こえた。


「ここかな?」


 大きな扉を開ける。


 そこには、森の小屋とは比べものにならないほど広い厨房があった。


 壁際には大小様々な鍋。


 天井から吊るされた鉄のフライパン。


 肉を焼くための大きな竈。


 一度に何十人分もの煮込みを作れそうな鍋。


 作業台の上には、使い終わった食器が積まれている。


 レスティナの目が輝いた。


「すごい……」


 これだけの設備があれば、大きな魔獣も調理できる。


 ハイガルーダの胴体を持ってくれば、骨を割って出汁を取ることもできそうだった。


「誰だ?」


 低い声をかけられ、レスティナは顔を上げた。


 厨房には、まだ数人の料理人が残っていた。


 洗い物をしていた下働き。


 竈の火を落としていた若い料理人。


 作業台の奥には、太い腕を組んだ大柄な男が立っている。


 白い調理服を着ており、汚れ一つない。


 男はレスティナの顔を見て、すぐに眉を顰めた。


「ここは使用人以外が来る場所じゃない。嬢ちゃん、迷ったのか?」


「厨房を探していました」


「何の用だ」


「夕食を温めたいです」


 レスティナは籠を持ち上げた。


 蓋を開けると、中には冷えた唐揚げと握り飯が入っている。


「部屋で食べろ」


「冷たいです」


「火なら、部屋付きの侍女に頼め」


「侍女の方は来ませんでした」


 男の表情が、わずかに変わった。


「お前、どこの部屋にいる?」


「二階の一番奥です。今日、森から戻ってきました」


 その言葉で、厨房にいた者たちの手が止まった。


 小さな囁き声が交わされる。


「あれが……」


「妾の子か」


「森で死んだんじゃなかったのか?」


 レスティナは声のしたほうを見た。


「生きています」


「あ、ああ……見れば分かる」


 若い料理人が気まずそうに目を逸らす。


 大柄な男は、レスティナが持っている籠を見下ろした。


「お前の食事については、何も聞いていない」


「そうですか」


「今日の厨房はもう終わりだ。竈の火も落とす。戻れ」


「分かりました」


 使えないのであれば仕方がない。


 レスティナは抵抗せず、厨房を出た。


 部屋へ戻ると、冷たい唐揚げをそのまま食べる。


 衣は油を吸い、揚げたての軽さを失っている。


 握り飯も、米粒が硬くなり始めていた。


「温めれば、もっと美味しいのに」


 少し残念だった。


 それでも食べ物を捨てるという考えはない。


 一つずつ、よく噛んで食べる。


「ごちそうさまでした」


 最後の一粒まで食べ終え、レスティナは眠りについた。


◇


 翌朝。


 空が明るくなる前に目覚めたレスティナは、寝台から起き上がった。


 顔を洗い、身体をほぐす。


 森にいた頃は、このあと小屋の周囲を走り、魔法と槍の訓練をしていた。


 いつもなら、それを終えた頃に朝食を作る。


 だが、侯爵邸には食事を作る場所がない。


「朝ご飯は、あとかな」


 着替えを済ませて待っていると、扉が叩かれた。


「レスティナ様。本日より礼儀作法の授業を始めます」


 入ってきたのは、細身の中年女性だった。


 後ろには数着の衣服を持った侍女がいる。


 最初に風呂へ入れられ、髪を整えられた。


 森で着ていた服は取り上げられ、代わりに窮屈なドレスを着せられる。


 腰を締める布。


 動きにくい長い裾。


 足に合わない硬い靴。


 レスティナは腕を動かし、首を傾げた。


「これでは戦いにくいです」


「侯爵令嬢が戦う必要などございません」


「魔獣が来たらどうするのですか?」


「屋敷に魔獣など来ません」


「そうですか」


 ならば、ひとまず問題はないらしい。


 朝食が運ばれないまま、授業が始まった。


 立ち方。


 歩き方。


 座り方。


 礼の角度。


 扉を開ける際の手順。


 相手の身分に応じた挨拶。


 レスティナは言われたとおりに身体を動かしていく。


「背筋を伸ばして」


「はい」


「顎を引く」


「はい」


「歩幅が広すぎます」


「では、このくらいでしょうか」


「もう少し狭く」


「はい」


 一度目は失敗する。


