第14話:『をかし』と『あはれ』の境界線! 〜推しの解釈違いから始まる共通テスト読解術〜
「うぅ……須磨の浦の……藻屑……ぐぬぬ……」
放課後の進路指導室。パイプ椅子に突っ伏した私――式部紫乃は、教卓の冷たい天板に額を押し当てたまま、怨霊の如き低い呻き声を漏らしていた。
原因は昨日の大失恋(※光先生に「枕草子派」と宣告され、「紫式部本人に会いたい」と言われながら目の前で身元を明かせず自爆した事件)である。
「いつまで引きずってんのよ、この不憫な作家は」
隣の長机で、清原諾子がスタイラスペンを回しながら冷ややかに溜息をついた。紫の幾何学柄トップスに身を包んだ彼女は、タブレットの画面を指先で弾き、模試の過去問PDFを次々とスクロールしていく。
「光先生のあの発言、別にアンタを否定したわけじゃないでしょ。むしろ『高潔で深い影を持った孤高の天才』って、作家冥利に尽きる絶賛じゃないの。……まあ、今のアンタが『令和のプチプラ服を着て教卓の脚にすがりつく情緒不安定な女』だってバレたら、千年の恋も秒で急速冷凍されるでしょうけどね」
「うぐっ……!! 言葉の刃が……胸に深々と突き刺さり侍り……っ! だが諾子さん! 私の『あはれ』の美学が、あなたのあの軽薄な『をかし』のリアリズムに敗北したという事実は、断じて看過できません!!」
ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がる私。インナーカラーの入ったボブヘアを振り乱し、手にした万年筆を諾子へと突きつけた。
「だいたい、枕草子のどこがそんなにリアルなのですか! 春は曙が良いだの、夏は夜が良いだの、ただの季節のトレンド自慢ではありませんか! それに引き換え、我が源氏物語における人間の業、情念、ドロドロとした愛憎の葛藤こそが、真の文学的リアリティというものです!!」
「はぁ? 何を浅いこと言ってんのよ」
諾子が眉を吊り上げ、タブレットをドンと机に置いた。
「私の『をかし』はね、単なるトレンド自慢じゃないわ。目の前にある現象を客観的に切り取って、知性で面白がる“観察のリアリズム”よ! アンタの『あはれ』みたいに、いちいち感情移入してメソメソ泣き言を垂れ流すウエットなポエムとは知性の構造が違うの!」
「ポ、ポエムですってぇぇぇ!? なんたる無礼! 私の描く情念は、緻密に計算された心の因果応報です!!」
「はいはい、その情念で光先生に婚姻届突きつけようとして自爆した人が何を言っても説得力ゼロでーす!」
「ぎぎぎ……っ!!」
バチバチと二人の間に火花が散る。
その時、控えめに進路指導室のドアがノックされた。
「あ、あの〜……先生たち、入っても大丈夫ですか……?」
おずおずと顔を覗かせたのは、補講を受けにやってきた落ちこぼれ3人組――歩実、由奈、怜だった。
「入っていいわよ! ちょうどアンタたちの模試の読解演習を始めるところだったんだから!」
諾子が手招きし、3人がパイプ椅子に腰掛ける。
メガネの理系男子・漣怜が、机の上に広げられた共通テスト模試の問題冊子を見て、げんなりとした表情で眉間を押さえた。
「……式部先生、清原先生。次の模試の古典、やっぱり僕には論理が掴めません」
「あら、怜君。どのあたりが納得いかないのかしら?」
「この設問です。『傍線部における筆者の心情・美意識として最も適当なものを選べ』……。選択肢を見ても、『あはれ』と『をかし』の記述が混ざっていて、どちらもそれっぽいことを言っているように見えます。心情という曖昧な主観を、客観テストのマークシートで論理的に判別するなんて、定義が曖昧すぎて不可能じゃないですか?」
「……怜君」
私は涙の痕を拭い、黒板の前にすっくと立った。
背筋を伸ばし、チョークを握りしめる。
「よくぞ……よくぞその疑問を口にしてくれました! これは、まさに今の私と諾子さんの対立そのもの……共通テスト古典における最重要概念、【をかし】と【あはれ】の境界線です!!」
黒板に白と黄色のチョークで、大きく二つの単語が書き殴られた。
「怜君、あなたが『心情の主観』だと思っているものは、実は極めて明確な【認知のベクトル】の違いによって分類できるのです!」
「認知のベクトル……?」怜が眼鏡を押し上げる。
「そうよ!」諾子が教卓の前に進み出た。
「まず、私の『枕草子』を代表する【をかし】! 現代語訳すると『興味深い・趣がある・知的に面白い』。この言葉の最大の特徴はね、【知性的・客観的・外向き】な視点にあるのよ!」
諾子は黒板の【をかし】の横に『カメラのレンズ』のイラストを殴り書きした。
「例えば『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる』。これ、作者が『悲しい』とか『嬉しい』なんて主観の感情は一言も言ってないでしょ? 朝の光と紫の雲のコントラストを、高性能カメラでスナップ写真を撮るように“知的・視覚的”に面白がってるの。つまり、【をかし】が正解になる選択肢は、『知的な観察眼・情景への客観的な面白み・明るい肯定感』が軸になるのよ!」
「へぇぇぇ……! カメラのレンズかぁ!」
歩実が目を丸くしてノートにペンを走らせる。
「対して!!」
私がチョークを黒板に叩きつけた。カツン、と甲高い音が響く。
「我が『源氏物語』に通底する【あはれ(もののあはれ)】! こちらは、対象に触れて心が自然と揺れ動く【感情的・主観的・内向き】な情趣です! 語源は『ああ、はれ』という溜息の感嘆詞! 対象と自分を一体化させ、世の無常や人間の業に深く共鳴して『しみじみと心を痛める・感動する』境地を指します!」
私は黒板の【あはれ】の下に『心臓から溢れる涙』の図を描いた。
「つまり、選択肢を論理的に判別するアルゴリズムはこうです!
