第15話:千年の風が吹く教室 〜私たちは、物語の中で生きている〜(最終話)
「――だから怜君、ここは『助動詞・む』の婉曲(〜のような)で取るのが一番自然なのよ! 文脈の主語がぼやけてる時は、前後の敬語の向きを矢印で引っ張りなさいって言ったでしょ!」
「なるほど……。直前の最高敬語が帝にかかっているから、この『む』は意志ではなく婉曲・仮定として処理すれば、選択肢2の矛盾が論理的に排除できるわけですね」
「そう! 怜君、飲み込み早すぎ! さすが私の理系男子!」
放課後の進路指導室。
机を囲んでいるのは、かつて古典も歴史も壊滅的だったはずの生徒三人――歩実、由奈、怜だった。
「ねえねえ由奈ちゃん、この年号のゴロ合わせ見て! これなら絶対に忘れないよね!」
「歩実、それ完全に式部先生と諾子先生の受け売りじゃない。……まあ、でも、確かにエモいし一発で覚えられるけど」
三人でノートを突き合わせ、笑い合いながら、自らの手で過去問の山を解き崩していく。
そこにはもう、「古典なんて暗号だし、自分には無理だ」と投げ出していた落ちこぼれの面影は微塵もなかった。
教卓の端で、その眩しい光景を眺めていた私――式部紫乃は、愛用のレザーノートを閉じ、ふっと口元を緩めた。
「……三人とも、本当に見違えましたね。最初は『作者の気持ちなんて選択肢に収まるわけがない』と憤慨した共通テストの問題も、今や彼らは論理と共感の翼で軽々と飛び越えていきます」
「当たり前でしょ。誰が教えてきたと思ってんのよ」
隣でタブレットの電源を落とした清原諾子が、いつものようにツンと顎を上げた。けれど、その切れ長の瞳には、生徒たちへの深い慈愛が溢れている。
「あの子たちはね、もう誰かに手を引かれなくても自分で走れるわ。……ねえ、紫乃ちゃん」
「はい、諾子さん」
「……気づいてるんでしょ?」
諾子が、そっと自分の右手をかざした。
その華奢な指先が、夕暮れの茜色の光に溶け込むように、淡い金色の粒子となって透け始めていた。
私の手も同じだった。長年親しんできた万年筆を握る輪郭が、蛍火のようにかすかに明滅している。
――アマテラス大御神の課したミッションは、達成されたのだ。
神の求めた「合格」とは、単にテストの点数を取らせることではなかった。
未来に怯え、学ぶことを諦めていた子供たちの心に火を灯し、「自らの意志で明日を掴み取る強さ」を取り戻させること。その誓いが果たされた今、私たちを現代に繋ぎ止めていた契約の糸が静かに解けつつあった。
「あ……」
顔を上げた歩実が、カタ、とシャーペンを取り落とした。
由奈が目を見開き、怜が息を呑んで立ち上がる。
「せ、先生……? なんで……手が透けて……!?」
「ちょっと、式部先生!? 諾子先生!? なにそれ、なんの冗談!?」
狼狽して駆け寄ってくる三人に、私は優しく首を振った。
いつものように光先生の前で赤面して卒倒するポンコツな私ではなく、千年の時を超えて言葉を紡ぎ続けてきた、ひとりの表現者として背筋を伸ばす。
「驚かせてしまって、ごめんなさいね。……ずっと隠していて、申し訳ありませんでした。私たちは、遠い千年前の平安の都から、神に命じられてこの時代へ降りてきた者です。……私が、紫式部。そして彼女が、清少納言です」
静まり返る教室。
歩実が、涙をぽろぽろとこぼしながら首を横に振った。
「嘘……嘘でしょ……? だって、先生たち、あんなに普通に怒ったり、光先生に告白して自爆したりしてたじゃん……っ! なんで消えちゃうの……!?」
「フフッ、嘘みたいよね。でもね、共通テストの選択肢に本気でキレ散らかしてたのも、ぜんぶ本物だったからなのよ」
諾子が笑いながら、歩実の頭をポンと優しく撫でた。
「歩実ちゃん、由奈ちゃん、怜君。よく聞きなさい。……あなたたちのこれからの道には、受験だけでなく、理不尽なことや悲しいことがたくさん待っているでしょう。でもね、決して忘れないで。『生きている』ということはね、いくらでもやり直せるし、いくらでもチャンスがあるということなのよ」
