二部 第六章 十二月二十九日
【十二月二十九日。 曇り。 昨日、アナス先生のお部屋に行ったら、アナス先生ったら刑事さんをいじめていたのよ?私、許せなかったからアナス先生にお仕置きしたの。 だって、私の大切な人をいじめるなんてあり得ない!そうでしょう?】
いつものようにリリーは日記にそう記し、ペンを置いた。 静かに辺りを見回すと、そこはいつもの作業台ではなかった。 名前の分からない薬品ばかりが置かれた棚、不気味な程に綺麗に手入れがされた刃物の数々、錆びた鉄の香りを充満させる大きなガラス瓶に入った液体などがそこにはあった。
「そう言えば、私ロサ先生のアトリエで刑事さんを待つことになったのよね……」
リリーはポツリと独り言を漏らしながら、腰かけていた椅子から立ち上がり、特に理由もなく歩き出した。 リリーの店の作業台とは全く違う雰囲気を出しているロサのアトリエにリリーは新鮮さを覚えながら、周囲を観察した。
「私の趣味ではないけど…… ロサ先生のアトリエってこんな感じなのね……」
そう呟きながら、厳重に保管されている標本瓶が並べられた棚に目を向けた。 瓶の中には人の体の一部と思わしきモノが保存用の液体と一緒に入れられており、瓶には女性の名前が書かれたラベルが貼られていた。
「これは……」
並べられた瓶の中では比較的に貼られているラベルが新しく、液体に濁りのない綺麗な標本瓶を見つけたリリーはラベルの名前を確認した。
【ダイヤ・ホープ】
ダイヤの瓶には液体の中にくり抜かれた目玉が保管されていた。
「……ごめんなさいね、ダイヤさん。 でも、貴方とお話したかったのは本当のことよ……?」
標本瓶に語りかけるようにリリーは呟いた。 ゆらゆらと薬品の中で揺れる目玉が何かを訴えるようにリリーを見つめた。 リリーはダイヤの目玉を見つめ返し、静かに目を細めた。 そして、合わせていた視線を逸らすように、他の標本瓶へと目を向けた。
「これは……?」
棚の最上段の隅に置かれた標本瓶にリリーは目を奪われた。 標本瓶の中に入った液体は濁っており、貼られていたラベルも劣化して剥がれかけていた。 掠れた文字に記載されていた名前をリリーは読み上げた。
「……【アガヴェル・ポリアンテス】……」
「それは、母の標本瓶です」
リリーは背後から聞こえるロサの声に振り返ることもなく、アガヴェルの標本瓶を見つめ続けた。 瓶の中に浮かぶ指は、親指よりも細く、小指よりも短い。 しかし、中指のように長いものでも無かった。 リリーは瓶の中に入っている指を予想するように呟いた。
「……人差し指かしら」
ロサはゆっくりとリリーの横に歩み寄ると、リリーの予想の答え合わせをするように瓶の中に浮かぶ指の正体を告げた。
「……いいえ。左手の薬指です」
ロサはそう言うと、アガヴェルの標本瓶を慎重に棚から取り出した。ラベルに書かれた名前をそっとなぞる指先は、どこか生前の母の体温を求めるようであった。
「……お母様を愛していたのね」
愛しい人を見るように標本瓶へ優しく微笑みかけるロサを見つめて、リリーはロサに言葉を落とした。
「えぇ、愛していましたよ。 一人の女性として」
「……そう」
実母を女性として愛していたというロサの言葉に対して、リリーは口を開くことはせずに小さく目を伏せた。
「……拒絶されたのですよ」
そう告げるロサの言葉がアトリエ内に重く響いた。ロサはアガヴェルの標本瓶を覗き込むように、頭の上まで持ち上げた。中の液体がちゃぷんと水音を立て、水面に波紋が広がった。
「……それで、殺したの?」
ロサは、ほんの僅かに間を置いてから、静かに首を縦に振った。そして、持ち上げていた標本瓶をそっと下ろした。そして、近くのテーブルに優しく置くと静かに話し始めた。
「……私の母は美しく、上品で、誰にでも優しい女性でした。白衣の天使という言葉は私の母の為にあるような……そんな女性でした」
まるで懺悔でもするかのように、ロサは自分の胸に手を置いた。しかし、行動とは裏腹にロサの表情は満ち足りたものであった。
「じゃあ、どうして殺したのかしら。私、ロサ先生が理由もなく殺すような人に思えないわ」
「……魅了されてしまったのですよ。命を奪うことでしか完成しない芸術に」
「命を奪うことでしか完成しない芸術……?」
リリーはロサの言葉を反芻した。
「そうです。何も映さなくなった瞳、冷たく血の気が引いた白い肌、そして老いることのない肉体……。母を殺めてしまった時に罪悪感と後悔が無かったわけではありません。しかし、それを上回る感動を手にしてしまいました。それを捨て去ることなど、私にできなかったのです」
自らの心臓を鷲掴みするような勢いでロサは胸元のシャツを握りしめた。
「……情熱的なのね、ロサ先生」
「失礼。少々熱が入りすぎてしまったようですね」
