第14話 望むのは
◇◇◇
ルーファウス王子の私室に隣接する控えの間。
そこで剣の修練が終わる頃合いを見計らい、リズリアが茶と菓子を用意していると、やや俯いた表情の王子が戻ってきた。
「……あ。お稽古、お疲れさまでございましたね」
小さなテーブルに茶器と菓子の皿を置いたリズリアは、空になったトレイを手に持ち、王子に向かって深く頭を下げた。その姿を認めた王子のオリーブの瞳が大きく見開かれる。
「……稽古着の御着替えのお手伝いにも向かわず、本当に申し訳……」
言い終わるより先に強引に上体を起こされ、トレイが乾いた音を立てて床に落ちた。そのままきつく抱きしめられ、今度はリズリアの瞳が見開く。
「リズリア! 良かった……このまま戻ってこなかったらどうしようかと……!」
「殿下……」
ルーファウス王子は心の底から安堵しているようだった。行き場のないリズリアに戻らないなんて選択肢などないというのに──。
毎朝の無意識の抱き枕状態以外で彼に抱きしめられたのは初めてだったかもしれない。おずおずとその背中を抱き返すと、さらにきつく抱きしめられる。
(……やっぱり、ルーファウス殿下は……あったかいなぁ)
修練後だというせいもあるのだろうか。互いの胸を通して伝わる彼の鼓動がとても強く、リズリアを包む体温が温かい。毎朝この温もりに包まれて一日が始まることを、今では心地よく思っている自分がいる。
時間にして数分か──しばらくそうしていると、王子の腕がゆっくりとほどかれた。
「お前がいないと俺は……その、……ぇえっと、困るんだ」
「?」
何に対してなのか、褐色の頬を赤らめたルーファウス王子がごにょごにょと呟き、これまた何に対してなのか自身の頭をガシガシと掻き毟る。
「いや、違う。そうではない。そうではなくて……」
「ルーファウス殿下」
言い淀む言葉を遮り、リズリアは彼の手を取ると、そっと指を絡めた。
「リ……っ!?」
いつもなら王子の方からしてきた合図。
自分の意図していないタイミングで触れ合った手に目をぐるぐるさせ、耳まで赤く染めながら困惑する王子に、リズリアはこれまでの自分ならしなかった行動を取った。
繋ぐ手とは反対の手を彼の胸に添え、わずかに踵を上げる。
「──っ!」
魔力の流れもない、ただ触れ合うだけの口づけ。
数秒もないほどの、一瞬の触れ合い。
ただそれだけで、リズリアの鼓動が温かく高鳴る。
リズリアを見下ろしたルーファウス王子は、打ち上げられた魚のようにしばらく口をぱくぱくさせると、なんとか喉を振り絞った。
「は、腹が減ったのか? そ、そうだな……茶菓の前にいつもしていたしな! 俺が待たせ過ぎたから……その……」
なぜか後ずさろうとする王子の手をきゅっと握りしめ、リズリアはふるふると首を振った。
「殿下も……殿下のキスも、いつもとても温かいので……」
「え……」
「私は……、殿下とするキス……好きです」
「──っ!」
二人の視線が互いに縫い止められ、そこから外すことができなくなる。
王子の呼吸が荒くなり、繋いだ手の指がわずかに震えた。その手がほどかれ、リズリアの顔を王子の両手がそっと包み込む。
「……望んでいると思っていいのか? 俺との口づけは、お前にとってはもう、義務ではないと……そう思っていいか?」
「ノクちゃんのお腹が空いていないときでも、殿下となら……キスしたいです」
「──リズリア……っ」
ルーファウス王子の唇が、今度は彼からリズリアの唇へと重なった。何度も何度も、啄むように触れ、時折深い口づけを繰り返す。触れ合うだけだった唇の隙間からどちらからともなく熱を重ね合う。
(私……やっぱり殿下には……、傷ついてほしくないなぁ……)
熱い魔力の奔流を感じながら、沸き立つ思いを噛み締める。
自分の望みは間違えるな、と中年魔術師は言っていた。
未だにその望みとやらは分からないけれど、この褐色肌の王子だけは今までの相手とは違うのだということは分かる。
不意に再びぎゅっと抱きしめられ、耳元に唇が寄せられた。
「……リズリア。寝室に行きたい」
「え」
熱の浮いた声音と吐息がリズリアの耳をくすぐり、抱きしめる腕に力がこめられた。
「……殿下。お嫌だったのではないのですか……?」
「……あれは、本当に違うんだ。むしろ俺はずっと、お前を抱きたいと思っている」
「え……?」
どうやら中年魔術師の言っていたことは事実だったようだ。
ならばなぜ、という思いがよぎる。口づけだけの魔力譲渡では追いつかなくなると分かっていてなぜ、抱こうとしなかったのか──。
「……ごめんな。本当は……待ちたかったんだ。魔力譲渡の義務や、俺の欲だけでお前を抱くのが嫌で……」
ぽそりと、呟きが落ちた。
リズリアが顔を上げると、ルーファウス王子は小さく続けた。
「お前にも義務だと思ってほしくなくて、俺を……望んでほしくて。それを、待ちたかった」
「私が、殿下を望むのを……?」
「馬鹿だよな……。分かってる。お前にとっての身体の交わりは、強制されていたことで、それ以外に生きる手段がなかったからしていたことだ。自ら望むことは難しいと……分かっていたのに」
自嘲するような笑みを浮かべる褐色の頬に、気づけばリズリアは手を伸ばしていた。王子はその手を取り、そっと口づける。
「……俺は、お前が欲しいよ、リズリア」
十歳までのリズリアは、親の所有物だった。それが口減らしに売られて娼館のものとなり、身請けしたマルディアスのものとなり、さらに王宮に引き渡された。
望む望まずに関わらず、今のリズリアの身はルーファウス王子のものだ。その身をどう扱おうと、彼の自由であるはずだったのに──。
初対面のときこそは侮蔑のような目で見られていたが、彼はただの一度も、リズリアを所有物として扱わなかった。
(殿下とならしてもいいのか、それとも……したいのか……)
意外にも世話焼きだったあの魔術師の問いの意味が、ようやく理解できた。
そして、その答えは──もう迷いのないものだった。
「私は……恵まれています。恵まれすぎて……身の程知らずにも、欲張りになってしまいました」
「……え」
「私も、殿下と繋がりたいです。……もう、あなたでなくては嫌なんです」
「──っ、リズリア……っ!」
ずっと生きるために身体を開いてきた。
それなのに今、初めて自ら欲しいと思えた。
この人だけが特別で、この人だけが大切だと思えた。
心からの笑みを浮かべると、王子は安堵したようにリズリアを抱き上げた。




