二部 第一章 十二月三日
夜明け前の人々がまだ寝静まっている時間帯、陽の光を拒むように貧民街グルコン・フィールドは仄暗さを纏っていた。そんな早朝にリリーの経営する花屋、『フラワーショップ・リリー』では開店準備が始まっていた。店の中からは花を運ぶリリーの楽しそうな鼻歌が優雅に鳴り響いていた。
「~♪~♪」
リリーは、軽やかな足取りで水の入ったバケツを運んだ。
「あら……?」
ふとバケツの水面に映った自分の顔をリリーは見つめた。水面に映ったリリーは恍惚な笑みを浮かべていた。
「いけない、いけない。私ったら……」
水面に映る自分を諫めるように呟くと、リリーはバケツをそっと床に置いた。そして自分の気持ちを引き締めるように両手で両頬をパシンと叩いた。
「今日は刑事さんが来てくれるはずだから、気をしっかり引き締めないと……!」
リリーはそう続けて言葉を紡ぐと、店の奥へと足を運んだ。店の奥の部屋には、手入れ用のハサミや花束用のリボン、ラッピングペーパーなどの仕事で使う道具が置かれており、作業台とは別で用意された木製のテーブルの上には、黒百合が挿された花瓶が置かれていた。リリーは黒百合を愛でるように優しく撫でた。
「早く会いたいわ……刑事さん」
静かにリリーの声が部屋に響くと、黒百合は彼女に答えるようにゆらりと揺れた。
少し陽が差し始めた頃に、リリーは店の扉を開き、外へと足を運んだ。外からツンとした鉄錆びの香りがリリーの鼻をくすぐった。リリーが一歩一歩歩みを進めていく度にコツコツと少しサイズの合わない黒のショートブーツの足音が静寂の中に鳴り響いた。鉄錆びの香りは店の近くからしたものよりも強い香りを放っており、リリーの視界には角の先で誰かが倒れているのか、足先が見えた。
「今日、私は事件の発見者になるの」
リリーは舞台に立つ主役にでもなったかのように呟いた。角を曲がり、広がっていた光景は、石畳の地面に倒れ、冷たくなった男の姿であった。既に助からない程の血が流れていた。足元に広がる血だまりが絨毯のように見えた瞬間、リリーの口角が上がった。
「きゃぁぁぁぁぁあ!!」
次の瞬間、リリーは近隣の住民たちに聞こえる程に大きく、甲高い声で悲鳴を上げた。そして、勢い良く石畳の地面に座り込むと、リリーの悲鳴を聞いた近隣の人々が窓を開ける音が聞こえた。
「なんだ……こんな朝早くから……うわっ!?」
「何よ……い、いやぁ!!誰か!殺人よ!」
リリーは、表情を隠すように俯いていた。静まり返っていたグルコン・フィールドの朝が騒然とし始めたのを肌で感じたリリーは震えていた。
「アンタ、大丈夫かい!?」
現場に駆けつけていた小太りの女性が、リリーの背中に手を置き、心配の言葉を投げかけた。
「……大丈夫です……びっくりしちゃって、動けなくなったみたいで……」
「大丈夫だよ、今市警の刑事さんを呼んでるからね!」
少し震えた声でリリーが女性に話すと、女性はリリーを励ますように話した。リリーは下を向いたまま、こくりと頷いた。
朝の事件から三時間くらい時間が経ち、グルコン・フィールドにも少しだけ陽の光が明るく差し込み始めた時間帯。リリーは何度も何度も刑事や治安維持局の人間に事件の話をしたが、その者達の中にリリーの想い人である刑事はいなかった。
「刑事さん……忙しいのかしら?」
リリーは、店の奥で黒百合を指先で突きながら溜息混じりに呟いた。すると、チリリンと軽やかな呼び鈴の音が店内に鳴り響き、赤い瞳を持つ刑事が来店した。
(やっと来てくれたのね……刑事さん)
リリーは来店した刑事、コランダム・ラトラナジュを見て嬉しくなり、微笑んだ。
「あら、刑事さん。いらしたのね」
リリーがコランダムに声をかけると、コランダムの赤い瞳がリリーを映した。
「リリー」
優しくリリーを呼ぶ声に、リリーは自然と頬が緩んだ。
「今日は朝からいっぱいの刑事さんが来たのよ。なんでも、近くで殺人事件が起きたの。だから、いっぱいお話してたんだけど、もしかしたら刑事さんも来るかもって思っていたのよね」
コランダムと話しているのが嬉しくなったリリーは、ふふっと声を漏らしながら話した。コランダムは心配そうにリリーを見つめて口を開いた。
「笑っている場合じゃないだろう?ここの近くで起きたんだ。君が狙われていたかもしれないんだぞ?リリー」
近くにあった来店客用の椅子に腰を掛けながらコランダムが漏らす言葉を、リリーは微笑みながら受け止めて紅茶を淹れた。
「殺人事件が起きたのは怖いけれど、私は平気よ?」
リリーはそう言いながら、紅茶の入ったカップをコランダムに手渡した。
「何故平気なんだ?」
受け取った紅茶を一口飲むとコランダムはリリーに問いかけた。ごくりと紅茶がコランダムの喉を通っていくのを見届けたリリーは、
少し恥ずかしそうにコランダムに話した。
「だって私には、刑事さんが居るもの」
リリーの言葉に驚いたように目を見開いたコランダムの赤い瞳が揺れ、恥ずかしさを誤魔化すようにリリーから視線を外した。
「ふふっ、可愛い人」
リリーは愛おしそうに言うと、コランダムは自分よりも年下に翻弄されているのが少し不服そうな表情を見せた。
「今回の殺人事件について、話を伺っても良いか?」
