二部 第二章 十二月十三日
【黒百合の殺人鬼】が現れてから十日が経過した。リリーはいつものように『フラワーショップ・リリー』の営業を行っていた。リリーはチューベローズの鉢植えの傍にしゃがみ込み、土に肥料をあげた。リリーの店の近くで【黒百合の殺人鬼】が現れて以降、コランダムは見回り以外でリリーに会いに来る回数が事件前よりも明らかに減っていた。
(会える時間が増えると思ったんだけどなぁ……)
リリーは自分が愛しい彼に守られ、自分が思われていることへの幸福感と【黒百合の殺人鬼】に愛しい彼が時間を奪われていることで【黒百合の殺人鬼】に対する不安がリリーの心を埋め尽くした。ぐるぐると自分の中を渦巻く感情にリリーは深いため息を吐いた。
「刑事さん……」
恋しそうに想い人のことを口にしながら、チューベローズにジョウロで水を与えた。小さな水の粒がきらきらと煌めいていた。リリーは顔を上げて窓の外に目を向けた。鈍色の雲が空に広がり、光を遮っていた。
「んもぅ……曇ってるじゃない……」
憂鬱そうにリリーは呟いた。光を遮られた窓の外はどこか不気味で、何かが訪れるような怪しい雰囲気を漂わせていた。
「ほんとうに……嫌な天気ね……」
リリーは目を少し細め、睨むように窓の外を見てボソリと話した。すると、チリリンと呼び鈴の軽やかな音が店内に鳴り響いた。眼鏡をかけた白衣姿の男が来店した。白衣姿の男はゆっくりと店内を見渡し、窓際にいたリリーを見つけると、微笑んだ。
「こんにちは、リリーさん」
「あら、いらっしゃい。ロサ先生」
リリーはチラリとロサに目を向けるも、すぐにチューベローズへと視線を戻した。その声はコランダムが来店した時よりも少し冷たかった。
「お客さんなのに……冷たくないかい?」
拗ねるようにリリーを見下ろした。
「あら、ごめんなさい♪」
リリーはすっと立ち上がり、貼りつけたような笑顔でロサの方へ体を向けた。
「良い紅茶を手に入れてね。良かったら……奥で話さないかい?」
ロサは話しながら、未開封の紅茶の箱を取り出して見せた。
「あら、嬉しいわ。奥へ案内するわね」
リリーは貼りつけた笑顔を剥がすことなく、奥の作業部屋へと案内した。
リリーはロサを作業部屋へと案内すると、貼り付けていた笑顔が、音もなく剥がれ落ちた。笑顔の下から表れたのは、氷のように冷めた表情であった。
「リリーさん、貴方は想い人にもそんな顔をするのですか?」
ロサはリリーが見せた冷たい表情をからかうように、リリーに話した。
「まさか。好きな人にはちゃんと笑顔でお話しするわよ?でも、貴方みたいな同類とは別でしょ?」
「同類、ですか……。確かに、貴方と私は同類と言っても過言ではありませんね」
「……それで?今日はどういった用件なのかしら?」
リリーはそう尋ねながらロサの方を向くと、ロサは口角をグニャリと曲げて話し始めた。
「実は、先日お邪魔した時にこちらに来店していた女性を作品として飾りたいのですよ」
「あぁ、ダイヤさんのことね……。とっても綺麗な人だから、貴方が気に入るのも分かるわ」
「そうです、そうなんですよ!」
ロサはリリーの言葉に激しく頷いたかと思うと、リリーの手を包んで、喜々として語り始めた。
「顔、声、立ち振る舞い全てが美しいんですよ!それは今までの女性も同じようなものですが……。何よりも彼女の瞳!あれほど美しいものは中々見られませんよ!!」
「……離してくださるかしら?」
リリーは声のトーンを一つ落とし、ロサに氷のように冷たい視線を送りつけた。
「……失礼しました」
リリーの冷たい態度によって我に返ったロサは、パッと手を離すと、謝罪の意味を込めて一礼した。リリーは頭を下げるロサを静かに見つめて、ロサの体温と手の感覚をスカートの布で拭いながら口を開いた。
「ロサ先生、貴方のお願いを聞いてあげたいけれど、ダイヤさんは私の知り合いの恋人なの。お願いを叶えるのは難しいわ」
「そうでしたか……。それは仕方ありませんね……」
ロサは残念そうに呟いた。
「分かってもらえたようで良かったわ」
スカートの布で手を拭い終えたリリーは、声のトーンを戻すとそう話した。
