第十話 忘れていた人達と味変
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
「はーい。今、開けます」
レスティナが扉を開けると、そこには執事服を着た男が立っていた。
年齢は五十を少し過ぎたくらいだろうか。
白いものが混じり始めた髪を後ろへ撫でつけ、森の中だというのに、黒い上着には皺一つない。
その後ろには二頭立ての馬車と、護衛らしい騎士が四人待機している。
レスティナは男の顔を見上げた。
「えっと……」
どこかで見たことがある気がする。
しかし、誰だったかまでは思い出せない。
森で出会った冒険者だろうか。
冒険者ギルドの職員に、こんな服装の者はいなかったはずだ。
町の食材店の店主でもない。
レスティナが記憶を探っていると、男は胸へ片手を添え、深々と頭を下げた。
「お久しゅうございます、レスティナ様」
「はい。お久しぶりです」
誰かは分からない。
それでも相手がそう言うのだから、以前に会ったことはあるのだろう。
レスティナも同じように頭を下げた。
「このたびは、レスティナ様をお迎えにあがりました」
「迎え……ですか?」
レスティナは首を傾げた。
男は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷く。
「はい。旦那様がお呼びです」
「旦那様?」
レスティナはますます分からなくなった。
この男の主人が、自分を呼んでいるらしい。
だが、そのような人物に心当たりはない。
マレシアの知り合いだろうか。
それとも、冒険者として受けた依頼の関係者か。
「どちらの旦那様ですか?」
男の後ろで、護衛の騎士がわずかに顔を動かした。
執事は表情を変えなかった。
「ファレル侯爵閣下でございます」
「ファレル侯爵……」
レスティナはその名前を口の中で繰り返した。
ファレル。
それは自分の家名だったはずだ。
侯爵。
侯爵家の当主。
そこまで考え、ようやく一人の人物へ行き着く。
「……あ、お父様?」
「はい」
レスティナは本当に、心の底から父親の存在を忘れていた。
最後にまともに顔を合わせたのは、四年前。
森の小屋へ移されることを告げられたときだった。
もっとも、そのときも父親はレスティナをほとんど見ていなかった。
家令へ命令を伝え、レスティナが何か言うより先に部屋から出ていった。
それ以前も、食卓をともにした記憶はない。
声をかけられた回数も、両手の指で足りる。
レスティナの中で父親は、森で一度だけすれ違った旅人よりも薄い存在になっていた。
「まだ、いらっしゃったのですね」
「……ご健在でございます」
「そうでしたか」
レスティナは素直に頷いた。
執事の眉が、ほんのわずかに動く。
「それで、お父様が私に何のご用でしょう?」
「私からは、侯爵邸へお連れするようにとだけ申しつかっております。詳しいお話は、旦那様から直接なされるかと」
「今からですか?」
「はい」
レスティナは小屋の中を振り返った。
卓上には、揚げたての唐揚げが山のように積まれている。
炊きたてのご飯も残っていた。
地下の食料庫には、処理の途中だったハイガルーダがある。
「少し困ります」
「何か、ご都合が?」
「唐揚げが冷めてしまいます」
「……唐揚げ、でございますか」
「はい。今、食べ始めたところなんです」
レスティナは扉をさらに開き、室内を指差した。
食欲を刺激する香りが、開いた扉から外へ流れ出す。
護衛の騎士の一人が、思わず喉を鳴らした。
執事は小屋の中を見た。
広くはない。
粗末な寝台。
何度も修繕された椅子。
壁際には、使い込まれた調理器具と冒険者の装備。
四年前にはなかった物ばかりだった。
小屋へ送られた当時、レスティナに与えられたのは、古い毛布と最低限の食器だけだったはずだ。
「レスティナ様。これらは、すべてご自身で?」