 二度目は原因を確かめる。


 三度目には修正する。


 それは狩りでも、魔法でも、料理でも変わらない。


 教師は、数時間もすれば眉間の皺を薄くしていた。


「……森で暮らしていたと聞きましたが、物覚えは悪くないようですね」


「師匠にも、覚えるのが早いと言われました」


「師匠?」


「料理と狩りと魔法を教えてくれた方です」


「令嬢に、そのようなものは必要ありません」


「料理は必要です。食べなければ死んでしまいます」


 教師は一瞬、言葉を失った。


「侯爵家では、料理人が作ります」


「ですが、朝ご飯はありませんでした」


「……侍女に確認しておきます」


 昼になっても、食事は出なかった。


 教師が入れ替わり、今度は文字と算術の確認が始まる。


 レスティナは読み書きができた。


 マレシアが、冒険者として依頼書や魔獣の資料を読むために教えていたからだ。


 計算も、買い物と素材の売却で使っている。


「銅貨が一枚で赤実を三つ買えるとします。銅貨四枚では、いくつ買えますか?」


「十二個です」


「では、そのうち四個を食べた場合、残りは?」


「八個です」


「正解です」


「ですが、同じ店で十二個も買えば、少し安くしてもらえるかもしれません」


「今は値引きを考える問題ではありません」


「そうなのですね」


 レスティナは答えを書き直さなかった。


 夕方近くまで授業が続いた。


 歴史の教師が部屋から出ていったところで、レスティナの腹が鳴った。


「お腹が空きました」


 昨日の夜から、何も食べていない。


 一日程度で動けなくなることはない。


 森にいた頃には、獲物が見つからず数日まともに食べられなかったこともある。


 だが、食べられる場所にいるのに我慢する理由はなかった。


 レスティナは昨日の籠を持ち上げる。


 中にはもう何も残っていない。


「食事がないなら、作ればいいよね」


 背負い袋から包丁と調味料を取り出し、厨房へ向かった。


◇


 厨房では、夕食の準備が進められていた。


 大鍋ではスープが煮込まれ、串へ刺された肉が竈の前で回っている。


 料理人たちが慌ただしく動き回る中、レスティナは昨日の大柄な男を見つけた。


「すみません」


「またお前か」


「厨房を貸してください」


 男は包丁を動かしていた手を止めた。


「昨日も言ったはずだ。ここは遊び場じゃない」


「遊びません。食事を作ります」


「お前のような子供が料理を?」


「はい」


「貴族の令嬢が、厨房へ入るものではない」


「ですが、食事が出ません」


 男が黙った。


 近くで野菜を刻んでいた料理人たちが、視線を逸らす。


「それは俺たちの仕事じゃない。上から注文が来なければ作らん」


「はい。ですから、自分で作ります」


「食材を勝手に使わせるわけにはいかない」


「お金は払います」


 レスティナは腰の小袋を外した。


 冒険者として稼いだ硬貨が入っている。


 子供の小遣いにしては多い。


 男は小袋とレスティナを見比べた。


「何を使うつもりだ」


「お米と卵。それから、甘みのある鱗茎が欲しいです。出汁も少しいただけると助かります」


「それで何を作る」


「まだ決めていません。食材を見てから考えます」


「決めてないだと?」


「同じ食材でも、鮮度や状態で向いている料理が変わりますから」


 男の眉が、わずかに動いた。


 料理をまったく知らない者の言葉ではない。


「……忙しい。奥の小さい竈なら使っていい。ただし、俺たちの邪魔をするな」


「ありがとうございます」


「食材は勝手に持っていくな。使った分は記録する」


「はい」


 レスティナは頭を下げ、食材置き場へ向かった。


 最初に米を確認する。


 大きな麻袋へ入った米は、小屋で使っていたものより粒が揃っている。


 欠けたものが少なく、匂いも悪くない。


 卵は朝に集めたものが籠へ並べられていた。


 殻を光へ透かしても、内部に不自然な影はない。


 鱗茎は、外皮が乾いて締まっている。持ってみると重く、水分も十分に残っていた。


「これを使います」


 レスティナは必要な分だけ計り、料理人へ確認を取った。