(何よりも美しい瞳……)
リリーはロサが絶賛するダイヤの姿を思い浮かべた。ふんわりとした髪、すらっとした体つき、上品な微笑みを浮かべるダイヤは絵画で描かれたようだった。
燃えるように赤く、生命に満ち溢れた瞳。白と黒で構成されたリリーの世界では、唯一光り輝く宝石であった。リリーはダイヤの瞳とコランダムの瞳を思い浮かべた。
(やっぱり、刑事さんの瞳程のものはないわね……)
リリーは心の中でそう呟いた。黙り込んでしまったリリーに、気になったロサはリリーに声をかけた。
「リリーさん?」
「……あら、ごめんなさい。少しだけ考え事をしていたわ」
我に返ったリリーは、ロサを見た。
「構いませんよ」
そう話して、ロサはダイヤの件についての提案を行うために続けて言葉を紡ごうとした瞬間に、チリリンという店の呼び鈴の音が聞こえた。
「あら……。ロサ先生、この件はまた後日にしましょうか」
「そうですね」
ロサとリリーは短い会話を交わすと、仮面を貼りつけ直した。
焦ったコランダムの声が店全体に鳴り響いた。
「っ……!リリー!いないのか!?」
リリーは、声を荒げて店内を見渡すコランダムに一歩、また一歩と歩み寄って行った。心配しているコランダムの声はリリーの心を躍らせた。高鳴る胸の鼓動を抑え込み、上がりそうな口角を無理矢理引き下げた。そして、そっとコランダムの様子を覗き込むように顔を出して声をかけた。
「……刑事さん?」
バッと振り返ったコランダムは、リリーの無事を確認できると胸を撫で下ろし、安堵のため息を吐いた。
「リリー、居たなら返事をしてくれ。心臓に悪い……」
コランダムはそう話すと、来店者用の椅子に座り込んだ。リリーは少し困ったように眉を下げ、微笑んで見せた。リリーは微笑みながら弁明するように話した。
「ごめんなさい。実は、ロサ先生の依頼で花束を作っていたの。患者さんの不安を癒してあげたいんですって」
「ロサ先生……?」
項垂れているコランダムはゆっくりと顔を上げ、リリーを見上げた。リリーの隣に立つロサの存在に気が付くと眉間に皺を寄せた。
「こんにちは。病院の事件以来でしょうか、コランダム刑事」
そう言ってロサは軽く一礼をするとコランダムも一礼をして返した。
「……奇遇ですね。ロサ先生」
ロサを警戒する姿勢を崩さないコランダムの様子を静かに見守っていたリリーは不思議そうに問いかけた。
「あら、刑事さんとお知り合いなの?ロサ先生」
リリーの言葉に頷いたロサは説明をするように口を開いた。
「病院で殺人事件が発生して、その時に特別捜査班であるコランダム刑事が捜査してくれていたんですよ」
「そうだったのね……。それなら、話して下さったら良かったのに」
「ロサ先生、あの事件の話を無関係のリリーに話すのは止めてもらえますか?」
リリーが納得したように頷くと、
コランダムは二人の会話を遮り、これ以上事件の話をしないようにするためにロサを睨みつけた。
「おっと……。これは失礼しました」
ロサはコランダムの睨みに動じることなく、降参とでも言うように両手を挙げるジェスチャーを見せた。
(全く……ロサ先生ったら……)
リリーは、コランダムの反応を楽しむロサに呆れるように小さなため息を吐いた。コランダムはリリーのため息に気付くことなく、気に食わないとでも言うように鼻を鳴らすと、リリーの方を向いた。
「事件の日から何か変わりはないか?」
心配するように自分に視線を送るコランダムに嬉しさと同時に心の中にあるくすぐったさを感じたリリーは、クスクスと楽しそうに笑いながら話した。
「えぇ、刑事さんが警戒を続けてくれているおかげかしら。最近はチンピラに絡まれることも減ったのよ?」
楽しそうに話すリリーの視界の端にロサの不気味な笑顔が入った。
「……あ、そうだったわ」
リリーは自然に見えるように思い出したかのような仕草を見せると、店の奥へと姿を消した。
「リリー?」
コランダムが不思議そうにリリーを呼ぶ声を背中に受けながら、慣れた手つきでチューベローズの花束を作り上げた。
(ロサ先生に悪戯されたら困るから、念の為に……ね?)
