番外編 第三章 薬瓶の芸術家 後編
ロサがリリーと出会って間もない頃、彼のいるノハルト総合病院に一人の患者が訪れた。
「名前はキャンディス・ハイム。ユートラス出身の女性か……」
ロサは看護師に手渡されたカルテを眺めながら呟いた。カルテには名前と出身、性別、検査結果以外の情報はなく、キャンディスという女性が何故ノハルト総合病院に訪れたのかという経緯や家族構成等が記されてはいなかった。
「ヘイヴンではよくあることではありますが、不便ですね……」
ロサは一通りカルテに目を通し終えると、椅子からゆっくりと腰を上げた。そして、そのままキャンディスの病室へと足を向けた。真っ白な廊下をコツコツと進み、『キャンディス・ハイム』と記された病室の前で足を止めた。コンコンコンッと軽く扉を叩くと、扉の向こうから鈴の鳴るような綺麗な声が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します、ハイム夫人」
ロサはゆっくりと扉を開いた。病室のベッドに座り、ロサを優しく出迎えたのは、美しく長い黒髪と吸い込まれるような黒い瞳を持つ女性であった。
「やはり、貴方でしたか。ハイム夫人」
「……私を知っているのですね、ポリアンテス先生」
「はい。ユートラス研究所のテオラトス・ハイム博士は、医学界でも名の知れた御方ですから」
ロサがそう告げると、キャンディスは静かに目を伏せた。
「どうして、ヘイヴンのような危ない都市に貴方がいらっしゃるのですか?」
「……娘を探しているのです」
「娘……?」
ロサの問いかけにキャンディスは頷くと、言葉を続けた。
「昔、私は娘をヘイヴンに置き去りにしたのです」
「置き去りに、ですか……」
「はい……」
自分のしたことを心の底から悔いているのか、キャンディスの表情が先程よりも更に暗く曇った。
「あまり、こういうことを言うのはよろしくありませんが……ヘイヴンという都市で幼い子供を置き去りにするのは、その……」
「生きている可能性は低い。……そうお伝えしたいのでしょう?」
「……はい。ヘイヴンという都市は、そう言う都市ですから」
ロサは少し俯き、表情に影を落とした。
「ポリアンテス先生、そんなに暗い顔なさらないで下さい。……娘は、生きています。それは分かっているのです」
「どうして、分かるのですか?」
「新聞に、娘のことが書かれていますから」
そう言ったキャンディスは、すぐ側のテーブルに置かれた新聞を手に取った。そこには、グルコン・フィールドで多発する殺人事件について書かれていた。
「……まさか」
「はい、私の娘はグルコン・フィールドに居るんです」
ロサは目を見開いた。
(ハイム夫人と彼女が似ていることは薄々気が付いていた……。けれど、まさか……彼女が……)
口元に手を当て、考えるように視線を左右に揺らすロサを、キャンディスは不思議そうに見つめた。
「……娘さんのお名前は、リリーさん……ですか?」
「……娘を、ご存知なのですか……?」
キャンディスが黒い瞳を大きく見開く様子を見たロサは、目を細めて静かに頷いた。
「少し前に、たまたまお会いしたのです。貴方によく似た少女に」
「そう、ですか……」
「彼女に会って、どうしたいのですか?」
ロサの問いを受け止めたキャンディスは、深く俯いた。そして、震える手でベッドのシーツを握りしめ、絞り出すように言葉を一つ一つ漏らした。
「……あの子に、一目会いたいのです」
「……なるほど」
ロサの胸の奥にしまわれた鼓動がドクンと大きく音を立てた。ロサは胸に手を当て、その鼓動を鎮めるように小さく息を吐いた。
「一度、リリーさんに貴方の事を話してみましょう」
「よろしいのですか?」
キャンディスの黒い瞳に一筋の光が宿った。
「はい、どうなるかは分かりませんが……」
「構いません。娘に、リリーに会えるのなら……私は、それ以上は何もっ……」
感情が高ぶったせいか、キャンディスの声は震え、何度も言葉を飲み込んだ。
「……分かりました。お話してみましょう。では、私は他の患者を診てきますので、失礼します」
ロサは丁寧に頭を下げると、キャンディスのいる病室を後にした。
(これは、面白い展開になりましたね……)
誰もが寝静まる夜、ロサは一人でグルコン・フィールドの路地裏を歩いていた。行き先は定めず、気の向くままに路地裏を散策した。
(次は曲がってみましょうか。その次は真っ直ぐに)
徘徊にも似た散策を続けるロサの鼻を、僅かに鉄錆の香りが掠めた。
(この辺りでしょうか……?)
