二部 第七章 十二月三十日
ロサがアトリエを後にしてから一日。彼が再びアトリエに姿を現すことは無かった。
「結局、帰っては来なかったわね……」
リリーがダイヤの標本瓶を指先で軽くつつくと、液体の中でゆらゆらと瞳が揺れた。薄暗いライトに照らされているせいか、まるで、まだ生きているかのようであった。
「……まぁ、満足そうに話していたものね」
リリーは静かに瞼を下ろした。昨日のロサの姿が少しずつ浮かび上がった。母の標本瓶を見つめ、昔について語る姿、自分のことを未完成だと評した時の表情、アトリエを後にする前の背中……。
(……勝ち逃げされたようで、不快だわ)
リリーは小さく息を吐くと、瞼を上げた。すると、自分の瞳に差し込むライトが妙に眩しく感じられ、少し目を細めた。
「理想が叶った程度で満足できてしまうなんて、羨ましい人……」
リリーは静かにそう呟くと、自分の胸に手を置いた。
「……私はずっと、渇いたままなのに……」
胸の奥に渦巻く何かを感じながら、そっと胸元から手を離した。標本瓶の並べられた棚に背を向けると、机の上に置かれた開きっぱなしの日記に視線を向けた。開かれていたページには新しく内容が記されていた。
【十二月三十日。雨。私ね、ずっと悩んでいたの。人殺しの私が刑事さんと一緒になれるようになるにはどうしたら良いのかしらって。だから、決めたの。きっとロサ先生は刑事さんに私の事を教えてくれるはずだから、伝えようと思うの】
日記の内容に目を通すと、リリーは日記を閉じた。胸に渦巻く何かを落ち着かせるように、日記を抱き上げると薄く微笑んだ。
「これは、ここにあるべきじゃないわ」
リリーは日記を抱えたまま、アトリエの出口へと歩いて行った。ドアノブに手をかける直前でピタリと動きを止め、振り返った。
「……また、来るわね」
誰もいないアトリエに向けて言葉を残すと、扉を開き、その場を後にした。静かになったアトリエに雨音だけが響いていた。
ロサのアトリエを後にしたリリーは、雨に濡れることも気に留めず歩き続けた。
(日記はなるべく濡れないようにしないと駄目ね……)
腕の中に眠る日記を抱え直しながら、リリーは貧民街グルコン・フィールドへ続く路地に入って行った。路地を少し進むと、見覚えのある姿が視界に入った。
(この子は……)
リリーは静かに身を屈めると、体を丸めた小さな背中に手を置いて、優しく声をかけた。
「こんなところで寝ていたら風邪を引くわよ?」
しかし、相手からの返事は無かった。背中に置いた手にも、反応は返って来なかった。少し目を見開くと、残念そうに目を伏せた。背中に置いていた手を肩へと移動させ、そのままそっと胸に抱き寄せた。
「……やっぱり、貴方だったのね……」
雨に濡れた顔を優しく撫でながら、リリーは表情を変えることなく見つめていた。雨音と共に、少年の声が響いた。
『新聞、銅貨一枚でいかがですか?』
『一部、頂こうかしら』
『ありがとうございます!』
『はい。銅貨一枚ね』
『こんな薄汚いところだと中々売れないでしょう?ヘイヴン市警辺りだと人が多いはずだから、そこまで行くと良いわ』
『そ、そうなの?』
『えぇ。ここだと助けを呼べないもの。ヘイヴン市警前は、下手に悪さできないからオススメよ』
『わ、分かった!行ってみるよ!』
『えぇ』
少年の手から一枚の銅貨と五枚の銀貨が零れ落ち、カラカラと音を立てた。音に導かれるように、転がった硬貨へと視線を向けた。転がった硬貨と、少年の内出血だらけの顔。そして、切り傷だらけの手足が全てを物語っていた。
「……馬鹿な子ね」
リリーは少年の体が壁にもたれるように寝かせると、少年の顔を優しく撫でた。指先に伝わる冷たさが、雨によるものなのか、少年によるものなのか分からなくなっていた。そっと手を離すと、リリーはもう一度少年に語りかけた。