諾子の言葉に、私は深く頷いた。
「私たちの生きた平安の世では、身分や病、そして時代の大きなうねりの中で、自分の未来を自分で選ぶことすら叶わぬ人々が大勢いました。想いを歌に託し、耐え忍ぶことしかできなかった。……けれど、あなたたちは違う。あなたたちには、自分の足でどこへだって歩いていける、無限の未来があるのです。だから――どうか顔を上げて、自分の手でその未来を掴み取ってください」
「先生……っ、行かないでよ……っ!!」
由奈が泣きじゃくり、怜がメガネを外して拳を握りしめる。
その時、勢いよく進路指導室の扉が開いた。
「式部先生――!!」
息を切らし、肩を揺らして立っていたのは、光先生だった。
夕暮れの光の中で、光の粒子をまとう私たちを見て、彼はすべてを悟ったように足を止めた。
「光先生……」
その瞬間、私の体から、現代のカーディガンとボブヘアを包み隠すように、まばゆい光が溢れ出した。
光が晴れたとき、そこにあったのは――
萌黄と紅の絹が幾重にも重なり合う、優美で気品に満ちた本物の『十二単』。
背中まで流れる漆黒の黒髪と、雅やかな薫物の香りが、教室の空気を一変させていた。
隣の諾子もまた、華やかな紫と山吹の襲の十二単を纏い、神々しいまでの後宮の女房の姿へと戻っていた。
「……あぁ」
光先生が息を呑み、胸元に手を当てた。
「式部先生……あなたは、本当に……」
「光先生。……お会いできて、心から嬉しゅうございました」
私は涙の膜が張った瞳で、憧れ続けたその面影をしっかりと見つめた。
「あなたが、私の紡いだ物語を愛してくださったこと。人間の業や悲しみを包み込む『あはれ』の心を、美しいと言ってくださったこと……。千年の時を超えて、私の魂の、一生涯の宝物にいたします」
光先生は優しく、けれどどこか切なそうに微笑み、深く一礼した。
「……僕の方こそ、感謝しています。あなたのような気高く、温かい方に出会えた奇跡を、生涯忘れません」
教室の窓から、ふわりと千年前の宮廷を渡るような、優雅で清らかな風が吹き抜けた。
私たちの足元から、無数の光の蝶が舞い上がるように、身体が天へとほどけていく。
泣き叫びながら伸ばされる三人の手を、私たちは最後にしっかりと温もりの中で包み込んだ。
「寂しがるんじゃないわよ、みんな! 別に永遠の別れってわけじゃないんだから!」
諾子が、涙をこらえて最高の笑顔を弾けさせた。
「ええ、その通りです。教科書を開き、言葉に触れれば、私たちはいつでもあなたたちの隣にいます。――私たちは、『源氏物語』と『枕草子』の中で、ずっと生きているのですから!」
二人の声が重なり、満開の笑顔が教室を照らす。
「「それじゃあね!!」」
刹那、眩い光が弾け――二人の姿は、夕暮れの空へと完全に溶け去っていった。
静まり返った進路指導室。
教卓の上には、紫乃が愛用していた万年筆と、諾子のスタイラスペンだけが、仲良く寄り添うように残されていた。
歩実は涙を拭い、由奈は鼻をすすり、怜は静かに息を吸い込んで、再び机の上の問題集へと向き直った。
もう、迷いはなかった。
――数ヶ月後
都内の大型書店の一角に、高校の制服を着た歩実、由奈、怜の三人と、光先生の姿があった。
三人の手には、それぞれの第一志望大学の『合格通知書』が大切に握られている。
「あ、見て! 光先生、あったよ!!」
歩実が指差した特設コーナーには、美しく装丁された真新しい一冊の本が、高く平積みにされていた。
表紙には、現代の洋服を着て、お互いにぷいと横を向きながらも楽しそうに笑い合う、二人の平安歌人のイラスト。
『現代におりたる式部ポンコツで 諾子つっこむ学園コメディ』――
それは、千年前には決して交わることのなかった二人が、2026年の東京で共に笑い、共に怒り、生徒たちと駆け抜けた日々の記録。
三人が息を呑みながらその本を手に取り、そっと最終ページをめくった。
奥付の真ん中に、力強く、誇らしげに刻まれていたその文字を見て、四人は顔を見合わせ、晴れやかに微笑み合った。
執筆者:式部紫乃 / 清原諾子
(完)




