第7話 娼婦を卒業した夜(中)
「……さっきも、『お腹いっぱいにはならないけど』と言っていたな。食事……足りなかったなら言えば良かっただろう。お前一人が大食らいであったとて、王宮は困りはしない」
思いのほか柔らかい声を返され、今度は「同情して結局抱かない方向へいくのだろうか」と、別の不安がよぎった。
いずれにせよ、嫌がる相手に無理強いするのは気が引ける。やはり明日にでもマルディアスを頼ろうと考えながら、リズリアは言葉を返した。
「そうじゃありません。オジサンに言われたんです。私の胃がいっぱいになっても、中の霊獣が空腹なら満腹にはならない、って」
「え……」
「実際、そうみたいなんです。全然満腹感がなくて、食事の加減が分からないんですよ。お城に来る前にもらったクッキーでも全然満たされなくて……オジサンがキスで魔力をくれて、それでようやくちょっとだけって感じで」
ショックを受けた様子で唇を震わせる王子。それはリズリアに対してというよりも、まるで不甲斐ない己を責めているかのような表情だった。
「……お前は、己が満たされないのを分かっていて、俺と身体を繋ぐことを『やめよう』などと言ったのか?」
「え……だって、王子さまが嫌そうだったから……」
「お前だって、いつまでも満たされないのは嫌だろう」
「それが私の日常ですから、慣れてます。満たされなくても、生きられるくらいには食べられればそれで……。それに、王さまにも言いましたけど、得られないものを欲しがっても意味ないじゃありませんか」
王子は一度ぎゅっとシーツを握りしめると、その手を緩め、リズリアの手へと伸ばした。指先が触れ合う寸前でそれが止まり、オリーブの瞳が再びリズリアを見据える。
今度は睨むのではなく、ただ真っ直ぐに──。
「お前が、娼婦として生きるためではなく、お前自身が嫌でないなら……俺の手を握れ」
「え……?」
きょとんとするリズリアにルーファウス王子が唇を寄せる。
「そしたら、口づけぐらいはしてやる」
「でも、王子さまの方が……」
「嫌じゃないから言ってるんだ! 皆まで言わせるな! 口づけだけだからな!」
褐色の肌でも分かるほどになぜか顔中を真っ赤に染めた王子に、リズリアの頬もつられて熱くなっていく。その感覚が何なのかも分からないまま、リズリアは懸命に考えた。
(わ、私自身が……? どういう意味だろう……。えぇっと……)
王子は今までの客と違い、歳も一つしか変わらない。高貴な身の上なのだから、常に清潔にもしているだろう。言葉は荒っぽいが、彼の心根は優しそうだ。
病気もなさそうで、きっと乱暴にもされないだろう。胸がそわそわする理由は分からないが、彼を嫌がる理由は一つもない。
未だそんな判断基準しか持てなかったが、リズリアはおずおずと手を伸ばし、王子の指先に触れた。赤褐色の指先がピクリと跳ね、ためらいながらも指先を絡めていく。
(うわ……うわわっ! なにこれ……っ! なんでこんなに緊張しちゃうの……!?)
ただ指先が触れ合っているだけなのに、鼓動がうるさく跳ねる。まだ魔力の熱は来ていないはずなのに、じわじわと体温まで上がっていくようだ。
やがて手のひらが合わさると、王子のもう片方の手がリズリアの頬を撫でた。
「……するぞ?」
「は、はいっ」
上ずった声で返事をすると、王子の顔がゆっくりと近づいてきた。互いの呼吸が混じり合い、睫毛が微かに震えるのが見える。
そっと触れるだけのキス。
まるで花びらを撫でるように、柔らかな感触がリズリアの唇を掠めた。それは数秒にも満たない短い口づけだったが──。
「……ふっ」
王子が小さく息を漏らす。その吐息さえも優しい温度を帯びていた。リズリアの心臓が早鐘のように打ち始める。
これまでに知ってきた身体的接触は全て仕事だった。こんなにも慎重で丁寧な接触など初めてのことだ。
「遠慮はするな。喰えるだけ喰え」
わずかに唇を離して囁くと、彼はリズリアの頭を引き寄せた。柔らかな温もりが、唇の隙間を滑り込む。
「んっ……!」
温かく湿ったものが口腔内を探る。リズリアには「遠慮はするな」と言いながらも、彼の方がどこか遠慮がちだ。
その意思を確かめるように、しかし確実に内側に分け入ってくる感覚。
互いの温度が混ざり合い、微弱な刺激が背すじを走った。
(何だろう……これ。あったかいな……)
口づけを心地良く感じたのは初めてのことだった。
それと同時に熱い魔力の奔流が喉を駆け抜け、全身へと巡っていく。
マルディアスのものとは全く異なる質感で、濃く柔らかく、それでいて力強い魔力。その味に歓喜するように腹の霊獣が蠢いている。
繋いだ手をぎゅっと握りしめられ、口づけがさらに熱を帯びた。
肩の力が抜けていき、二人の身体がシーツへと傾いていく。
そしてリズリアの背がシーツに沈んでなおも、王子の口づけと繋いだ手は離れず、熱くなっていく一方だった。




