二部 第四章 十二月二十五日
事件から二十二日が経過し、とうとうクリスマス当日となった。リリーはいつものように、まだ太陽が顔を出さない程に暗い朝から開店準備を行っていた。
「とうとう……この日が来たのね……」
リリーはそう呟いた後にカレンダーの日付をそっと指でなぞった。店に来るように誘った時のコランダムが見せた表情を思い出し、嬉しそうにほぅっと息を漏らした。
「今日はきっと特別な日になるわ……」
そう言葉を漏らしたリリーは、カレンダーから視線を逸らして開店準備を続けた。まるでステップでも踏んでいるかのように軽やかな足取りで店の花を並べていくと、チリリンという呼び鈴の音が聞こえた。リリーが店の扉の方へと目を向けると、目の下に深いクマを作りながらも恍惚な表情を浮かべているロサの姿があった。
「おはようございます。リリーさん」
「あら、ロサ先生。早かったのね」
「はい。この日に合わせていましたから」
ロサはそう話すと両手の指先だけを合わせて嬉しそうにリリーに告げた。
「最高のものをこの聖なる日に用意できました……。これほどの喜びはありませんよ。リリーさん、貴方の協力に感謝しなくては」
「……そう。お役に立てたなら良かった。私も準備ができたの。ロサ先生、手伝ってくれるかしら?」
「もちろん。断る理由がありません」
快くリリーの言葉に頷くロサにリリーは薄く微笑んだ。何故か強烈に感じるチューベローズの香りに吐き気を覚えながら。
「私はそろそろ病院へ行きますね。本当はリリーさんにも見てもらって感想をもらいたかったのですがね……」
ロサは用意したものが見せられないのを心底残念そうに話した。
「あら、それは残念ね。けど、私このサプライズが成功するか不安なの。だから今回は遠慮させてもらうわね?」
「そうですか。分かりました」
「そういえば、病院に飾るんですってね。チューベローズ」
リリーはそう言うと、チューベローズの花束と鉢植えを持ち出して見せた。
「今から病院に行くなら運ぶのを手伝ってもらえるかしら?」
「構いませんよ」
ロサは快く頷くと、鉢植えを手に取った。
「チューベローズ……。本当に貴方みたいな花ね。ロサ先生?」
「おやおや、それは光栄です。貴方に紹介されて気に入った花ですから」
ロサはそう言うと、扉を開けた。
(今日は特別な日になるわ……)
リリーはそう考えると嬉しそうにまだ陽の出ない薄暗い世界へと足を運んだ。コランダムと初めて出会ったあの日を思い返しながら。
白と黒で包まれた世界の中でリリーは花屋を営んでいた。
「お嬢ちゃん!!私は赤のバラが欲しいって言ったんだ!これは青だよ!!」
小太りの女性が険しい表情でリリーにバラを投げつけた。バラの刺がリリーの腕を引っ掻き、リリーの腕から赤い血が流れた。
「ご、ごめんなさい。間違えて渡しちゃってたみたい……」
リリーは慌てて別のバラを手に取って女性に渡すと、女性は更に険しい表情を浮かべてリリーが手に持っていたバラを叩き落した。
「いたっ……!」
リリーが痛みに顔を歪ませた。女性は別のバケツからバラを手にすると、リリーに突き付けた。
「それは黄色だよ!!赤はこれ!!色が分からないのに花屋をしているなんて……!」
そう言いながら女性は銅貨を一枚テーブルの上に荒々しく置くと、店を後にした。
(やっぱり……色で分かるのは血の色だけなのね……)
リリーはそう思いながら、自分の腕から流れる赤い血を舐め取った。つんざくような鉄の香りが口の中に広がって鼻から外へと吹き抜けていった。ぞくりと背中に走った感覚にうっとりしながら、リリーはごくりと飲み込んだ。しかし、一時的な興奮が収まると一気に胸の奥から憂鬱な気持ちがこみ上げてきた。
「花なら色が分かるかもって思ったんだけどね……」
リリーの淡い期待を嘲笑うように、咲いている花たちの色がリリーの瞳に映ることは無かった。
(いっそ辞めてしまおうかしら……)
そう思いながらリリーは店の外へと出た。店の外に飾ってあった花のバケツを店内に運ぶために屈もうとした瞬間だった。一人の男が店の前を通った。リリーはピタリと動きを止めて、不意に男を見た。
(皺の一つないシャツやコート、磨かれた革靴……恐らくグルコン・フィールドの人間ではないわね……。こんなところに来るなんて刑事さんかしら……?)