リリーはそう思いながら、メッセージカードとペンを手に取り、サラサラと書き上げた。
【十二月二十一日、来てもらえるかしら?今日の話はその日にしましょう】
メッセージカードに書かれた内容をリリーは確認すると、そっとチューベローズの花束の奥に忍ばせた。
(これで良いわね……)
リリーは花束を抱きかかえ、慌てたようにコランダムとロサの元へと向かった。
「刑事さんが慌てて私を呼んでいたから、すっかり忘れていたわ!」
そう言いながら、ロサにチューベローズの花束を差し出した。
「ロサ先生、頼まれていた花束よ」
ロサはチューベローズの花束を受け取ると、僅かに眼鏡の奥に潜む瞳を細めた。そして、大切そうに花束を持ち変えると、優しい微笑みを浮かべた。
「とても美しい花ですね。花の名前を伺っても?」
「チューベローズよ。甘くて素敵な香りがするから患者さんの心も癒せると思うわ」
チューベローズの花束から香る甘い香りがリリーの鼻をくすぐった。甘さの中に何か危険なものが潜むような感覚にリリーは目を細めた。
(チューベローズ……まるで、ロサ先生のような花なのよね……)
チューベローズの花束を抱きかかえるロサを眺めながら、リリーはそう思った。ちらりとコランダムを見ると、コランダムは昔のことを思い出すような表情でチューベローズの花束を見つめていた。
(ロサ先生は招待状を受け取ったことだし、大丈夫そうだけど……刑事さんに意地悪するのはいただけないわね……)
リリーは再度小さなため息を気付かれないように吐き出した。
ロサとコランダムが退店した『フラワーショップ・リリー』は静寂に包まれていた。店の奥は蝋燭一本の炎によって薄暗く照らされていた。
「今日はいろんなことがあったわね……」
今日の出来事を思い返しながら、日記とペンを取り出した。日記の表紙を撫でながら、ロサのことを睨むコランダムの姿を思い浮かべた。
「……刑事さんってロサ先生のこと嫌いなのね」
そう呟いたリリーは嬉しそうに唇を歪めた。そして、リリーの頭にロサの不気味な笑顔を思い出した。
「本当にやりにくい人……。刑事さんに手を出さなかったら、私が動くことは無いのを気付いていたわね……ロサ先生」
深いため息の後にリリーはハサミを手に取った。作業台に残っていた一輪のチューベローズの花にハサミを突き立てると、花びらがふわりと舞い上がった。
「……同類は殺さないの。殺してもつまらないもの」
リリーは怒気を孕みながら、苦しそうに呟いた。そして、大きく息を吸って吐いた。リリーの心にある黒い感情が少しずつ少しずつ薄れていくのを感じた。
「これで……大丈夫ね……」
薄まっていく感情を感じたリリーは薄く微笑んだ。日記とペンを手に取ると、今日の出来事を書き記していった。
【十二月十三日。曇り。ロサ先生がお店に来たわ。最近は病院でも人が亡くなることが多いみたい。患者さんの気持ちを和らげるためのお花が欲しいんですって。でも、刑事さんは彼が苦手みたい】
書き記し終えたリリーは、ふっと蝋燭の火を吹き消した。