文章の中で筆者や作中人物が、
① 景色や仕草を外から眺めて『面白い・風情がある』と知的に観察していれば ➡【をかし】!
② 対象の運命や境遇に我が身を重ねて『しみじみと悲しい・切ない・胸を打たれる』と情に沈んでいれば ➡【あはれ】!
これらは決して混ざり合わない、対極の審美眼なのです!!」
「……なるほど!」
怜の瞳に、カチリと論理の火が灯った。
「【をかし】は事象を引いた視点から観測する“客観的フィルター”、【あはれ】は事象に自らを同期させる“主観的共鳴”。これなら、本文の描写が『視覚的・知的描写』に留まっているか、それとも『心情の吐露・情緒的共鳴』に踏み込んでいるかを追うだけで、選択肢のトラップを完全に二者択一で消去できます……!」
「その通りよ、怜君!」
由奈もスマホの画面から顔を上げ、感心したように呟いた。
「要するに、【をかし】はSNSで綺麗なカフェ写真に『この構図エモいw』って投稿する感覚で、【あはれ】は夜中に失恋ソング聴きながら『これ完全に私のことじゃん……泣く……』って病みポストする感覚ってことね?」
「「……ッッ!!」」
私と諾子は同時に目を見開き、そして息を呑んだ。
令和の女子高生の言語化、的確すぎてぐうの音も出ない。
「ま、まあ概ねその通りよ由奈ちゃん! 現代のSNSにも平安の美意識は完全に受け継がれてるってわけ!」
諾子がドヤ顔で腕を組む。生徒たちの表情から、共通テストの古典に対する「得体の知れない苦手意識」が急速に消え去っていくのが見て取れた。
「ありがとうございます、先生方。これなら、選択肢の紛らわしい記述に惑わされずに済みそうです」
怜が深く一礼し、3人が補講プリントの演習へと熱心に取り掛かり始めた。
指導者として、これほど誇らしい瞬間はない。私は万年筆を胸元に収め、小さく安堵の息を吐いた。
――その時だった。
からり、と進路指導室の扉が開いた。
「失礼します。皆さん、まだ残って勉強されていたんですね」
夕暮れの茜色の光を背に受けて現れたのは、光先生だった。
整った目元を柔らかく細め、爽やかな笑みを湛えたその姿は、相変わらず光源氏の再臨としか思えない国宝級の輝きを放っている。
「ひ、光先生……っ!?」
一瞬で私の心拍数がレッドゾーンを振り切った。
光先生は黒板に書かれた『をかし(カメラ)』と『あはれ(涙)』の板書を見上げ、感嘆の声を漏らした。
「すごいな……! 『をかし』の客観的な視知性と、『あはれ』の深い情緒的共鳴を、こんなにも明快に整理して生徒に教えていらっしゃるなんて。……昨日の式部先生のお話を聞いてから、僕も古典の美意識についてずっと考えていたんですよ」
「えっ……? わ、私の話を……?」
喉が引きつる。光先生はすっと歩み寄り、私の至近距離で、どこまでも優しく誠実な瞳を見つめてきた。
「ええ。『源氏物語』の持つ、人の業に寄り添う深い『あはれ』の心……それを現代の生徒たちにこれほどの熱量で伝えられる式部先生は、本当に素晴らしい教育者です。……なんだか、式部先生を見ていると、本当に千年前の紫式部さんが現代に現れて、僕たちに魂の言葉を届けてくれているような……そんな奇跡みたいな錯覚を覚えるんですよ」
――千年前の紫式部さんが、現代に現れて。
光先生のその無自覚で、あまりにも的確すぎる純粋な賛辞。
全身の血液が沸騰した。
嬉しい。尊い。そして何より――正体を隠さねばならない神の掟と、目の前で「その通りです私が紫式部です」と叫びたい衝動が、私の脳内で臨界核爆発を引き起こす!
「あ……あ……っ」
「式部先生? また顔が真っ赤ですが、大丈夫ですか……?」
心配そうに顔を覗き込んでくる光先生。その甘い香りが鼻腔をくすぐった瞬間、私の理性という名の十二単は跡形もなく吹き飛んだ。
「い、いと……いと、『あはれ』に侍りぃぃぃぃぃーーーッ!!」
「えっ!?」
「我が胸の内の『あはれ』がビッグバンを起こし……光様のその尊き御言葉に、我が魂は完全に成仏……! 『見し人の 煙となりし 雲居へも(※今すぐ煙となって天へ昇りたいです)』ーーーーッ!! ありがたし! をかし! あはれ! ぐふっ!!」
ドガッシャァァァン!!!!
私は尊さのあまり白目を剥き、進路指導室の掃除用具入れのロッカーに向かって頭から突っ込み、盛大に床へと沈没した。
「ちょっと紫乃ちゃん!! 講義で教えた『あはれ』を即座に回収してロッカーに突撃自爆するんじゃないわよーーーっ!!」
諾子の鋭いツッコミと、引き攣った笑顔で見守る生徒3人の視線の中、夕暮れの校舎に私の幸せな絶命の静寂が訪れるのだった。
(第15話へつづく)