「……寒かったでしょう?もう寒さに凍えなくて済むわ。ここよりはきっと、温かい場所だもの」
静かに立ち上がり、路地の奥へと歩みを進めた。先ほどまで気にならなかったはずの雨音が、やけにうるさくリリーの耳元で響いた。
雨の降り注ぐ路地を抜けると、閉ざされていた視界が歩みを進める度に開けていった。その先には、『フラワーショップ・リリー』の小さな看板を下げた花屋が佇んでいた。
「一日しか店を空けていないはずなのに、不思議ね……」
そう呟くと、リリーは濡れた手で店の扉を開いた。チリリンという軽やかな音色が店内に響き、甘ったるいチューベローズの香りが出迎えた。
「……もう、ロサ先生ってば、好き勝手して……」
香りに顔をしかめつつ、店内へと足を踏み入れた。ぽたぽたと水滴を垂らしながら店内を見渡すと、視界に飛び込んできたのは店内を埋め尽くすほどのチューベローズだった。
「……最低」
リリーは眉を寄せると、深いため息を吐き出した。そのままチューベローズから視線を外すと、店の奥にある作業部屋へと足を運んだ。作業部屋への扉を開いた先には見慣れたいつもの光景が何事も無かったかのように待っていた。
「ここには何もしていないようで安心したわ……」
作業台に日記を置くと、静かに目を細めた。
「……これで、私の用事はおしまい」
リリーは、ゆっくりと作業部屋全体を見渡した。手入れ用のハサミ、花束用のリボン、そしてラッピングペーパー。どこの花屋でも見られる、ただの作業部屋には妙に静けさが飽和していた。
「……もう来ないかも、なんて思うと不思議な感じがするわね」
少し目を伏せ、胸に手を当てた。指先から伝わる自分の鼓動が落ち着けるようにと脈打つのを感じ取った。
「……そろそろ行かないと」
その言葉に背中を押されたかのように、リリーは振り返ることなく『フラワーショップ・リリー』を後にした。
リリーは窓を叩く雨音に耳を傾けていた。あんなにもうるさく響いていたはずの音が妙に心地良く鼓膜を揺らしていた。
(早く会いたいわ、刑事さん……)
まるでその呼びかけに応えるかのように、リリーの背後にある扉はガチャリと音を立てて開かれた。リリーは背中に伝わる温かな視線を感じ取ると、振り返った。
「待っていたわ、刑事さん」
いつものように微笑んで見せると、コランダムは息を飲んだ。
「リリー……」
掠れた声で名前を呼ぶコランダムは、赤く輝く瞳を悲しげに揺らした。
(あぁ、そんな顔しないで……?)
リリーは僅かに痛む胸を優しく撫でながら、言葉を紡いだ。
「刑事さん。私ね、ずっとずっと悩んでいたのよ?」
「悩んでいた?」
「えぇ。刑事さんはね、私が【黒百合の殺人鬼】だって知ったらきっと、私を止めようとすると思ったもの」
その言葉を聞いたコランダムは、目を大きく見開いた。
(刑事さん、貴方って優しい人……。本当に私を止めに来ようとするなんて……)
コランダムの優しさがじんわりと伝わってくるのを感じるのと同時に、リリーの胸は締め付けられていった。
「でもね、私は人を殺すことを止められないの。刑事さん、貴方の望むようなレディにはなれなかったの……」
そう言葉を続けた瞬間、締め付けられていたはずの胸が鷲掴みにされたかのような感覚を覚えたリリーは、悲しげに顔を歪めた。視界の端でコランダムが手を伸ばしていた。
(……ごめんなさい、刑事さん)
リリーはコランダムに気付かれないようにそっとナイフを抜いた。
「だから、悩んでいたのよ……?刑事さん、貴方とずっと一緒にいるためにはどうしたら良いのかしらって……」
悟られないように話すリリーは気が付いた。コランダムの手がピタリと止まったことに。
(あら……?ばれちゃったかしら?)