 次に、出汁の鍋を覗く。


 家禽の骨と香味野菜を煮出した、透明な出汁だった。


 強く沸騰させていないため濁りがなく、臭みもない。


「綺麗な出汁ですね」


「当たり前だ」


 男が少しだけ胸を張った。


「こちらも使ってよいですか?」


「小鍋一杯までだ」


「十分です」


 レスティナは米を研ぎ始めた。


 最初の水は素早く捨てる。


 水を替え、手のひらの付け根で軽く押すように研ぐ。


 若い料理人が、その様子を横目で見ていた。


「そんなに水を替えるのか?」


「最初の水は、米がよく吸います。濁ったままにすると、糠の匂いまで吸ってしまいますから」


「強く擦ったほうが、汚れが落ちるだろ」


「強く擦ると粒が欠けます。欠けたところから澱粉が出すぎると、炊いたときに粘りが強くなります」


「……へえ」


 研ぎ終えた米へ水を加え、吸水させる。


 その間に、鱗茎の外皮を剥いた。


 縦半分に切り、根元だけを僅かに残す。


 繊維に沿って薄く切れば形が残り、煮ても崩れにくい。反対に、繊維を断てば火は通りやすいが、柔らかくなりすぎる。


 今回は食感を残したいため、繊維に沿って切った。


「肉は使わないのか?」


「あります」


 レスティナは背負い袋へ手を入れた。


 中から取り出したのは、氷魔法で冷やしておいたハイガルーダの唐揚げだった。


 昨日食べ切ったのは、道中用として籠へ入れていた分だけだ。


 背負い袋には、侯爵家で食事が出なかった場合に備えて、別に保存していた。


「それは何の肉だ?」


「ハイガルーダです」


「は?」


 厨房が一瞬だけ静かになった。


「ハイガルーダ?」


「はい。昨日、森で捕まえました」


「捕まえたって……誰が倒した?」


「私です」


 数人の料理人が手を止め、レスティナを見る。


 大柄な男だけは、すぐに鼻を鳴らした。


「子供の冗談に付き合っている暇はない。さっさと作れ」


「はい」


 レスティナは反論しなかった。


 信じるかどうかは、料理の出来には関係ない。


 唐揚げを半分に切る。


 断面を確かめると、肉汁は冷えて固まり、衣もしんなりしている。


 もう一度油で揚げれば衣は多少戻るが、肉へ火が入りすぎて硬くなる。


 ならば、衣を元の状態へ戻そうとするのではなく、別の美味しさへ変えればいい。


 レスティナは小鍋へ家禽の出汁を注いだ。


 そこへ豆醤、果実酒、蜜を加える。


 豆醤は塩気と深み。


 果実酒は肉の香りを引き出す。


 蜜は甘みをつけるだけでなく、全体の味を丸くする。


 指先へ一滴取って舐める。


「少し濃いかな」


 このあと卵を入れる。


 そのまま飲むには濃くても、ご飯と卵を合わせればちょうどよくなるはずだ。


 出汁へ切った鱗茎を広げ、中火へかける。


 強火で急激に煮ると、外側だけが崩れ、中心に辛みが残る。


 小さな泡が鍋の縁から上がる火加減で、じっくり熱を通す。


 鱗茎が透き通り始めたところで、唐揚げを並べた。


 衣をすべて出汁へ沈めてはいけない。


 下半分に出汁を吸わせ、上側には僅かに乾いた部分を残す。


 それによって一つの唐揚げの中へ、柔らかく味の染みた部分と、衣の食感が残った部分を作る。


「揚げた肉を、煮るのか?」


「はい」


「せっかくの衣が柔らかくなるぞ」


「冷めた時点で柔らかくなっています。なら、出汁を吸わせたほうが美味しいです」


 大柄な男が鍋を覗き込んだ。


 レスティナは卵を三つ用意する。


 一つずつ別の器へ割り、傷んでいないことを確認してから、大きな器へ移した。


 殻が入っていないかを確かめる。


 白身と黄身は、完全には混ぜない。


 箸で白身を切るように数回動かし、黄身を粗く崩す程度で止める。


「もっと混ぜないのか?」


「混ぜすぎると、黄身も白身も同時に固まります。分けて残したほうが、食べる場所で味と食感が変わります」


 煮汁を吸った唐揚げの周囲へ、溶き卵の三分の二を回しかける。


 火が通りにくい白身を中心に、鍋の外側から内側へ。


 蓋をして、十数える。


「一、二、三……」


 蓋を開ける。


 白身の縁は固まり、中心はまだ半透明だった。


