第38話 慟哭(前)
◇◇◇
時は少し遡り、王太子が意識を取り戻す二時間ほど前のこと。
第三王子の私室では、寝台に座ったルーファウスとリズリアの二人が魔力譲渡の口づけを交わしていた。
「……やっぱり、集中できませんね」
「そうだな……」
唇を離して呟くリズリアにルーファウスが答える。
平時なら何よりも温かくて幸福な気持ちになれる口づけも、今は互いに気もそぞろだった。二人が出会ってから初めての、魔力譲渡のためだけの事務的な口づけになっていたように思える。
「こいつだけはいつも通りのようだけどな。ここぞとばかりに喰われたぞ」
ルーファウスが淡く笑みを浮かべ、リズリアの下腹部を撫でる。
その内部では霊獣ノクスレアがぐるぐると蠢き、引きずり出したばかりのルーファウスの魔力を歓喜のままに振り回していた。
その魔力の主の沈んだ心持ちも、宿主の不安も、霊獣にとっては関係のないことなのだ。
「でもノクちゃん、最近はすっかり貯蓄を覚えたみたいですよ。今日もすぐには食べずにむぎゅむぎゅしてますし」
「貯蓄……。まぁ、それならいいんだけどな。茶菓の時間の前に一度交わっておいて良かった……」
「さすがに今日はもう、する気になれませんもんね……」
とはいえ、ノクスレアのためだけでなく、ルーファウスの肉体のためにも魔力譲渡は必要だ。故に二人は、誰かに知られれば不謹慎とも言われそうだが、こまめに口づけだけは交わすようにしていた。
「……リズ。俺の手を握って」
王太子の容態がどうなっているのか、続報はまだ届いていない。ルーファウスも不安なのだろうとリズリアが褐色の手を握るが、彼の意図は別にあった。
「俺の魔力、分かるか?」
「へ? 魔力?」
「あぁ。感じるか?」
唐突な問いに首を傾げながらも、リズリアは言われた通り彼の魔力を肌に感じようと試みた。
温かい、手のひらから伝わる体温とは別の温度とその気配。紛れもなく、普段から感じているルーファウスの魔力だ。
「はい。ルゥの魔力なら、ばっちりです」
「俺の居場所を察せられるぐらいだったもんな」
ふっ、と笑みを浮かべたルーファウスは、すぐに真剣な表情に戻って続ける。
「なら、その魔力を吸い上げられるか?」
「え? 手からですか?」
リズリアは目を丸くして問い返した。対人間の魔力の受け渡しは体液を通じて行われるはずだ。今までも手を繋いだり、触れるだけの口づけでは魔力の移動はなかった。
その疑問を察したルーファウスは、ひどく優しい笑みでリズリアの頭を撫でた。いつもなら鼓動が揺れるような笑みのはずなのに、なぜか不安で胸がざわめく。
「お前ならきっとできる。マルディアスに無理だと言われた魔力操作だってできるようになったんだ。ノクスレアが俺の魔力を吸い上げるときの感覚を思い出せ」
「ルゥ……なんで……」
「いいから、ほら。やってみろ」
不自然なほどに明るい口調で言う。
違和感を覚えながらも、リズリアは自身の手元に視線を落とした。
どうせ今は、待つことと祈ることの他にやることはないのだ。とことん付き合ってやろうと思い、手のひらに触れる温度に意識を集中させる。
(ノクちゃんはいつも、魔力の端っこに噛みついて引きずり出すようにしてる……。私に噛みつくことはできないけれど、魔力の輪郭は分かるから……)
瞼を閉じ、視覚ではなく肌の感覚で魔力を手繰る。己の体内に宿した彼の魔力を指先に流したときと同じように、今触れている魔力が己のものであるかのようなイメージを思い描き──掴む。
(今だ……!)
指先に掴んだそれを引っ張り上げようとしたそのとき──扉を叩く鈍い音が響いた。
「あっ……」
リズリアの集中が途切れ、掴んでいた魔力がほどけた。
もう少しだったのに、という思いと、この時間に王子の私室を訪ねてくるということは、という思いが同時に押し寄せる。
二人は顔を見合わせ、続くノックの音にリズリアは寝台から跳ねるように飛び下りた。しかし急いで扉へ向かおうとするも、その手首をルーファウスが掴む。
「ルゥ?」
ルーファウスはするりと寝台から下りると、扉に向かって声を上げた。
「今行く。衣を替えているところゆえ、しばし待たれよ」
言い終わるのと同時にリズリアの腰が引き寄せられ、唇に柔らかな感触が押し付けられた。そしてすぐに湿った温もりが唇を割って侵入してくる。
「んっ……」
突如として、これまでの口づけで最も濃く、最も大量の魔力が流し込まれてくる。それに目敏く反応したノクスレアがそれに喰らいつき、さらなる魔力を引きずり出した。
反射的に唾液を嚥下するのと同時に、喉を駆け抜ける熱い魔力の奔流。眩暈がしそうなほどのその熱量に、リズリアは一歩後ろへとよろめいた。
(ル、ルゥ……その気になればこんなに魔力流せたんだ……)
今まで彼が気を遣って、加減してくれていた理由が分かった気がした。
非魔術師のリズリアの肉体は魔力を保管するようにはできていない。今は霊獣ノクスレアによって体内に留められているが、通常であれば流し込まれたところでその魔力は体外へ流れ出ていくだけだ。
だがそれでも、吹き荒ぶ突風のように彼の魔力はリズリアの全身を揺らし、瞼の内側から閃光を放つように視界を瞬かせた。
「愛してるよ、リズ」
ルーファウスは淡い笑みを浮かべ、最後に触れるだけの口づけを落とすと、自ら扉へと足を向けた。
「あ……ルゥ、待って……」
来訪者に扉を開けて対応することは、傍女であるリズリアの役目だ。慌てて追おうとするも、一度に大量の魔力を流された影響で足がよろめいた。
その間に彼は、扉へと到達してしまった。
「何用だ? 兄上は助かったのであろうな?」
王子自らが出てきたことに、来訪者の間に動揺の気配が漂う。リズリアがどうにかルーファウスの背に追いつくと、扉の外には王宮の警備兵が五人、武装した姿で立っていた。