服や靴から男を刑事と判断したリリーは何故か男に興味を持ち、声をかけてみることにした。
「そこの刑事さん、お花はいかが?」
リリーの声に導かれるように振り返った。
「……花を買うような男に見えるかい?」
そう言って自虐的に微笑みながらリリーを見た。リリーは自分に微笑みかけた刑事の顔を見て目を見開いた。
(赤い……瞳……)
刑事の瞳は正義感と生命力に満ち溢れているかのように赤く、美しく光り輝いていた。見つめているだけで鼓動が高鳴り。胸を締め付けられるような息苦しさを覚えた。
(綺麗……)
そう思い、見つめ続けてしまったリリーは、それが相手の瞳だということを思い出し、誤魔化すようにぷっと吹き出し、クスクスと小さな肩を震わせて笑って見せた。
「確かに、お花を買う人には見えないかもしれないわね」
刑事は自分よりも若い見た目の女性に笑われたのが不服だったのか、少しむっとした表情を見せた。リリーはそんな刑事を楽しそうに見つめ、続けて話した。
「お花を買うような人に見えないけれど、綺麗な瞳を持つ素敵な男性だってことは分かるわよ?」
「なっ……!」
リリーの言葉に動揺した刑事は咄嗟にリリーから視線を逸らした。店の前を通った時にしていた険しい表情が嘘のように刑事の気持ちを表情が物語っていることにリリーは愛おしさを覚えた。
「ふふっ、見た目よりも可愛い反応を見せるのね」
「……からかわないでくれ」
刑事は自分を恥じるように目を伏せた。
「あら、ごめんなさい」
リリーはくすくす笑いながら刑事に謝罪をした。
(人と話して楽しいと思えるなんて、久々かもしれないわね……)
刑事との会話で先程の憂鬱な気分を吹き飛ばされたかのように、リリーの気持ちは晴れやかなものへと変わっていった。すると、刑事はリリーに問いかけた。
「君の名前は?」
刑事のその言葉にリリーは小さく震わせていた肩をピタリと止めた。そして、少し悲しそうな顔をして目を伏せた。その様子を不思議に思った刑事は首を傾げた。
「……ごめんなさい。私は孤児だから名前が無いの」
リリーは刑事にそう話した。刑事はリリーの言葉が予想外だったのか、刑事は固まってしまった。
(嘘を吐きたくないから正直に話したけれど笑われちゃうかしら?同情で慰められるのも嫌ね……。やっぱり、普通にリリーと名乗れば良かったわ……)
リリーは刑事に本当の話をしたことを少し悔やんだ。すると、リリーの言葉を理解し終えた刑事は深々と頭を下げた。
「っ!!すまない、無神経なことをした」
「え、あ、大丈夫よ?ちゃんとした名前は無いけれど、私が勝手につけた名前で良いかしら……?」
刑事の頭の上から声をかける形でリリーは不安そうに問いかけた。
(まさか謝ってくるなんて……。真面目な人なのね……)
ゆっくりと頭を上げる刑事を見ながら、リリーはそう思った。
「名前に正しいも間違いもない。君の名前を教えてもらえるかい?」
リリーは優しくに微笑む刑事の言葉と蝋燭の炎のように優しく輝いた赤い瞳に目を奪われた。
(綺麗なのは、瞳だけじゃないのね……)
リリーがそう思うと同時に、自然と頬が緩んでいった。冷たくなっていたはずの何かが溶けていくのを感じながら、リリーは自分の名前を口にした。
「私の名前は、リリー。リリー・フリティラリアっていうの」
リリーの存在を認めるように刑事は頷くと、刑事も優しくリリーを見つめながら自分の名前を口にした。
「綺麗な名前だな、リリー。俺はコランダムだ。コランダム・ラトラナジュだ」
それがリリーとコランダムの初めての出会いであった。
リリーがコランダムとの思い出に浸っていると、チリリンという呼び鈴の音が店内に響いた。
(まだお昼にもなってないのにもう刑事さんが来たのかしら……?)