 残しておいた卵を上から加える。


 二度目は黄身の多い部分を中心へ。


 すぐに火を止め、再び蓋をした。


 余熱だけで、表面の卵へゆっくり火を入れる。


 その間に、炊き上がった米を蒸らす。


 蓋を開けると、真っ白な湯気が立ち上った。


 しゃもじを鍋肌へ沿わせ、底から大きく返す。


 混ぜるのではなく、米粒の間へ空気を含ませる。


 深い器へ米を盛る。


 その上へ、唐揚げと鱗茎を崩さないように滑らせた。


 鍋底に残った煮汁と、半熟の卵も余さずかける。


 仕上げに、刻んだ緑の香草を散らした。


 白い米。


 出汁を吸った茶色い唐揚げ。


 白と黄色が混ざった柔らかな卵。


 鮮やかな緑の香草。


 温かな湯気が立ち上り、豆醤と出汁の甘辛い香りが厨房へ広がった。


「できました」


 料理の名は――。


『ハイガルーダ唐揚げの香草卵とじ丼』


 料理人たちの視線が、一斉に器へ集まっていた。


 レスティナは気にせず、匙を手に取る。


 唐揚げと卵、ご飯を一緒に掬った。


 息を吹きかけ、口へ運ぶ。


「ん~」


 出汁を吸った衣が、とろりと柔らかい。


 その奥には、ハイガルーダの肉らしい弾力が残っている。


 鱗茎の甘み。


 豆醤の塩気。


 半熟の黄身が全体を包み、味をまろやかにしていた。


 卵と煮汁を吸ったご飯も、一粒一粒に旨味が絡んでいる。


「美味しい」


 レスティナはもう一匙食べた。


「待て」


 大柄な男が声をかける。


「はい?」


「味見もせず、一人で食うつもりか」


「私の夕食ですから」


「ここを使わせたのは俺だ」


「食材のお金は払います」


「そういう意味じゃない」


 男は小皿を作業台へ置いた。


「料理人が、見たこともない料理を味見するのは当然だ」


「そうなのですね」


 レスティナは納得すると、唐揚げを一つ小皿へ取り分けた。


 卵と煮汁の染みた米も添える。


「どうぞ」


 男は匙を持ち、全てを一緒に口へ入れた。


「……」


 ゆっくりと噛む。


 冷えた揚げ物を煮るなど、衣を台無しにするだけだと思っていた。


 だが、その衣が出汁を抱え込んでいる。


 噛んだ瞬間、衣から溢れた煮汁が肉の旨味と混ざり合う。


 完全に混ぜなかった卵も、白身の柔らかい弾力と、黄身の濃厚さが別々に残っていた。


「どうでしょう?」


「……出汁が少し甘い」


「ご飯と一緒に食べるため、濃くしました」


「鱗茎は、もう少し厚くてもいい。煮たときの食感が残る」


「なるほど。次は厚くしてみます」


 悪くないとも、美味いとも言わない。


 それでも男は、もう一口食べた。


 そして、小皿が空になるまで匙を置かなかった。


「料理長。俺たちも味見を……」


「仕事へ戻れ!」


「料理長も食べたじゃないですか!」


「俺は責任者として味を確認しただけだ!」


 厨房に笑いが起きる。


 先ほどまでレスティナを遠巻きに見ていた者たちが、器へ近づいてきた。


「一口だけでいいから、俺にもくれ」


「卵を二回に分けた理由を、もう一度教えてくれないか?」


「その豆醤という調味料は、どこで買ったんだ?」


 次々と質問され、レスティナは目を瞬かせる。


 それから、嬉しそうに笑った。


「はい。順番に説明します」


 料理長は空になった小皿を置き、レスティナを見る。


「厨房を使うなら、決まりは守れ」


「はい」


「使った道具は洗う。食材は記録する。勝手に火加減を変えるな。他の料理人の邪魔をするな」


「分かりました」


「それから――」


 料理長は、わずかに視線を逸らした。


「明日の朝も食事が来なかったら、裏口から入れ。朝の仕込みは日の出前から始まる」


「厨房を貸していただけるのですか?」


「空いている竈だけだ」


「ありがとうございます」


 レスティナは深く頭を下げた。


 侯爵邸へ戻って二日目。


 家族より先に。


 レスティナは料理を通じて、厨房に自分の居場所を作り始めていた。

お読み頂き、ありがとうございます。

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