第3話:『ありがたし』はありがとうで、『いとしい』はかわいそう!? 〜古文は現代語とつながっている〜
「……だめです。これでは生徒たちが古典を『異国の言葉』として拒絶してしまいます……!」
放課後、夕陽が赤々と差し込むジパング高校の国語準備室。
私——式部紫乃は、教卓の上で採点済みの小テストの山を前に、深々と溜息をついていた。
平均点、38点。
昨夜、諾子が校庭で生徒たちに教えてくれた年号や敬語のテクニックで一部の点数は上がったものの、単語の意味を問う大問で壊滅していた。
「……そりゃそうよ。現代の高校生から見たら、『いとほし』だの『ありがたし』だの『あやし』だの、暗号にしか見えないんだから。単なる丸暗記に頼ろうとするから脳が拒絶反応を起こすのよ」
ソファでくつろぎながら、新作のデパ地下スイーツを頬張る清原諾子が冷ややかに言い放つ。
「ですが諾子さん! 古典の単語は、私たちが今話している日本語の『ご先祖様』なのです! 決して死語でも異国の言語でもありません。……どうすれば彼らに『古典と現代語は繋がっている同じ日本語なのだ』と実感してもらえるでしょうか……?」
私が頭を抱えた、その時だった。
カツン、カツンと、廊下からあの愛おしくも恐ろしい足音が近づいてきた。
「失礼します。式部先生、ちょっとよろしいですか?」
ガラリとドアが開き、夕陽の光を背に受けて光先生が現れた。
相変わらずの国宝級の美貌、爽やかな笑顔、そして漂う品格。自分の作品から飛び出してきた理想の推し・光源氏そのものの姿に、私の心臓が「ドキュン!」と跳ね上がった。
(ひ、ひひひひ、光様ぁぁぁーーーッ!?)
一瞬で脳内の言語野が焼き切れる。
「あ、あの……光先生……ッ! 本日はどのような……どのようなご用件で侍り……あ、じゃなくて、ご用件でしょうか……ッ!?」
必死で現代語を保とうとするが、声が上ずり、両手が謎の阿波踊りのような動きになってしまう。
「あはは、式部先生は相変わらず個性的で面白いですね」
光先生がクスリと微笑む。その笑顔の破壊力に、私の視界がピンク色の集中線で埋まった。
「実は、生徒の穂波さんたちから聞きました。式部先生が補講で熱心に教えてくださっているって。……僕、古典を教える式部先生の姿、すごく素敵だなと思って尊敬しているんです」
「そっ……!!????」
言葉が詰まった。
尊敬!? 光様(理想の推し)が……私を……尊敬……!?
「し、式部先生……?」
光先生が心配そうに距離を詰めてくる。すっと顔が近づき、その甘い香水の香りが鼻腔をくすぐった瞬間、私の脳内メモリが完全にオーバーフローを起こした。
「あ……あ……あ……っ!」
「式部先生!?」
「あ……『あやし』です……ッ!!」
「え?」
「光様の……光様のその美貌はあまりにも不可解で不思議で『あやし(怪し・奇し)』にございますればーっ!! あ、ありがたし! 滅多にない幸運で『ありがたし(有り難し)』にございますーっ!! ぐはっ!(※鼻血が出そうになって自爆)」
「えっ!? あ、あやしい!? ありがたい!? 僕、何か失礼なこと言いましたか!?」
パニックになる光先生。
そして私は、自分の膝に猛烈な勢いで頭を叩きつけるように深々と頭を下げ(というか崩れ落ち)、
「散じます! 今日も私はこれにて異次元へ散じますればーっ!!」
「式部先生ぇぇぇ!?」
光先生の制止を振り切り、私は再び逃走した。
準備室のドアを爆音で閉め、廊下を悲鳴を上げながら激走する。
……その一部始終を、ソファで動画を撮りながら観賞していた諾子が、お腹を抱えて床を転げ回っていた。
「ぎゃはははははは!! 『あやし』と『ありがたし』を推しへの告白に使った!! 腹痛い!! 1,000年前の文学者が推しの顔面拝んで語彙力失って古文単語連投してる!! 最高!!」
「ノ、ノコササン……ッ!! 撮るのをやめなさいと言っているでしょうが……ッ!!(壁に突っ伏して赤面死)」
しかし——この大醜態(ポンコツ事件)が、奇跡の突破口となった。
放課後の補講部屋。
逃亡先から連れ戻された私と、冷やかし半分で残った諾子の前に、落ちこぼれ3人組(歩実、由奈、怜)が座っていた。
「先生……さっき光先生の前で『ありがたし』とか『あやし』って叫んで逃げてたけど……大丈夫?」
歩実が心配そうに覗き込んでくる。
