番外編 第二章 薬瓶の芸術家 前編
リリーのいた尋問室を後にしたコランダムは、次の尋問室へと向かった。コツコツとコランダムの足音だけが廊下に響いていた。
(……妙だ。ヤツは捕まえたはずなのに、まだ檻の外に居るように感じる……)
リリーのいた尋問室と真逆に設けられたもう一つの尋問室。鉄製の扉の向こう側からは、異様な雰囲気が漏れ出ていた。その空気はまるで、コランダムの身体に纏わりつくようであった。
(……吞まれるな)
自身に纏わりつく不快感を振り払うように、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、扉を押し開くと、尋問室の中へと足を踏み入れた。
「待ちくたびれましたよ、コランダム刑事」
椅子に座った白衣姿の男は口角を歪ませながらゆっくりと顔を上げ、コランダムを見つめた。レンズの奥から怪しく光る緑色の瞳は獲物を捕らえたかのようにコランダムをしっかりと映し出していた。
「……待たせてしまって申し訳ない」
「いえいえ、お気になさらず。予定より十五分程遅い到着でしたが、きっとリリーさんの尋問に時間がかかってしまったのでしょうから」
コランダムは、楽しそうに話すロサの言葉を受け流しながら向かい合うように椅子に座った。
「……それに、少しお疲れのようですし」
いつの間にか、ロサは机から身を乗り出していた。手錠で制限された両手は、コランダムの頬をそっと撫でた。
「っ!!」
頬を撫でられたことを理解した瞬間、コランダムの全身を悪寒が駆け巡った。コランダムは咄嗟に体を後ろに引き、ロサとの距離を確保すると、自分の首に手を当てた。
(拘束されていることで油断をしていた。相手はあの【薬瓶の芸術家】だ。その気になれば、俺の首を絞めて殺せた……)
首から手を離し、悔しそうに下唇を嚙み締めた。
「おやおや、私は心配をしただけなのに。そんなに離れてしまってはお話ができないではありませんか」
「……随分、楽しそうだな」
「そう見えますか?そうかもしれません。貴方に手錠をかけられた時の私は全てに満足していましたから」
「……今は違うと言いたいのか?」
ロサはコランダムの言葉を肯定するかのように、目を細めた。
「……えぇ、そうですよ。貴方のおかげで私はまた新しい芸術作品を目にすることができましたから」
「新しい芸術作品……?」
「私のフリティラリアのことですよ」
ロサの言葉にコランダムは眉を潜めた。
「……何が言いたい?」
「少し前まで未完成だった彼女が、貴方の言葉一つで、いとも簡単に完成したのです。『想い人に殺されたい』と願うも叶わない、殺すことも、殺されることも許されないが故に生きた屍となってしまった……。まさに、死すらも超越した最高の芸術作品ではありませんか?」
「お前……っ!!」
まるで美術館に展示された作品を披露するかのような口ぶりに、コランダムは拳を握り締め、ギリッと歯ぎしりを鳴らした。今すぐにでもロサの胸ぐらを掴んで、床へ叩き伏せてしまいたい衝動が胸の奥から込み上げてきた。
(……吞まれるな)
コランダムは胸の奥に秘められた猛獣を宥めるようにゆっくりと深く息を吐いた。ドクンドクンと脈打つ鼓動を少しずつ落ち着かせると、真っ直ぐにロサを見つめた。
「ロサ・ポリアンテス、お前の話を聞かせてくれ」
「随分情熱的な台詞ですね?まるで尋問ではなく、殺人鬼を理解しようとしているようだ。……それが何を意味するのか。貴方ほどの刑事であれば、もう理解しているのでしょう?」
コランダムは口を固く閉ざしたまま、ロサを静かに見つめていた。
「……良いでしょう。では、お話しますよ。【薬瓶の芸術家】と呼ばれた男についての物語を」
語り始めるロサの言葉を書き記すために、コランダムは手帳とペンを取り出し、構えた。尋問室には、ロサの語る声と、コランダムが紙の上を走らせるペンの音が静かに鳴り響いていた。
青年は誰よりも母を愛していた。その想いは、母の夫である父親すら凌ぐほどのものであった。そして、青年自身も母に対する重すぎる愛情を自覚していた。
(……お母様、今日も麗しいですね……)
青年の瞳の中には、一人の女性だけが映し出されていた。彼女は青年と同じダークブラウンの髪と緑色の瞳を持ち、白衣に身を包んでいた。
「もう大丈夫よ、安心してね」
彼女は患者の手を両手で包み込むと、優しく微笑みかけた。
「アガヴェル先生……。ありがとう、ありがとうっ……!!」
手を握られた患者は涙を零し、頭を何度も下げていた。青年は、アガヴェルの美しい笑顔がこの世で最も好きであった。
(私も……お母様のような人に近付けたら、お母様は私を見てくれるのだろうか……?)