コランダムは咄嗟に伸ばした手を引っ込め、半歩後ろに体を引いた。警戒態勢に入ったコランダムを見たリリーは、少し目を伏せた。
(……やっぱり、ばれちゃうのね)
コランダムはリリーを見つめた。リリーは微笑んで見せるが、コランダムの視線が手元へと僅かに落ちたのを感じると、小さく息を吐いた。
(一撃で済ませるつもりだったのに……。残念ね)
コランダムは一歩後ろへ退いた。次の瞬間、ナイフの刃は彼の頬を掠めた。
「あら……避けられるのね。流石刑事さんだわ」
リリーは振り上げていたナイフをゆっくりと下ろした。
「リリー……」
「私ね、分かったの。私と刑事さんは一緒にはいられないって。だってそうでしょう?人々を守るために動く刑事さんは花屋のリリーが好きなだけで、【黒百合の殺人鬼】が好きなわけじゃないもの」
リリーの言葉に、コランダムは言葉を詰まらせた。
「だから、刑事さん。選んでちょうだい?花屋のリリーのために【黒百合の殺人鬼】を殺すか、【黒百合の殺人鬼】の被害者の一人になるか、をね」
リリーはナイフの刃をコランダムに向けた。ナイフには頬を掠めた時に付着したコランダムの血と彼に向かって微笑む【黒百合の殺人鬼】の姿が映し出されていた。
(これが、私なのね……)
少し目を伏せた後、すぐにリリーはコランダムを見つめた。コランダムの顔には、『争いたくない』という気持ちが滲んでいた。
「リリー、俺は……!」
僅かに訪れた静寂を破り、コランダムは説得しようと口を開くが、リリーは躊躇うことなく急所に向けてナイフを突くように振った。
「っ……!」
コランダムは迫る刃を避けた。しかし、またもや刃が顔の脇を掠めた。
(あくまで反撃はしないのね……)
リリーはナイフを瞬時に持ち替えると、今度は横に振った。ナイフを避けるために体を後ろに仰け反らせたコランダムの隙をリリーが見逃すことは無かった。一気に距離を詰め、勢いに任せて押し倒した。
「本当に……。刑事さんったら優しいんだから……」
逃げ場を奪うために馬乗りになったリリーは、寂しそうに呟き、ナイフをコランダムの胸に押し当てた。
(これで……終わるのね……)
「リリー……俺は君にずっと聞きたかったことがあるんだ……」
コランダムの静かな声に、ゆっくりと押し出していた手をピタリと止め、耳を傾けた。
「何かしら?」
「どうして、人を殺すんだ……?」
その問いかけはリリーの胸をドクンと脈打たせた。
(どうして……?)
リリーは自分が初めて殺人を犯した日の出来事を思い返した。
(……どこから話したらいいのかしら……)
数秒迷った末に答えを語るリリーの声は酷く静かなものだった。
「私ね、生まれつき色が見えないの」
「え……?」
「昔から世界がモノクロだったの。色の濃淡で区別がつくようになって、生活に支障はそんなになかったわ。まぁ、元々グルコン・フィールドなんて綺麗な街じゃなかったんだけど……。でもね、ずっと気になっていたのよ。皆の言う赤、青、黄色、緑……どんな色なんだろう?どのくらい綺麗なのかって……」
リリーを射抜くように見つめていたコランダムの瞳が大きく見開かれた。
(そういえば、この話をしたのは初めてね……。ずっと一緒にいたのに、変な感じ)
少し胸の奥がくすぐられるような感覚を覚えながら、リリーは言葉を紡ぎ続けた。
「初めて人を殺した時に初めて色が見えたのよ。本当に綺麗で……感動して泣いちゃったのを覚えているわ」
「初めて、見えた色……?」
「えぇ、とっても綺麗な赤色よ」
凍り付いたような表情を浮かべるコランダムとは裏腹に、リリーは当時を思い浮かべて頬が熱くなるのを感じた。
「色が初めて見えた時に初めて私は生きていることを実感したの。生命に燃える赤は私を生かしてくれるの」
「赤色は他にもあるはずだ。人を殺す必要なんて……」
戸惑いを隠せないコランダムの問いに、リリーは寂しそうに目を伏せて答えた。
「人の血以外の赤はね……一つの例外を除いて全部見えないの」
「一つの例外……?」
「貴方の赤い瞳の赤よ」
コランダムは言葉を失った。徐々に苦しそうに歪めていくコランダムの顔に、リリーはそっと触れた。
「刑事さん、そんな顔をしないで……?貴方の瞳を見ている時だけ……ほんの少しの間だけ、人殺し以外で私は生を実感できたの」
蜜のように甘いリリーの言葉を振り払うように、コランダムは首を横に振り、突き立てられたナイフの刃を掴んだ。