「師匠に作り方を教えてもらいました。師匠が旅立ってからは、一人で増やしました」
「師匠……」
「マレシア師匠です。料理と、狩りと、魔法を教えてくれました」
執事はその名に心当たりがないらしい。
しばらく黙ったあと、扉の横に置かれた巨大な鉤爪へ視線を向けた。
レスティナがまだ地下へ運んでいなかった、ハイガルーダの鉤爪である。
「そちらは……?」
「今日の晩ご飯です」
「晩ご飯」
「はい。ハイガルーダです」
今度こそ、執事の表情が固まった。
後ろにいた騎士たちも鉤爪を見る。
一人が馬車から離れ、小屋の裏側を確かめに行った。
すぐに青ざめた顔で戻ってくる。
「確かに……ハイガルーダの羽根と、解体した跡があります」
「どなたが討伐を?」
執事の問いに、レスティナは不思議そうな顔をした。
「私です。一人で食べるのですから、自分で獲らないと」
「お一人で……」
「はい」
「ハイガルーダを?」
「はい。空を飛んでいたので、少し捕まえるのが大変でした」
捕まえるのが少し大変だった。
上位魔獣の討伐を、近所の木へ登ったかのような口調で話している。
騎士たちは互いの顔を見た。
そのうちの一人が、腰に提げた剣へ手を添えながら尋ねる。
「どのように倒されたのですか?」
「下りてきたところを殴りました」
「殴った……」
「頭だけを狙いました。身体を傷つけると、食べられるところが減ってしまいますから」
レスティナの腕は細い。
どう見ても、巨大な魔獣を殴り殺せる腕には見えなかった。
騎士は何かを言おうとしたが、適切な言葉を見つけられず、口を閉じた。
執事はレスティナを見つめる。
四年前。
この森へ連れてきたときのレスティナは、ひどく痩せていた。
腕には家令たちから受けた仕打ちの跡があり、少し歩いただけで呼吸を乱していた。
食料さえ満足に与えられないまま、魔獣の住む森へ置き去りにされた。
生きているはずがない。
誰もが、そう考えていた。
だが、今のレスティナは違う。
身体は年齢相応に小さいものの、頬には健康的な丸みがある。
傷んでいた髪には艶が戻り、その瞳は四年前よりもずっと明るい。
何より、周囲に漂う魔力が尋常ではなかった。
息をしているだけで、空気が小さく震えている。
レスティナ自身は、それに気づいていないようだった。
「出発まで、どの程度お時間をいただけますか?」
レスティナが尋ねた。
「本来であれば、すぐにでもお連れするよう命じられております」
「そうですか……」
レスティナは少し考える。
「では、食事が終わるまで待ってください。そのあと、ハイガルーダを冷やして、持っていく物をまとめます」
「持っていく物、でございますか」
「包丁と鍋と調味料です。侯爵家には厨房がありますか?」
「もちろんございます」
「でしたら、全部持っていかなくても大丈夫ですね」
侯爵家へ戻ること自体には、抵抗がないらしい。
嫌がりもしなければ、喜びもしない。
ただ、今日の食事と保存中の食材をどうするか。それだけを真剣に考えている。
「レスティナ様」
「はい?」
「侯爵邸へ戻ることに、何かお尋ねになりたいことはございませんか」
「戻れば分かるのですよね?」
「……左様でございます」
「でしたら、今聞かなくても大丈夫です」
レスティナはあっさりと答えた。
家族が自分を必要とするとは思っていない。
会いたいとも思っていない。
呼ばれたから戻る。
用件を聞く。
それだけだ。
「それより、皆さんも食べますか?」
「は?」
「唐揚げです。たくさん作りましたから」
「我々は、レスティナ様をお迎えに参ったのであって……」
グゥゥゥ。
重々しい返答を遮るように、誰かの腹が鳴った。
騎士たちが一斉に、最も若い一人を見る。
若い騎士は耳まで赤くしながら俯いた。
レスティナは笑うでもなく、当然のように扉を大きく開けた。
「食事中に来た方を、何も出さずに立たせておくのはよくないと、師匠が言っていました」
「ですが……」