青年は医学書を抱いている力を少しだけ強めた。
(まだ私は医者として未熟な学生。お母様の横に並ぶのも烏滸がましいですね)
青年は深く息を漏らした。
「あら?ロサ、こんなところで何をしているの?」
聞き慣れた声がロサの鼓膜を揺らすと、ロサは俯いていた顔をゆっくりと上げた。
「お母様」
「大学の授業は午前だけだったの?」
「はい。帰って課題を進める前にお母様にお会いしたいと思いまして」
ロサがアガヴェルの言葉に頷くと、アガヴェルは嬉しそうに微笑み、ロサの頭を優しく撫でた。
「嬉しいことを言ってくれるのね。大学の先生から成績優秀で非の打ち所のない生徒だとお話を頂いたわ。ノハルト総合病院への推薦を受けたこともね。貴方は私の自慢の息子よ、ロサ」
「もったいないお言葉です、お母様」
「これからも頑張ってね」
アガヴェルがそう話すと、遠くの方で看護師がアガヴェルを呼ぶ声が聞こえた。
「今行くわ」
短く返事をしたアガヴェルは、撫でていた手をそっと離した。
「じゃあ、課題頑張ってね」
「はい」
母の体温を名残り惜しく思う気持ちを抑え、ロサはアガヴェルの言葉に頷いた。
(これ以上、お母様の邪魔をしてはいけませんね……)
自分に背を向けて歩き去っていくアガヴェルの背中を見送りながら、ロサはそう思い直した。やがて、アガヴェルの姿が廊下の向こうへと溶け込むと、自宅へと足を向けた。
自宅へと戻ったロサを背の曲がった老婆が出迎えた。老婆は屋敷の使用人よりも少し年季の入ったエプロンドレスを身に纏い、白髪だらけの髪は丁寧に結い上げられていた。老婆はロサの姿が目に入ると、穏やかな笑みを浮かべ、頭を静かに下げた。
「お帰りなさいませ、ロサお坊ちゃん」
「ただいま、カレンデュラ」
頭を上げたカレンデュラが両手を差し出すと、ロサは持っていた鞄を預けた。
「大学でのお勉強はいかがでしたか?」
「教授の話は興味深いものが多かったよ。それに、クラスメイトとの議論も勉強になった」
「あらまぁ、それは良かったですわね」
カレンデュラはロサから上着を受け取ると、嬉しそうに微笑んだ。
「これから、いかがなさいますか?」
「大学の課題を済ませるよ。夕食までには済ませるから、その時呼んでくれるかい?」
「かしこまりました。では、後からロサお坊ちゃんの好きな紅茶をご用意しておきますね」
「助かるよ、カレンデュラ」
カレンデュラとの何気ない会話を済ませたロサは自室へと足を運んだ。自室で一人になると、ロサはデスクへと向かい、椅子に座った。そして、机の二番目の引き出しからアガヴェルの写真を取り出すと、写真の中で優しく微笑むアガヴェルの頬を指先でそっとなぞった。
(やはり、お母様は麗しい……)
ロサは感嘆に近い息を漏らし、恍惚とした笑みを浮かべた。そして、指先でアガヴェルの唇をなぞり、言葉を漏らした。
「……お母様……」
ロサはアガヴェルの唇にそっと自らの唇を重ね合わせた。その感触は無機質ではあるものの、ロサの心を満たしていくには十分であった。そして、この至高の一時はロサの日課でもあった。
至高の一時を過ごし終えたロサは、写真を二番目の引き出しへしまった。すると、部屋の扉を軽やかに叩く音が響いた。
「ロサお坊ちゃん、わたくしでございます」
「カレンデュラか。入っていいよ」
ロサは声の主がカレンデュラだと分かると、部屋へ入るように促した。
「失礼します」
カレンデュラが部屋へ足を踏み入れると、焼き菓子の甘い香りと紅茶の華やかな香りがふんわりと部屋中へ広がった。
「いい香りだね」
ロサはカレンデュラに手渡されたティーカップから立ち上がる紅茶の香りを楽しみながら、言葉を漏らした。
「ロサお坊ちゃんのお好きなアールグレイでございます。今朝、良いバターが入りましたので、焼き菓子はバタークッキーにいたしました」
「良い組み合わせだね。さすがだよ、カレンデュラ」
「ホホホ、ロサお坊ちゃんは人を褒めるのがお上手ですわね」
カレンデュラは嬉しそうに目尻の皺を深めた。
「本当のことを言っただけだよ」
「そのお言葉、有り難く受け取らせて頂きますわね。では、引き続きお勉強を頑張って下さいまし」
カレンデュラは丁寧に頭を下げると、静かに部屋を後にした。ロサは完璧に揃えられたティーセットを見つめた。
「……窮屈だな」
自らの呟きにハッとしたロサは、口元に手を当てた。
「……少し疲れているのかな」
苦笑混じりにそう続けると、ロサは机の上に大学の課題を広げた。そして、何かから逃げるように、紙面へペンを走らせた。
