第9話 朝食の前の朝ご飯
◇◇◇
温かい。まるで春の木漏れ日に包まれているようだ。
娼館の薄い毛布ではあまり寒さを凌げないから、草木の芽吹く季節の朝が一番好きだ。もう少しその温もりを堪能していたくて、よく寝坊しては姐さんたちに叱られていた。
そんなことを思い出しながら、リズリアはゆっくりと瞼を開いた。ゆらゆらと思考が揺り戻ってくる中、はたして今は春だっただろうかと思い至る。
(あれ……? 姐さんたちが『冬支度を始めなきゃ』って言ってた気が……)
瞼は完全に開いたものの、なぜか視界が真っ白だ。いつもの娼館のひび割れた天井や壁ではない何かが、リズリアの視界を埋めている。
(ん? あれ?)
身動きが取れない。何なんだと身を捩ると、頭上から唸るような声が降ってきた。反射的に顔を上げると、静かに寝息を立てている褐色肌の少年の寝顔がそこにある。
「あ……」
リズリアはようやく自分の状況を理解した。
(そうだ。王宮に連れてこられて、王子さまと一緒に寝たんだっけ……)
温もりの正体はリズリアをがっちりと抱える王子の腕であり、視界を覆っていた白いものは絹の寝間着を纏う胸板だった。
昨夜「寝ろ」と言われたあと、そのまま眠ったのだった。王子はいつの間にかリズリアを抱き枕代わりにしていたようだ。
(王子さま……寒かったのかな……?)
顔を近づけてみると、髪と同じ金糸の睫毛は長く、鼻筋も通っている。今までの客と違い、若々しくきめ細かい肌だ。
「……ん…」
王子の瞼が僅かに震えた。そしてゆっくりと持ち上がり、ぼんやりとしたオリーブの瞳が現れる。
数秒間の沈黙。
焦点が合い始めた王子の目が、己の腕の中にすっぽりと収まるリズリアの姿を認識した。
「──っ!?」
ばちっと視線がぶつかる。
刹那。王子の体が石像のように固まったかと思うと、次の瞬間にはバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。そのまま勢いあまってベッドから転がり落ちそうになるのを辛うじて耐え、シーツを掴みながら後ずさる。
なかなか面白い動きだった。
「なっ、お前っ……なぜっ……!? い、いつの間に俺の腕に……!?」
「起きたらこうなっていたので、王子さまが寒くて私を抱っこしたんだと……」
「そんなわけあるか!」
昨夜あれほど口づけしたというのに、抱擁くらいで何を慌てているのか。
──いや、唇だけが触れ合う口づけと、全身が触れ合う抱擁ではまた違うのかもしれない。唇だけではなかったが、そこは置いておくことにする。
そんなことを考えていると、昨夜と同じところに視線が吸い寄せられた。わずかに下がった視線の動きを今度は敏感に察知したルーファウス王子が、サッと毛布を引き寄せて下半身を覆う。
「こ、これは……その、男の朝の生理現象であってだな……。決して、お前が腕の中にいたからではなく……」
「あ、はい。知ってます」
王子はまたもや褐色の頬を染め上げて視線を逸らしている。その様子に「男性でも初心なことがあるんだなぁ」などと呑気に考えていると──。
くぅ~……きゅるるるる……。
切なげな音が広い寝室に響き渡った。
今度はリズリアの頬がみるみるうちに赤く染まり、王子の視線がリズリアの腹部へと移動する。
「……ノクちゃんがお腹すいたみたいです」
「いや、今のは明らかにお前の腹の音だろう。というか、霊獣ノクスレアをそんな呼び方してるのか」
「どうせ共存しなければいけないなら、愛嬌があった方がいいかなって」
「適応力高過ぎだろ、お前」
裸を見られることにも触れられることにも、もはや羞恥心を感じることなど忘れてしまったが、なぜか腹の音を聞かれることは恥ずかしい。
リズリアがもじもじしていると、王子はため息をつきながら頭を掻いた。
「すぐに朝食を用意させる。それと、一応お前の肩書は傍女だからな。今は侍従が俺の着替えの介助を行なっているが、今後はお前の仕事になる。見て覚えろ」
「そういえばそうでした」
昨日軽く説明されたところによると、傍女とは侍女の役職の一つで、常に主人に付き従い、身の回りの世話をする役回りらしい。着替えの手伝いや、毒見を含む食事の給仕、入浴の介助や寝具の管理など、仕事は多岐に渡る。
閨については公的な仕事ではないが、傍女とは主の所有物であるので求められれば拒否権などないと、笑みが恐ろしい初老の侍女が言っていた。
そこについては今までと変わらないし、むしろリズリアはそのために王宮に連れてこられたのだ。だから別に閨は構わないのだが、それ以外の覚えることが多い。
少々不安に思っていると、リズリアの視界に影が落ちた。
顔を上げると、いつの間に接近していたのか、オリーブの瞳がリズリアを見下ろしていた。そのまま頬に手が伸びてきて、親指が唇をなぞる。
「霊獣の腹が多少満ちている方が、お前も己の食事で満たされることができるんだろう?」
「まぁ……そう、ですね」
昨夜の話を王子は覚えていたのだろう。中にいる霊獣の腹具合で満腹を得られないリズリアのために、先に魔力を喰わせようとしてくれているようだ。
それに気づいた途端、リズリアの心臓が小さく脈打つ。
ためらいがちに指先が触れ合い、昨夜と同じようにそれを絡ませながら唇が寄せられる。
「朝飯だ。喰え」
それはリズリアではなく、霊獣ノクスレアに向けた言葉だったのだろう。迷いなく唇が重ねられた。それは昨夜のような遠慮などない、初めから深く、溶け合うような口づけ。
「ん……っ」
しかしやはり鮮烈なのは魔力の奔流だった。
王子から流れ込んでくる濃密な魔力は、まるで果実のように甘く、豊潤で、身体の隅々まで染み渡っていく。それに歓喜するように、腹の中でノクスレアが蠢いている。
(やっぱり、王子さまのキスはなんか……あったかいなぁ)
その最中、リズリアは蕩けるような意識の中で、あることに気がついた。
固く繋いだ手からは魔力の流れが来ない。指を絡め、手のひらもしっかりと合わさっているにも関わらず。
(そっ、か……体液なんだ。魔力は体液を通して流れてくるんだ……)
だからマルディアスはリズリアに「王子の指南役になれ」と言ったのだ。王子の魔力を喰う役目と、妃を娶るまでの指南役をリズリアなら一人で兼任できるという都合の良さもあったのだろうけれど。
ルーファウス王子もまた、魔術師だ。
他人に魔力を譲渡できる仕組みを知らぬはずがない。
(じゃあなんで……王子さまは手を繋ぐんだろう……)
昨夜は合意の合図だった。今のも、そのつもりなのだろうか。
だがそれなら、唇を重ねた時点でこの行為の役割は終わるはずだ。合わせた手のひらには汗が滲んでいるものの、それで魔力が流れてくるわけでもない。
ただ温もりだけが、そこにある。
やがて唇を離すと、王子は最後にちゅっと軽く口づけてリズリアの腹部を撫でた。
「……これぐらいで良いか?」
「あ、はい……」
満腹というほどではない。だが、ノクスレアは確かに満足しているようだった。これ以上は求める理由がない。
唇に一抹の物足りなさを感じながらも、リズリアはそれを口にすることなく頷いた。