「大丈夫よ。趣味は違うけど、私が刑事さんを想うことと……似ているのかもしれないわね」
リリーは静かにそう話すと、テーブルに置かれたアガヴェルの標本瓶をそっと撫でた。
「……冷たいわね」
そう呟いて標本瓶から手を離した。指先に残ったひんやりとした感覚を味わっていると、視界の隅に空の標本瓶と新しいラベルがあることに気が付いた。ラベルに視界のピントを合わせると、ラベルには既に名前が記載されていた。
【リリー・フリティラリア】
リリーは、すぅっと目を細めてロサにも聞こえる声で呟いた。
「素敵な告白ね」
「……見つかってしまいましたか」
ロサはアガヴェルの標本瓶を棚に戻すと、今度は空の標本瓶を手に取り、ラベルを丁寧に貼り付けた。
「ロサ先生の作品に選ばれるなんて、光栄だわ」
「……貴方にそう言って頂けるとは」
「もちろんよ。先生の作品は素敵なものばかりだもの」
リリーはロサの言葉に頷き、ロサの手の中にある空の標本瓶をじっと見つめながら言葉を続けた。
「この瓶には一体何が入るのかしら」
ロサに目配せをするようにリリーはロサに視線を向けた。
「それはまだ決めていません。……いえ、決めかねているという方が正しいでしょうか」
ロサは一度リリーと視線を合わせた後、標本瓶に視線を戻し、蓋を閉めた。
「あら、それはどうして?」
「まだ、未完成な状態なので」
「……未完成?」
リリーは首を少し傾けた。リリーの冷ややかな視線を気にすることなく、ロサは楽しそうに微笑んだ。
「えぇ、未完成です」
「そう……。完成することはあるのかしら……?」
リリーは少し目を伏せて呟いた。
「咲かない花はありませんよ」
ロサは、標本瓶をテーブルに置いた。ことんという硝子の音が二人の鼓膜を心地よく揺らした。標本瓶を置く音を合図に、ロサとリリーの間に静寂が漂った。
「……リリーさん、気になっていたことを伺ってもよろしいでしょうか」
「何かしら、ロサ先生」
「何故、ベリル・アクア刑事を私に殺させたのですか?」
リリーはじっとロサを見つめた後、静かに口角を上げて答えた。
「……愛し合う人達の仲を引き裂くことなんて、私にはできないわ」
ロサはリリーの言葉を受け止めると、眼鏡の奥から覗く瞳を微かに揺らした。
「……そうですか。実に心優しいリリーさんらしい理由ですね」
「気に入って頂けたかしら?」
「私はてっきり……いえ、止めておきましょうか」
ロサは首を軽く横に振ると、くるりと身を翻した。その拍子に白衣がバサッと揺れ、ふんわりとチューベローズの甘い香りがリリーの鼻をくすぐった。
「……もう行くの?」
「えぇ。あまり長居しても仕方ありませんから」
リリーの言葉をロサは振り返ることなく受け止めた。
「……ロサ先生」
「どうしました?」
「……刑事さんのこと、お願いね」
リリーはロサの背中に向けて、託すように話した。
「……仰せのままに」
ロサはそう言い残すとアトリエを後にした。
ロサの背中を見送ったリリーは、静かにため息を漏らした。
「……ロサ先生ってば、やりきった顔しちゃって……」
そう呟くと、リリーはテーブルの上に置かれた空の標本瓶を手に取り、標本瓶のひんやりとした硝子を手に感じながら目を閉じた。すると、リリーの頭の中でロサの言葉が次から次へと流れた。
『それはまだ決めていません。……いえ、決めかねているという方が正しいでしょうか』
『まだ、未完成な状態なので』
『咲かない花はありませんよ』
リリーはふっと鼻で笑うと、手の中にある標本瓶を滑り落とした。宙を舞う標本瓶は冷ややかな表情を浮かべるリリーの姿を映し出したかと思うと、そのまま地面に叩きつけられた。標本瓶に映ったリリーは無数に砕かれ、消えていった。
「貴方のために咲いてあげるつもりはないのよ?ロサ先生」
リリーは砕かれた硝子片を見下ろしながら、そう呟いた。
「それに、私の命はとっくに先約が入っているもの」
リリーはそう続けると、コランダムのことを思い浮かべた。正義に燃える赤い瞳を思い浮かべるだけで、リリーの胸が高鳴った。体が少し熱くなるのを感じながら、硝子片を踏みつけ、リリーは日記を記していた場所へと戻った。
「もうすぐ……もうすぐよ、刑事さん」
日記の表紙を撫で、革の感触を楽しんだ後にリリーはページを一枚一枚捲った。ページを捲る度に当時のことが鮮明に思い浮かんだ。そして、リリーは、あるページにたどり着くと嬉しそうに微笑んだ。
【十二月三日】
記された日記の内容に目を通しながら、リリーは愛おしそうに指先で文字列をなぞった。
『必ず犯人を見つけ出す』
当時、コランダムがリリーに向けて放った言葉を思い浮かべて、リリーはパタンと日記を閉じた。胸の内側から溢れる想いを表すようにそっと革の表紙にそっと口付けを落とした後にリリーは呟いた。
「……早く、見つけ出してね。刑事さん」




