第35話 切実な願い
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マルディアスの私室に王太子付き侍女の一人が到着したのと同じ頃、ルーファウスの私室にも同じ報せが届いていた。
ルーファウスとリズリアの二人は、茶菓の時間の前に魔力譲渡を済ませておこうと身体を繋いだ直後であったため、激しいノックの音に、乱れた衣服を大慌てで整えて対応した。
平時であれば、訪ねてきた侍女はそれでも微妙に着崩れた衣服に眉を顰めていたかもしれない。だがそれに気づく余裕もないままに、侍女は王太子の凶報を息も絶え絶えに伝えた。
毒物が如何なるものか判明するまでは、王太子の部屋には近づいてはならない。これは真っ先に報せを受けた国王陛下からの指示だと告げ、侍女は足早に去っていった。
あれからどれだけ時間が経ったのか。随分長く感じられるが、実際はとても短いのかもしれない。最初の報せ以降続報は届かず、隣室の控えの間でルーファウスは椅子に腰かけ、固く両手を結んで祈り続けている。
「……ルゥ。お茶が入りましたよ」
「あぁ……ありがとう」
気休めにもならないだろうと思いながらも、リズリアは湯気の立つカップをルーファウスの前に差し出した。それを受け取った彼は礼を言いながらも口をつけることはせず、再び重い沈黙の中で項垂れた。
小さなテーブルに備え付けられた椅子を彼の傍へと移動させる。それに自身も腰かけ、小さく震えるルーファウスの肩を抱き寄せる。
「……大丈夫。きっと、大丈夫です」
何の確証もない言葉を紡ぎながら、リズリアもまた震えていた。
それはきっと、ルーファウスに向けたものでもあり、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
平穏しかなかったはずの王宮内に突如発生した、王太子暗殺未遂という事件に、心臓が嫌な音を立てて跳ねている。
リズリアの育った貧民街では、建屋と建屋の間に生きているのか死んでいるのかも分からない人間が転がっていることもあった。だがそれでもリズリアは、自身の身近で死というものを感じたことはなかった。
幼い少女であった頃にはそれを明確に感じ取れなかっただけなのか、あるいはただ怖くて目を逸らしていただけだったのか、リズリア自身にも分からない。
(何を……何を考えているの! 王太子さまはまだ生きていらっしゃる! ううん、まだなんて思っちゃだめ! 王太子さまは助かる! きっと……絶対に、助かるんだから!)
気づけば、ルーファウスの肩を抱く手に褐色肌の大きな手が重ねられていた。温度を失ったように冷たい指先を絡めながら、オリーブの瞳が悲壮の色でリズリアを包む。
「……俺のせいだろうか」
「ルゥ……何を言ってるんですか」
「近頃、一部の家臣たちが馬鹿げたことを囁き合っていただろう。たまたま直接耳にしたときは窘めたが……」
そのときの場にはリズリアも一緒にいたため知っている。
彼らはルーファウスこそが次なる王に相応しいと語り合っていた。それをルーファウス自身が否定し、父王の後を継ぐのは兄であると言い切っていたのだ。
そのときの家臣たちは、納得はしていないものの、渋々といった様子で謝罪の言葉を口にしていた。
「もしも……家臣たちの誰かが、俺を王にするために兄上を手にかけようとしたのだとしたら……」
「ルゥ!」
疑念と不安を口にするルーファウスに、思わず声を荒げていた。
「もしもですよ!? 万が一、そうだとしても、あなたは何も悪くないじゃないですか! あなたはちゃんと、王位につく気はないとハッキリ宣言したんですから!」
「……ありがとう、リズ。だけど、家臣の暴挙を止められないのは、上に立つ者の責任だ。もしもの場合、その責は俺にある」
「ルゥ……」
ルーファウスは悲しげな笑みを浮かべる。そうであってほしくないと思いながらも、それ以外には考えられないというような諦念がその目に見て取れる。
仮に家臣が勝手にやったことだとしても、彼はその責任を当たり前に自分が全て背負おうとするのだろう。
より高みに立とうなどという野心は微塵もなく、そのくせに王族としての誇りと責任感が強い彼は、己の家臣をきっと見捨てない。
「でも……誰が王太子さまに毒なんて……」
「分からない。馬鹿げたことを言う者もいたが、基本的には皆が兄上を慕っていたはずだ。それに、仮に俺が王位に立ったとしても、それが利になるような者など……」
何かに気づいたように言葉を切り、目を見開く。だがすぐにそれを否定するようにルーファウスはかぶりを振り、眉根を顰めた。
その様子に、リズリアはその脳裏に浮かんだであろう人物を察する。
「まさか……」
「……いや、確かに最も利を得るのはあの男だが、おそらく今回の件には関係ないだろう」
なぜ、とリズリアが問う前にルーファウスが続ける。
「時期が悪い。俺とアルテア嬢との正式な婚姻を前に事を起こせば、あの男にとって不利なことになる可能性の方が高いんだ」
「あ……そっか。婚約が破棄になってしまったら元も子もないですもんね」
それならばやはり、家臣の誰かという話になってしまう。
そこにどんな理由があれど、それは裏切りに他ならない。信じていた家臣に疑念の目を向けなければならないルーファウスの心中を思い、リズリアは金糸の頭を抱き寄せた。
「……今はとにかく、王太子さまの無事を祈りましょう。毒を盛った犯人だって、きっとすぐに見つかります。オジサンだっているんですから、大丈夫ですよ」
言葉ではそう言いながらも、リズリアには祈りを向ける信仰などは存在しない。幼い頃は漠然とした「神様」というものに祈ることもあったが、その願いが叶ったことは一度もない。
ただ一つの「お腹いっぱいご飯が食べたい」という、ささやかで切実な願いを叶えてくれたのはルーファウスと、事故ではあったが彼と出会うきっかけをくれたマルディアスだった。
だからリズリアは神を信仰しない。祈らない。
しかしそれでも、自分の願いを叶えてくれた人たちのために、願わずにはいられない。
かつての大昔には実在したらしい、今どこにいて、どんな姿をしているのかも知らない、霧の幻のような神という存在に──。
「どうか……、どうか王太子さまが、ルゥのお兄様のお命が、助かりますように……」
小さく紡がれる祈りの声に、ルーファウスも頷き、両の手を組んだ。
「……神よ。どうか、我が兄の命脈を繋ぎ止め、再び我ら兄弟が手を取り合える日を与え賜らんことを」
二人は祈る。ただひたすらに。
信仰を持たず、祈りをどこに向ければいいのかもリズリアには分からないが、それでも祈る。
兄の命が助かり、無用な派閥争いが終わることを願う愛する人の祈りが届くようにと。
ただ純粋に。
ただひたむきに。
これは決して、得られぬ願いなどではない。分不相応などではない。
そう信じ、ただひたすらに──。
しかしその後、リズリアが神の存在を崇める日が来ることはなかった。
ルーファウスが兄である王太子に再会することは、二度と叶わなかったのである。




