第31話 侯爵令嬢と騎士(後)
アルテアが生まれたとき、彼女の母ヴィオラも、父リカルドも、リヴァンに彼女を抱かせようとしてくれていた。しかし、当時十歳のリヴァンにはふにゃふにゃした赤ん坊が怖かったこともあり、頑なに固辞したことを覚えている。
(貴族令嬢らしく立派に成長されたが、こういうところは、やはりまだ子供なのだな……)
まだ幼かった頃も、よく「撫でてほしい」とせがまれたものだ。侯爵家の長子ということもあり、両親には愛されながらも厳しく育てられていた彼女は、心から甘えられる相手が欲しかったのだろう。
「……ねぇ、リヴァン?」
「何です?」
「嫁入り前の最後のお願いを、聞いてくださらない?」
「突然ですね。……私に聞けるものならば何なりと」
「そういうところが本っ当に貴方らしいですわ! 素直に頷いてくだされば良いものを!」
リヴァンが容易く了承できないのは、一度受け入れたことを後から覆す不義理を働きたくないがためだった。
しかしアルテアはそれが気に入らないらしい。それでも彼女は大きく息を吸い、乞うような眼差しでリヴァンを見上げる。
「口づけしてください」
「それは聞けません」
にべもなく断られ、アルテアは頬を膨らませながら、なおも言い縋る。
「一度だけです! それを最初で最後の思い出にして私は嫁ぎますから!」
「私のことは諦めたのではなかったのですか」
「そんなの方便に決まっているでしょう! 貴族とは嘘つきなものなのです!」
「虚偽はあまり褒められたことではありませんよ。周囲の信を失います」
これがよく知らぬ女性からの申し出であったなら、断ることに変わりはないがリヴァンは少なからず動揺しただろう。
彼にはアルテアが気づいていた通り幼馴染の恋人がおり、また、騎士として女性をエスコートすることにも長けていたが、決して女性慣れしているタイプではなかった。
だが、幼い頃から子供らしい素直さで恋情をぶつけてこられた相手に、今さら動揺も何もないのだ。ぽかぽかと胸の甲冑を叩いてくる彼女の想いを子供のそれであると侮るつもりもないが、受け入れる選択肢などリヴァンにはない。
(この真っ直ぐさは昔のヴィオラ様とそっくりだ……。いずれは母君のように聡明な淑女になるのだろうが……)
金属製の鎧を叩いていては手が痛かろうと窘めて小さな身体を引き剥がす。するとアルテアはぷいっと顔を逸らし、胸の前で腕を組んだ。
「どうしてもだめだとおっしゃるのなら、代わりのお願いです!」
「今度は何です?」
まだ何かあるのかとため息混じりに返すと、先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、アルテアは引き結んだ唇をもごもごさせながら小さく呟いた。
「いよいよ私がローディアへ嫁ぐときは、兄として見送ってください……」
「お嬢様……」
真っ赤になったアルテアの表情に、こちらの願いが本命かと、リヴァンはまたため息をつきそうになった。
先に大きな要求を突き出し、それが通れば良し、だめでも妥協案として本命の要求を提示する。交渉の常套手段だ。策略家としても名高いあの夫妻は、娘に実に良い教育を施したらしい。
今まで通り自分はあくまでも臣下であり、兄などと名乗って良い立場ではないと諭してやりたいところではあるのだが──。
「貴方が私を女性として見てくださらないのなら……最後くらい、家族として見てくださってもいいでしょう? それさえだめだと意地の悪いことをおっしゃるのなら……」
「だめだと言うのなら?」
言い淀むアルテアに続きを促すと、彼女はツンとした表情を装い、顔を背けた。
「貴方とはもう絶交です!」
「……絶交?」
想定外の宣言にリヴァンは目を丸くした。
それに対し、自分の言葉を後悔するような、しかし引っ込みもつかないというような、微妙な表情で涙目になっているアルテアの姿が小窓の硝子に映る。
幼い頃から傍にいたリヴァンが自分と絶交など選ぶはずがないという信頼と、万が一本当に絶交になってしまったらどうしようという不安で、感情が右往左往しているようだ。
しかしそれでも、彼女は意地とばかりに続ける。
「そ、そうです、絶交です! 婚姻という私の人生の一大事においても貴方がただの他人であるというのなら、私が嫁いだあとはもはや無関係な通りすがりと同等なのです! だから絶交です!」
彼女にとっては一世一代の我侭であり、賭けのつもりなのだろう。このまま縁談が進めば、彼女は他国に嫁ぐことになる。ドラッカール家を出たらその時点で、バルニア騎士団を率いるリヴァンとはいずれにしても疎遠になるというのに──。
「絶交……そうか、兄でなくば絶交か……。ふっ……」
「何を笑っているのです! 私は極めて真面目に言っているのですよ!」
顔を逸らし、小さく肩を震わせるリヴァン。
アルテアは自分の覚悟を馬鹿にされたとばかりに、真っ赤な顔でキッと振り向いた。
「絶交は…………困るな」
「え……」
笑いを収めたリヴァンが思いのほか穏やかな眼差しを向けてきたことで、彼女の頬が別の意味で赤らむ。
「リカルド様には私から申し入れておきましょう。さすがに兄として婚姻式に列席することは難しいでしょうが……」
「ほ、本当に……?」
「えぇ。だから……」
臣下であるはずの騎士が、緩やかに、目の前の存在を愛でるような、あるいは慈しむような淡い笑みを浮かべる。
「そろそろ機嫌を直してくれないか? アルテア」
軽く折り曲げた長い人差し指の節がアルテアの潤んだ眦に触れ、掬うように涙の雫を拭う。
本人にその自覚はまるでないが、凛々しき美丈夫の優しさに溢れる笑みと紳士的な所作に、幼く白い頬が、みるみるうちに紅を差したように染まっていった。
言葉を失ったアルテアの口元が、陸に上がった魚のようにぱくぱくと開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。
「~~っ、あ、あ、貴方という人は……!」
「気に入りませんでしたか?」
リヴァンには元々両親以外の家族がいない。そして甘えることも甘えられることもない幼少期だったがために、兄の顔というものが分からなかった。それゆえに彼としては、アルテアが望んでいるであろうことをしてやろうと思ったに過ぎない。
なぜか地団太を踏む妹を眺めながら、リヴァンの瞳が再び緩やかに細められる。
頼りない足取りでよちよちとリヴァンのあとをヒヨコのようについてまわっていた少女が、侯爵家令嬢として強がりながらも立派に立っている。それでいて幼さを引きずりつつも、誇り高き王族へ嫁ごうというのだ。
(兄として見送ることがお嬢様への餞となるならば……それが、独り故郷を離れる彼女の心のよすがとなるならば、最後の小さな願いくらい叶えてやっても良いだろう)
それが少女の胸を違う意味で貫いたことに気づかないまま、リヴァンは地団太のあとにすっかりおとなしくなったその頭を撫でる。
そして──。
二人がバルニアに戻り、領主リカルドがリヴァンの申し入れをあっさりと了承した約二か月後。
ローディア国第三王子、ルーファウス・アルバルト・ローレンシアが暗殺されたという凶報がバルニアに届いた。
これにて第二章が完了。
次回の更新は水曜で、第三章に入ります。