コランダムが真剣な視線を自分に向けるのを感じたリリーは、まるで舞台で演じる役者が役に入り込むように、すっと目を伏せた。
(いけない、私は第一発見者なのよね……)
リリーは心の中でそう呟くと、重々しい仕草で口を開いた。
「えっと……。いつも通り開店準備に向けて色々支度をしていたの。お店の中の掃除が終わって、外に花を出そうと思ってお店を出たら人が血まみれで倒れていたの……」
思い出すように顎に手を当てながら事件発見時の様子をリリーが話せば、コランダムはじっとリリーを見つめ、話を聞いていた。
(そんなに熱い視線を向けてくれるなんて……)
表情が緩みそうになるのを察知したリリーは少し俯いた。しかし、抑えきれない感情がリリーの手を僅かに震わせた。
(早く、この震えを止めないと……)
そう思ったリリーは両手に力を入れて震えを止めようとした。しかし、コランダムがリリーの両手を優しく包み込んだ。じんわりと指先から手のひら全体にかけて、温かいコランダムの体温がリリーに伝わった。ちらりとリリーがコランダムに視線を送ると、優しく励ますようにコランダムがリリーを見ていた。
(この人は……本当に優しいのね)
リリーはコランダムの意図を汲み取り、嬉しそうに微笑んだ。
「刑事さんってば……本当に優しいのね」
思ったことをそのままリリーは口にすると、コランダムは不器用ながらも優しく話した。
「誰だって、殺人を目の当たりにしたら恐怖に震えるさ。無理に取り繕う必要はない」
コランダムの言葉に静かにリリーは頷いた。
(取り繕わなかったら……貴方は私をどう思うのかしら……)
リリーはそう思うと胸の奥が傷んだ。自分にはまだ覚悟ができていないことを理解したリリーは静かに下唇を噛んだ。
「勤務中に花屋の店主とイチャイチャだなんて、良いご身分ですね~?コランダム先輩」
リリーは突然の見知らぬ声が聞こえ、顔を上げると、そこにはコランダムよりも少し若い刑事が立っていた。
「情報収集は終えたのか」
「はい。やっぱり手がかりが無かったので、現場の店主に話でも~と思っていた矢先に先輩が店主とイチャイチャしていたので~」
嫌味混じりにコランダムに話す若い刑事にリリーは少しだけ苦手意識を覚えつつも、リリーは会話の邪魔にならないように二人の会話を静かに聞いていた。
「ここの店主、リリーは俺の行きつけの花屋なんだ。知り合いの店主だから親密に見えるのは当然だろう」
「あー、はいはい。そういうことにしておきます~」
言葉を受け流すように若い刑事はコランダムに返事をすると、にこりとリリーに人懐っこい笑みを浮かべて自己紹介をした。
「初めまして。コランダム・ラトラナジュ先輩の後輩、刑事部特別捜査班のベリル・アクアです」
リリーもベリルの自己紹介に応えるために、軽く一礼をした後に自己紹介を行った。
「初めまして、ベリルさん。『フラワーショップ・リリー』の店主、リリー・フリティラリアです」
「リリーさん、良ければコランダム先輩と一緒に事件についてお話しても?」
ベリルの言葉に頷くと、不安そうに微笑みつつも口を開いた。
「えぇ、もちろん。大した手がかりになるのか不安ですけど……」
事件当初の一部始終を語り終え、リリーは喉を潤すために紅茶を一口飲んだ。
「……なるほど。事件当時、怪しい人は見かけませんでしたか?」
ベリルはリリーの話をメモしている手を止めて、リリーに問いかけた。
「……ごめんなさい、あの時はびっくりしちゃって……。でも、あの場には私以外いなかったと思うわ……」
リリーが悲鳴をあげる直前、そこに自分以外に誰もいないことを、リリーはキチンと確かめていた。リリーは記憶の欠片を辿るように視線を伏せ、静かにベリルに告げた。
「そうなんですね。お話してくれてありがとうございます」
リリーの話を頷きながらメモし終えたベリルは、パタンと手帖を閉じ、リリーに優しく微笑んだ。
「聞き取りはここまでにしておこう。話してくれてありがとう。必ず犯人を見つけ出す」
コランダムはリリーに誓いでも交わすかのように、真っ直ぐにリリーを見つめて話した。
(眩しい人ね……)
そう思いながらリリーは、頬を赤らめて頷いた。真っ直ぐリリーを捉えるコランダムの瞳がリリーには眩しく見え、思わず目を細めてしまった。
「ベリル。俺たちは刑事部に戻って調査を続けるぞ」
「はい、コランダム先輩」
コランダムとベリルは、もう一度事件について話してくれたリリーにお礼を伝えると、店を後にした。リリーは二人の背中が見えなくなるまで見送り、ふとコランダムの言葉を思い出した。
『必ず犯人を見つけ出す』
脳内に流れたコランダムの言葉にリリーは口角が上がった。既に見えなくなった刑事の背中に向かってリリーは言葉を放った。
「……早く、見つけ出してね。刑事さん」
言葉を放った後、リリーはそっと店の扉を閉めた。コツコツと足音を鳴らしながら、店の奥へと向かった。
「忘れないうちに記しておかないと……」
リリーはそう言って一冊の日記とペンを手に取って、今日起きた出来事を日記に記した。
【十二月三日。晴れ。私のお店の近くで殺人事件が起きたの。刑事さんにいっぱい事件について聞かれたわ。私のことが心配だったみたい。心配そうに見つめる刑事さんを見てたら嬉しくなって笑っちゃった】