ロサはピタリと足を止め、香りがより濃くなる方へと足を向けた。路地裏を進んでいくと、僅かに香っていた鉄錆の香りが少しずつ濃くなり、噎せ返るほどの濃さになっていた。開けた空間に足を踏み入れると、視界に飛び込んできたのは血まみれの肉塊に跨る黒髪の少女であった。ロサは静かに目を細め、口元を歪ませた。
「こんなところに居たんですね、リリーさん」
「……あら、こんばんは。ロサさん」
先程まで楽しんでいたのか、リリーは頬を少し赤らめながらロサを見た。ロサはリリーの下に横たわる肉塊に目を向けると、普段と変わらない調子で話した。
「今宵も随分と楽しんだようですね」
「えぇ。でも、楽しい時間というのはあっという間なのよね」
リリーは残念そうに呟くと、肉塊からゆっくりと腰を上げた。まだ拭いきれていない両手の血が滴り落ちる音が、ロサの鼓膜を優しく揺らした。
「……それで、ロサさんはどんな用事で私に会いに来たのかしら?」
「あぁ、そうでした。リリーさんにお聞きしたいことがございまして」
「あら、私に?」
リリーは不思議そうに首を傾げて見せた。
「はい、リリーさんはお母様にお会いしたいと思いますか?」
「……なんですって?」
「実は私、日中は医者として病院に勤めていまして。その病院に偶然、リリーさんとよく似た女性が患者としていらっしゃったんですよ」
リリーは目を見開いた。その表情はほんの数秒で消えると、静かに目を伏せた。黒い瞳の奥に何かが揺れ動いているのをロサは見逃さなかった。
(これは……。あぁ、なんと……)
胸の奥で高鳴る感情を抑えつけたロサは、世間話でもするように、言葉を続けて紡いだ。
「その女性は、『娘に一目会いたい』と話していましたよ」
「……娘に?」
「はい」
「……そう」
リリーは口を閉ざしたまま、ロサに背を向けた。
「リリーさん?」
「……ロサ先生。きっとその人の娘も会いたがっていると思うわ。でも、母親に会って、その時の自分がどう思うのか、分からないの」
「では、会ってみてはいかがですか?」
ロサは返事がないリリーの後ろ姿を見つめ、目を細めた。
「分からないのであれば、会ってみれば良いのです。その女性に残された時間は、あまりにも少ないものでしたから」
「あら、そうなの?」
「えぇ。検査結果だけを見れば、その女性の体は生きているのが不思議なほどに衰弱していましたから」
「……そう」
ロサの言葉を受けたリリーは、短く返事を返すと背を向けたまま歩き始めた。
(動揺はするものの、振り返ることはありませんでしたね……)
グルコン・フィールドの暗闇へと溶け込んでいくリリーの背中を、ロサは静かに見送った。
(ですが、これは予想以上だ……)
リリーが完全に暗闇に溶け込んだのを確認したロサは、これまで胸の奥に抑えつけていたものを解放させた。
「このお話は……私が咀嚼しきれないほどに……ふふっ……」
口元に手を添え、小さく肩を震わせた。
「くっ……ふふっ……」
笑い混じりの吐息が漏れる度に、鼓動は早まり、体温がゆっくり上がっていった。
(あぁ、なんとはしたない……)
その思いとは裏腹に、ロサは熱を帯びた身を小さくよじらせた。
「ふふっ……ふははっ……」
再び笑い混じりの吐息が漏れた。それに呼応するように、胸の奥から込み上げてくる熱が、雪崩のように全身に広がった。ロサはゆっくりと顔を上げ、月へと手を伸ばした。
「素晴らしい……。貴方は最高です……リリーさん」
月明かりが、恍惚としたロサの表情を静かに照らしていた。
リリーと話した夜から数日が過ぎても、ロサが彼女と再び顔を合わせることはなかった。
(まだ『分からない』ということですかね……)
来院者のカルテに目を通しながら、ロサは目を伏せた。あれからキャンディスの衰弱は目に見えて進み、今では自力で身を起こすことすら叶わなくなっていた。
(……気長に待つ他に手は無さそうですね)
ロサはデスクにカルテを置くと、目頭を押さえた。すると、慌ただしい足音と共に、看護師がロサの元を訪れた。
「ポリアンテス先生!ハイム夫人が血を吐かれました!」
「……分かりました、すぐに向かいます」
ロサはすぐさま椅子から立ち上がると、足早にキャンディスの病室へと向かった。
(……随分間が悪いですね)
キャンディスの病室へ到着したロサは、上がった息を少し整えてから扉を開けた。
「ポリ……アンテス……先生……」
「ハイム夫人、私の声が聞こえますか?」
ロサの優しい問いかけに、キャンディスは首を小さく縦に振った。
(意識は、まだ保たれているようですね……)
少し安堵しつつ、ロサは状況を把握するための問いかけを続けた。
「……息苦しさや痛みは?」
言葉を発するのが辛いのか、キャンディスはロサに掌を見せた。掌には赤く鮮やかな血がべっとりと付いていた。
(……あまり時間がありませんね……)
ロサは血のついた手を静かに包みこんだ。彼の緑色の瞳が僅かに細められた。