「あら……」
刃を掴んだことで、熱く赤い血がコランダムの手を伝った。力比べでは敵わないと頭では分かっていながら、リリーはその様子に目を背けずにいた。
「……俺は、君が好きだ」
コランダムはリリーを真っ直ぐ見つめて、言葉を押し出した。
「だから、君が告白をしてくれたあの夜から……ずっと考えていた。君を止めるためにはどうすれば良いのかを……」
「……そう」
「だが、それが……君を傷付けていた。俺が正しくあろうとすると……君はいつも悲しそうにしていた」
リリーは目を見開いた。コランダムの瞳が眩しいくらいに赤く輝いていた。
(綺麗……)
初めてコランダムの瞳を見たあの日のように、リリーは赤く輝く瞳に見惚れてしまった。
「……油断しちゃったわね」
気が付くと目の前の視界が反転し、コランダムに押し倒されていた。そのことを認識したリリーは静かにナイフから手を離した。
「刑事さん、私は人殺しを止められないわ」
「あぁ……」
コランダムはナイフを握り直した。
(こんな終わり方も、良いのかもしれないわね……)
ナイフの柄をしっかりと握るコランダムを見て、リリーは静かに終わりを悟った。正義感に溢れた目の前の男を少しでも後押しするために言葉を紡いだ。
「きっと、ここで見逃せば人殺しをするわ」
「そうだな」
「ロサ先生にベリルさんを殺すように言ったのは私よ」
「知っている」
二人の淡々とした声が部屋の中に響いた。
リリーは優しく微笑みながらコランダムを見上げていた。まるで恋人に話すように。
「他にもいっぱい人を殺したの」
「分かっている」
コランダムは静かに悲しげな表情でリリーを見下ろしていた。どうしようもない状況を嘆くように。
「ねぇ、刑事さん。お願いがあるの」
「なんだ?」
「私を殺してくれないかしら?」
コランダムは表情を変えることなく、リリーを見下ろしたままナイフを振り上げた。その赤い瞳から一筋の涙が零れた。リリーは嬉しそうに微笑み、全てを受け入れるように両手を広げた。
「愛しているわ、刑事さん」
「俺もだ」
嬉しそうな表情のまま、リリーは瞳を閉ざした。コランダムは勢い良くナイフを振り下ろした。
コランダムの振り下ろしたナイフは、リリーに刺さることはなかった。リリーはゆっくりと目を開けると、真横に刺さったナイフが視界に入った。
「……俺と一緒に行こう、リリー」
コランダムは静かにそう告げるとリリーの両手に手錠をかけた。
「本当に優しい人ね。刑事さん」
手錠の冷たさを感じつつ、リリーは皮肉を口にした。その言葉を聞いたコランダムは自虐的に微笑んだ。
「……でも、貴方に捕まるっていうのも悪くないものね」
そう言葉を続けると、リリーは結婚指輪にキスをするように手錠にキスをした。
「……君には聞きたいことが山積みだ」
静かにリリーの様子を見ていたコランダムは、リリーの手を取るとゆっくりと立たせた。リリーはコランダムの言葉に頷くと、からかうようにコランダムを見つめた。
「なんでも話すわ。でも、刑事さん以外は嫌よ?浮気者って思われたくないもの」
「分かった。できる限り、俺が君の話を聞こう」
「できる限りなのね……。刑事さんとだけ話したいのだけど……」
リリーは甘えるような視線をコランダムに向けながら話すが、コランダムは首を横に振った。
「そこまでは約束できない」
互いの言葉は、罪と手錠の間で、それでも甘く絡み合っていった。アトリエを出る直前にコランダムはリリーに問いかけた。
「君は……なんで黒百合を事件現場に残していたんだ?」
「刑事さんに私を見つけてもらうためよ」
「俺に……?」
コランダムは首を傾げた。
「きっと、刑事さんは私が黒百合を残すのには何かしらのメッセージがあると分かってくれると思っていたもの」
楽しそうに話すリリーの後ろをコランダムは追うようについて行った。
「メッセージ……?」
「えぇ。ロサ先生のメッセージカードみたいなものよ」
「ロサ・ポリアンテスのメッセージカードみたいな……」
コランダムはリリーの話を聞いて、考えるように顎に手を添えた。
「黒百合は挑発じゃなかった……ということか?」
「まぁ、失礼ね」
コランダムの言葉にリリーは少し頬を膨らませて返した。激しく降る雨の中、二人の間に流れる空気は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。