「うっ……うう……見られていたのですね……」
私が机に突っ伏して泣きそうになっていると、理系男子の怜が首を傾げた。
「あの……式部先生。さっき光先生に言っていた『ありがたし』って、現代の『ありがたい(感謝)』と同じ意味なんですか? でも古文単語帳には『滅多にない』って書いてありましたけど……」
その言葉に、私はガバッと顔を上げた。
「……そうなのです!! それです、怜くん!!」
「うわっ、ビックリした!」
私は黒板に大きな文字で【有り難し】と書き殴った。
「みなさん、古文単語を『死んだ昔の暗号』だと思っていませんか? 違います! 現代の私たちが使っている言葉は、1,000年前の言葉が形や意味を変えて生き残った“子供たち”なのです!」
私は熱を込めて、黒板チョークを走らせた。
「例えばこの『ありがたし(有り難し)』! 文字通り『有ることが難しい=滅多にない』という意味でした。ですが、滅多にない幸運や親切に出会った時、人は何と言いますか? 『こんな滅多にないことをしてくれて、感謝します』……そう! そこから現代の『ありがとう(感謝)』に意味が変化したのです!」
「へぇぇぇ……っ! 元は同じ言葉なんだ!」歩実が目を輝かせる。
「そうよ!」今度は諾子が腕を組んで前に出た。
「じゃあ、みんなが大好きな『いとしい(愛しい)』はどう思う? 古文の『いとほし』はね、実は『気の毒だ、かわいそうだ』って意味なのよ!」
「ええっ!? 『かわいそう』が『愛しい』になったの!?」由奈(SNS依存)がスマホの手を止めて驚愕する。
「そう! 『かわいそう、見ていられない、守ってあげなきゃ』っていう保護欲の感情が、1,000年の時を経て『愛おしい、大切だ』っていう恋愛感情に変化したの! 現代でも、ちょっとドジでかわいそうな男の人を見るとキュンとして『守ってあげたい!』って思うでしょ? あれと同じ心理変化よ!」
「わかるーっ!!」歩実と由奈が同時に叫んだ。
「推しが苦しんでたりポンコツだったりすると『守りたい!』って思うやつだ!!」
「でしょ!?」諾子がニヤリと笑う。
「古文単語はね、感情の変化の歴史なのよ! ほら、他にもあるわよ!
『あからさま』:現代は『明白』だけど、昔は『ほんの少し、かりそめに』!
『おのずから(自然と)』:これは昔も今も『自然に、ひとりでに』で全く同じ!
『あわれ』:現代は『かわいそう(ネガティブ)』だけど、昔は『しみじみとした感動』全般!
『やむにやまれぬ』:これは古文の文法(打消のぬ)がそのまま現代に残った慣用句!」
黒板に次々と書かれていく、現代語と古文単語の架け橋。
「……なるほど」
理系男子の怜が、メガネの奥の目を光らせた。
「暗号だと思って拒絶していましたが、現代語の『ルーツ』として意味の変化のロジックを追うなら、記号として記憶可能です。むしろ単なる暗記よりずっと頭に残る……」
「でしょう!?」
私はポンコツだったさっきまでの姿を一変させ、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「古文は、決して遠い世界の言葉ではありません。私たちが日々使っている言葉の、愛おしいご先祖様なのです。同じ日本語なのですから、怖がる必要は一切ありません!」
「「「おおおおおっ!! 式部先生、なんかカッコいいーーーっ!!」」」
生徒3人から歓声が上がる。
……その時、補講部屋の扉がそっと開き、様子を見に来ていた光先生が立っていた。
「……素晴らしい授業ですね、式部先生」
「ひょ、光様……ッ!?」
「現代語との繋がりから興味を持たせるなんて、本当に教え方がお上手だ。さっきの『あやし』や『ありがたし』も、僕を褒めてくださっていたんですね。……なんだか、すごく嬉しいです」
光先生が、花が咲くような極上の微笑みを私に向けた。
「ひ……ふへ……あ……っ」
せっかく格好良く決めた私の脳内メモリが、再び限界突破した。
「い、いと……いと、あはれ(しみじみと感動的)に侍り……ぐふっ!!」
私はそのまま鼻血を吹き出しながら、床へ盛大に崩れ落ちたのだった。
「ちょっと紫乃ちゃん!! 最後にまたポンコツに戻らないでちょうだい!!」
諾子のツッコミと、生徒たちの爆笑が放課後の教室に響き渡った。
(第4話へつづく)