淡い期待を抱えたリリーは、少し足早に客を出迎えに向かった。すると、入口付近にはアナスの姿があった。
「あら、アナス先生」
「おはようございます。リリーさん」
出迎えたリリーを見たアナスは、嬉しそうに微笑んだ。
「珍しいわね。いつもは放課後や授業終わりに来るのに」
「今日は午後から授業ですので、その前にリリーさんを招待しておきたくて」
「招待?」
リリーが首を傾げながらアナスを見ると、一枚の便箋を手渡された。リリーは便箋を開けると、一枚の招待状らしき紙を取り出した。内容を読みながらリリーは口を開いた。
「……もう準備ができたのね。しかも、ローレイル校でやるなんて」
「本来であればもう少し早い段階で進めたかったのですが、質を落とすわけにはいきません」
アナスはリリーの言葉に少し残念そうな様子で頷いた。
「そう。参加者は私一人?」
「いいえ。あの芸術家も同じように招待しています」
「あら、そうなの?てっきり呼ばないのかと思ったんだけど」
リリーはアナスを見ることもなく、招待状を便箋に入れた。
「今回は特別なものを行う予定ですので、きっと分かってもらえるかと思います」
そう話すアナスはリリーの前まで歩み寄り、静かに跪いた。
「リリーさん、貴方に捧げられるものなら僕は何でも捧げます……。例えそれが僕の命でも……」
リリーを見上げるアナスの瞳は色の映らないリリーの瞳でも分かるほどにはっきりと狂気の色に染められていた。
「……ごめんなさい。私、同種には興味がないの」
リリーは、アナスを冷たく見下ろしながらそう話した。アナスはリリーの返答を知っていたかのようにリリーを見上げたまま薄く微笑んでいるだけであった。
(……吐き気がするわね……)
リリーは、そう思いながら静かにアナスから視線を逸らし、背を向けた。
「招待は受けるわ」
「ありがとうございます。では、当日お待ちしていますね」
アナスは嬉しそうに微笑みながら床についていた膝を立て、立ち上がった。
「えぇ。二十八日に会いましょう」
背を向けたまま短くリリーはそう返した。そして、遠ざかる革靴の音とチリリンという呼び鈴の音を背中に受けながら、目を細めた。
「気持ち悪いわね……」
リリーはそう吐き捨てると時計を見て時間を確認した。時間は既にコランダムと約束をしていた昼の時間となっていた。
「来れるわけ……ないわね。ロサ先生の芸術品の調査を行わないといけないんだし」
リリーはそう呟きながら、
時は遡って二日前の出来事。リリーが花の手入れをしていると美しい一人の女性が来店した。
「あら、いらっしゃいませ。ダイヤさん……だったかしら」
リリーは入口付近に立つ女性にそう話しながら出迎えた。女性はふんわりとした艶のある髪を揺らながら、リリーの方へ顔を向けると頷いた。
「はい。ダイヤ・ホープです」
リリーは、ダイヤの言葉に胸を撫で下ろして見せながら話し始めた。
「良かったわ。以前来店した方よね?今日はどんな花が欲しいのかしら?」
リリーは微笑みながらダイヤに問いかけた。ダイヤは少し気恥ずかしい様子で目を泳がせた。
「……恋人に送る花束を探していて……」
ダイヤは小さな声でそう話すとリリーは目を細めた。
「そうね……。赤いバラの花束が一般的だけど……」
ダイヤの相談に乗るように、リリーはそう話した。しかし、ダイヤは赤いバラは気に食わないのか、首を横に振った。
「できれば、彼に似合うお花が良くて……」
ダイヤは恥ずかしそうにそう告げながらも、とても幸せそうな表情をしていた。リリーはそんなダイヤを少し羨ましそうに見つめた後に、ダイヤの言葉を受け入れた。
「あら、とっても素敵なアイディア!でも、それなら私がその彼について知る必要があるわね……。ダイヤさん、今ってお時間空いてるかしら?」
「この後は予定も何もないですし、大丈夫ですよ」
「なら、少しお話しましょう?彼について教えて欲しいの」
「分かりました」
ダイヤは頷くと来客用の椅子に腰かけた。リリーはいつものように紅茶を淹れ始めた。ロサから貰った甘ったるい香りの紅茶と睡眠薬を混ぜると、店の中全体に甘ったるい紅茶の香りが広がった。
「良い香りですね」
「知人がくれたの。気に入ってくれると良いんだけど」
リラックスした表情のダイヤに紅茶を手渡すと、リリーは微笑んだ。リリーが紅茶を一口だけ口にふくむと、ダイヤもリリーに合わせて紅茶を一口飲み込んだ。
「あ、れ……?」
ダイヤがそう呟き、リリーを見た。
「……ごめんなさい」
リリーは口にふくんでいた紅茶をカップに戻して静かに呟いた。すると、ダイヤが持っていたカップが床に落ち、パリンと音を立てて割れた。
「終わったわよ、ロサ先生」
リリーがそう告げると、店の奥からロサは静かに現れた。
「相変わらず、手際が良い」