「……少し、タイミングが悪かったかしら」
背後から聞こえた声に、ロサはゆっくりと振り返った。そこには、まるで一輪の花を手にするように、白銀に光る一本のナイフを握ったリリーの姿があった。
「……リ……リー……?」
「久し振りね、ママ」
リリーは、静かにキャンディスのベッドに向かった。コツコツと響く足音を聞きながら、キャンディスは近づいてくるリリーの姿に黒い瞳を潤ませた。
「やっと……会え……た……」
「えぇ、やっと会えたわね」
ロサは包みこんでいたキャンディスの手をそっと離すと、リリーに道を譲るように二歩後ろへ下がった。
「……苦しそうね、ママ。血も吐いたようだし」
ベッドの傍らまで歩み寄ったリリーは、その端にそっと腰を下ろすと、キャンディスの頬を撫でた。
「リ……リー……私……は……」
「苦しまなくていいわ。私は、そのために来たんだもの」
「……貴方を、愛して……いるわ……」
キャンディスは、頬を撫でるリリーの手を両手で包みこんだ。
「えぇ、ずっと分かっていたわ」
そう告げると、リリーは何を言えばいいのか分からないように、困ったような笑みを見せた。
「……っぅ、げほっ……ごほっ……」
「……悠長にはしていられないようね」
リリーはそう呟くと、手にしたナイフの切っ先を、キャンディスの胸へ添えた。
「リリー……」
優しく微笑むキャンディスを前に、リリーは一瞬だけ動きを止めた。しかし、すぐにナイフを握る手へ力を込めた。
「……さようなら、ママ」
その言葉と同時に、リリーはキャンディスの胸へとナイフを深く沈めた。キャンディスの胸から溢れる血が白いシーツを赤く染め上げていった。
「……後片付けは、私にお任せください」
静寂を破るように、ロサはリリーにそう告げた。
「……えぇ。任せるわ、ロサ先生」
リリーは、キャンディスの頬をそっと撫でた。既に息が止まったはずのキャンディスは、生きている頃と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべていた。キャンディスの微笑みを見つめるリリーは、少し目を細めるとロサに告げた。
「……ロサ先生。私はリリー。リリー・フリティラリアよ」
「おや、リリー・ハイムではないのですか?」
「えぇ。彼女は随分昔に路地裏で死んだもの」
ロサの方へ体を向けたリリーは、静かに微笑んだ。
(あぁ……なんという……)
リリーの微笑みを目の当たりにしたロサは大きく目を見開いた。息も忘れるほど妖しく咲いた黒百合は、ロサの視線を容易に絡め取った。
「じゃあ、私はこれで失礼するわね」
リリーはロサの横を通り過ぎると、そのまま病室を後にした。静寂だけが残された病室で、ロサは一人立ち尽くしていた。
(……欲しい)
ロサは、微笑みを残したキャンディスの頬をそっと撫でた。
「……ハイム夫人、貴方はこれにて完成です」
生前と変わらぬ調子で、ロサはキャンディスに話しかけた。
「ですが、彼女は未完成のようです」
最後に見せたリリーの微笑みを思い浮かべた。ロサの内側から湧き上がる衝動が、ロサの鼓動を早めた。
「……未完成でありながら、あの美しさ。……素晴らしい」
ロサは、リリーが出て行った病室の扉を見つめた。
ロサが語り終えると、コランダムはすぐには口を開けず、奥歯を噛み締めた。重い沈黙の中、ロサだけがどこか満足げにコランダムを見つめていた。
「素晴らしい愛の物語だった、そうでしょう?」
「……何故、止めなかった?」
コランダムの問いにロサは首を傾げた。
「未完成では、心残りでしょう?」
「……そうか」
コランダムは拳を固く握った。爪が掌に食い込んでも、その力を緩めることはなかった。
(……落ち着け)
そう自分に言い聞かせ、深く息を吐いた後に、最後の一文を手帳に書き記した。
「……そろそろ時間か。尋問は以上だ」
「おや、残念です。次は、作品となった女性達について語る予定だったのですが」
「……次の尋問の機会に回す」
コランダムはパタンと音を立てて手帳を閉ざすと、胸ポケットに手帳とペンをしまった。
「そうですか。次は誰について調べるおつもりで?」
「お前に話す義理はない」
「手厳しいですね。……【悪魔の殉教者】であるアナス・ヘリアンでしょうか?」
コランダムはロサを鋭く睨みつけた。
「おっと、刑務官達に何かしたわけではありませんよ。私達の中で考えれば、消去法で彼しか残りません。違いますか?」
コランダムはロサから視線をそらすと、そのまま尋問室の出口へと向かった。
「それにしても、どうやってあの異常者を調べるおつもりですか?彼は既に亡くなっているでしょう?」
「言ったはずだ。お前に話す義理はない、と」
「そうですか。また何か聞きたくなればお話しますよ」
背後から届いた穏やかな声を無視し、コランダムは扉を開き、尋問室を後にした。