幸せの時間が壊れる時は、あまりにも呆気なかった。アガヴェルは、ロサの日課を目の当たりにしてしまったのであった。
「どうしてなの!?ロサ!!どうしてっ……!」
アガヴェルは悲しみと苦しみに顔を歪ませ、耐えきれなくなった涙が頬を伝った。これほどまでに乱れた母の表情をロサは一度も見たことがなかった。
「お、お母様……。わ、私はっ……!」
「黙りなさい!!」
アガヴェルの右手がロサの左頬を打ち、乾いた音が部屋に響いた。
「ぇ……?」
遅れて訪れた焼けるような熱と痛みが左頬に広がり、ロサをじわじわと蝕んでいった。
「お母様……?」
ロサは震える声でアガヴェルを呼び、手を伸ばした。
「触らないで!汚らわしい!」
アガヴェルは伸ばされた手を叩き落とすと、怒りと恐怖の混じった目でロサを睨みつけた。
(……なんだ、この醜い生き物は)
怒り狂うアガヴェルの顔を、呆然と眺めながらロサは心の中で呟いた。
「違う、違う……私のお母様はこんなものじゃ……」
「……ロサ?」
「絶対に、『こんなもの』ではない!!!」
ロサの怒鳴り声とも嘆き声とも受け取れるような悲痛な叫びに、アガヴェルはビクリと体を震わせた。
「私のお母様は、優雅で、上品で、誰よりも優しく、何よりも美しい……」
「い、いや……来ないで……」
ゆらりゆらりと近付くロサから逃げる為に、アガヴェルは後ろに一歩、また一歩と退いていった。
「だからこそ、この想いは胸の奥にしまっておいたというのに……」
「ひっ……」
アガヴェルの背中に部屋の扉が触れた。アガヴェルはすぐにロサに背を向けて、ドアノブへと手をかけた。
「……お母様」
いつの間にか距離を詰めていたロサは、アガヴェルのドアノブを握る手に自分の手を重ね合わせた。
「私を……『お母様』と呼ばないで……」
「……分かりました。では、愛しのアガヴェル」
ロサは、ドアノブを握るアガヴェルの手を優しくドアノブから引き剥がすと、その指に自らの指を絡め合わせた。
「私は、貴方がこれ以上醜くなるのを耐えられそうにありません」
「何を言って……?」
震える声で問いかけるアガヴェルの腰に、チクリと何かが刺さる痛みが走った。アガヴェルが腰へと視線を落とすと、既に中身が空になった注射器が視界に入った。注射器は手慣れた手つきで抜かれた。視界はゆっくり霞み始め、体からは何かが抜け落ちていくように力が失われていった。
「バルビツール酸誘導体。優秀なアガヴェルであれば、ご存知でしょう?お守りとして、病院から薬瓶を拝借していたんです」
「どう……して……?」
視界が少しずつ霞んでいく中、アガヴェルはロサに問いかけた。
「どうして?美しいものは美しいままにしておきたい、当然のことでしょう?」
「ロ……サ……」
「なんですか?愛しのアガヴェル」
ロサは、今にも崩れ落ちそうなアガヴェルの腰に、静かに手を回した。
「どぉ……して……」
「私も愛していますよ、アガヴェル」
ロサの穏やかな微笑みを最後に、アガヴェルは意識を手放した。グッタリと完全に力を失ったアガヴェルをロサは抱き締めると、まだ温もりの残っている唇をなぞり、重ね合わせた。
「あぁ……やはり、貴方は美しい……」
徐々に失われていくアガヴェルの温もりを確かめるように、ロサは抱き締める力を強めた。
ロサが【薬瓶の芸術家】について語り終えると、コランダムは息を呑んだ。
「……つまり、愛するが故に殺した、と?」
「そうとも言えますね」
「何故、愛しているのに殺せたんだ?愛しているのなら殺せないだろう……?」
コランダムの言葉を聞いたロサは、嘲るように鼻で笑った。
「そんな単純なものを、愛と呼ぶことはできませんよ?コランダム刑事」
「なんだと?」
コランダムは眉をひそめ、ロサを見つめた。
「愛しているからこそ、最も美しい姿のままで保存して差し上げたかったのです。醜いのが嫌いなのは女性にとっても同じことでしょう?私は母に……いいえ、アガヴェルには美しいままであって欲しいと願ったまでですよ」
「……後悔は、無いのか?」
「愚問ですね」
微塵も後悔の色を見せないロサを見て、コランダムは静かに目を伏せた。
「他に聞きたいことはありますか?例えば、フリティラリアについてのお話とか」
「……知っているのか?」
「えぇ。彼女が黒百合として咲くのを見ていましたから」
ロサが楽しそうにクスクスと笑う様子に、コランダムのペンを握る手には、無意識に力がこもった。
「……彼女が何故フリティラリアと名乗るのか、話してもらえるか?」
「もちろん、構いませんよ。彼女の苦しくも美しい愛の物語をお聞かせしましょう」