「お世辞は良いわ」
リリーを称賛するロサの言葉に対して、リリーは先程までダイヤに見せていたものとはまるで別人かのように冷たい態度を見せた。
「協力はしたわ」
「では、取引通りに。恋人のベリルさんも作品にしましょう。場合によってはあの異端者も……でしたね。気乗りはしませんが仕方ありませんね」
「頼むわね。ロサ先生」
ダイヤを抱きかかえたロサは、リリーの言葉に静かに頷くと、店を後にした。
ロサに花を届け終え、リリーが思い返していると、既に日が落ちかけていた。コランダムが来る様子は見られなかった。
「先に日記でも書こうかしら……」
そう呟き、リリーは店の奥でいつものように日記を記した。
【十二月二十五日。晴れのちに雪。今日は刑事さんに私の想いを伝えるの。夜になっても刑事さんが来ないから、先に日記を記しておくの。刑事さんは私の想いを受け取ってくれるかしら?少し緊張しちゃうわね。とっておきのプレゼントも用意したんだし、きっと……大丈夫よね?】
コランダムが今日は来ないかもしれないという気持ちが日記を書いている途中でこみ上げてきたリリーは、一人寂しく呟いた。
「……刑事さん」
すると、リリーの言葉に応えるようにチリリンという呼び鈴の音が聞こえた。呼び鈴の音がリリーの鼓膜に響くと同時にリリーの胸がドクンと鳴った。いつものように出迎える為に一度深呼吸をした後に、来客を出迎えた。入口付近で立っているコランダムを見たリリーは舞い上がりそうな気持ちを抑えつけてコランダムに声をかけた。
「あら、刑事さん。来たのね」
いつものようにリリーがコランダムに微笑みかけると、コランダムの頬の緊張が解けていくのが見てとれた。張りつめていた何かが解けたのか、コランダムは静かに話し始めた。
「リリー。君に聞きたいことがあるんだ」
「えぇ、刑事さん。私も話したいことがあるの」
リリーはそう言うと、ロサから貰った紅茶をいつものように淹れ始めた。甘ったるい香りが店全体に広がっていった。
「今日、ロサ先生と何故一緒にいたんだ?」
「チューベローズを届けるように依頼されていたの」
そう話しながら、リリーは紅茶をコランダムに手渡した。
「……そうか」
コランダムはほっと胸を撫で下ろすと、紅茶を一口飲んだ。リリーもコランダムに合わせて紅茶を一口飲むと、甘ったるい香りが口の中に広がり、鼻から抜けていった。
「刑事さん。チューベローズの花言葉ってご存知かしら?」
「チューベローズの……?」
リリーの問いかけの意図が見えないのか、コランダムは首を傾げて見せた。
(もう……鈍感な刑事さん)
コランダムの鈍感さに少し呆れつつも、その鈍感さを愛おしく感じたリリーはコランダムの言葉に頷いた。
「そう。チューベローズの花言葉」
リリーはいつものように微笑みながらも静かに話を続けた。
「チューベローズの花言葉はね?『危険な快楽』、『危険な楽しみ』、『危険な関係』、そして『冒険』なの」
「リリー……?」
嫌な考えが浮かんだのか、コランダムのリリーを呼ぶ声は少しだけ震えていた。リリーは変わらずいつものように微笑みながら、一つ一つ絡まった糸を解いていくよう語っていった。
「きっと、刑事さんは黒百合の花言葉が気になったはずよね?だって刑事さん、貴方は刑事だもの。そうでしょう?」
「……やめろ」
コランダムの何かを拒絶するような言葉を聞いたリリーは口角を上げた。リリーは、自分のことを白百合みたいだと話すベリルに対して首を傾げていたコランダムの様子を見逃がしはしなかった。
(あの時、刑事さんはきっと思ったはずなの……。【黒百合の殺人鬼】が事件を起こす度に見かけたあの花と私が似ているはずだって……)
リリーはコランダムの目の前に、事前に用意していた黒百合の花束を差し出した。コランダムと出会って以降、リリーは殺人を犯す度に花を添えるようしていた。愛するコランダムにこう感じてもらうために。
『黒百合はリリーみたいだ』
コランダムの表情は固まった。しかし、脳の理解が少しずつ追いついていくと表情が少しずつ変化していった。まるで、知りたくなかった現実を突きつけられた人間のような表情に。
「……愛しているわ。刑事さん」
そう話すリリーの表情はとても幸せそうだった。
(やっと……伝えられた……)
今まで隠していた気持ちを伝えたリリーの心には清々しいものがあった。やっとコランダムに自分のことを伝えられたリリーは、幸福感で胸がいっぱいになり、顔に熱が集まっていくのを感じた。しかし、コランダムはリリーの告白への答えを口にする前に『プレゼント』の内容が何であるのか分かったのか、店を飛び出した。
「気に入ってくれると良いのだけど……」
リリーは店を飛び出したコランダムの背中を眺めながらそう呟いた。