「冷めると衣が柔らかくなります。早く食べたほうが美味しいですよ」
レスティナにとっては、侯爵の命令よりも重大な問題だった。
執事は逡巡したあと、小さく息を吐いた。
「では、ご厚意に甘え、一つだけいただきましょう」
「一つで足りますか?」
「仕事中でございますので」
「分かりました。おかわりが欲しくなったら言ってください」
執事と騎士たちは、小屋の外に置かれた丸太へ腰かけた。
レスティナは皿へ唐揚げを盛り、七味マヨと切った黄色い果実を添えて運んでくる。
「『ハイガルーダの二度揚げ唐揚げ』です。最初は何もつけずに食べてください」
執事は皿の上を見つめた。
一つだけと言ったはずなのに、唐揚げは三つ盛られている。
「これは、一つでは?」
「一つだと味を変えられません。一つ目はそのまま、二つ目は果汁、三つ目は七味マヨです」
「なるほど……」
理屈になっているようで、なっていない。
執事は諦め、まだ温かい唐揚げを口へ運んだ。
カリッ。
衣が砕ける。
直後、閉じ込められていた肉汁が口の中へ溢れ出した。
「……これは」
ハイガルーダの肉には、独特の臭みがある。
筋肉が発達しているため硬く、血抜きが不十分なら酸味も残る。
高級食材ではなく、討伐しても食用には向かないとされる魔獣だ。
しかし、この唐揚げには臭みがない。
香味野菜と香草が肉の匂いを和らげながら、豆醤の深い味が肉そのものの旨味を引き出している。
表面は軽く、中は柔らかい。
一度噛めば肉汁が溢れ、二度噛めば皮の脂が舌の上で溶ける。
長時間馬車に揺られていた疲れまで、身体の内側から薄れていくようだった。
「いかがですか?」
「……大変、美味しゅうございます」
「よかったです」
レスティナが嬉しそうに笑う。
その顔を見た執事は、懐かしい何かを思い出すように目を細めた。
だが、それを口にすることはなかった。
「果汁をかけると、さっぱりしますよ」
「では、二つ目を」
結局、執事も騎士たちも、三つすべてを食べた。
若い騎士だけは、さらに二つおかわりした。
食事を終えると、レスティナは残った唐揚げを布へ包んだ。
米は握って丸く固め、塩を薄く振る。
道中でも食べられるように、唐揚げと一緒に籠へ詰めた。
その後、地下室へ入り、残ったハイガルーダの周囲へ両手を向ける。
「凍れ」
淡い青色の光が広がる。
空気中の水分が白い霧へ変わり、巨大な肉を包み込んだ。
表面だけを凍らせるのではない。
肉の内部まで冷気を浸透させ、中心の温度を下げていく。
凍らせすぎれば細胞が壊れ、解凍したときに旨味を含んだ水分が流れ出してしまう。
完全に凍結する直前。
包丁が辛うじて通る程度の硬さで、冷気を止めた。
「これで何日かは大丈夫」
地下室の扉へ鍵をかける。
必要な調理道具と着替えを背負い袋へ詰め、最後に小屋の中を見回した。
寝台。
囲炉裏。
食卓。
師匠と暮らした、三年間の記憶。
ここは家族から捨てられた場所だった。
けれど、今のレスティナにとっては、初めて温かい食事を知った大切な家になっている。
「少し行ってきます」
小屋へそう告げ、扉を閉めた。
鍵をかけ、背負い袋を持って馬車へ向かう。
執事が扉を開け、レスティナへ手を差し出した。
「どうぞ、レスティナ様」
「ありがとうございます」
手を借りて馬車へ乗り込む。
膝の上には、唐揚げと握り飯を詰めた籠。
足元には調味料と包丁の入った背負い袋。
貴族令嬢の荷物には見えないものばかりだった。
執事が向かいの席へ座り、扉を閉める。
「出発いたします」
「はい」
馬車がゆっくりと動き始めた。
窓の外で、小屋が少しずつ遠ざかっていく。
レスティナは悲しそうな顔をしなかった。
侯爵家での用事が終われば、また戻ってくればいいと思っている。
これが一時的な外出ではなく、自分の人生を大きく変える帰還になることを、まだ知らなかった。
お読み頂き、ありがとうございます。




